第九話:秘密の休日、あるいは無線機の届かない場所
第九話:秘密の休日、あるいは無線機の届かない場所
1. 完璧な「オフ」の計画
「いいですか、健太郎さん。今回の作戦……いえ、休日のテーマは『完全秘匿』です」
土曜日の早朝。凛はリビングで、一枚のしおりを掲げて宣言した。
そこには凛の丁寧な字で、分刻みのスケジュールではなく、ただ一言**『何もしない』**とだけ書かれている。
数日前の現場潜入事件を受け、署長から「佐々木、少し休め。お前の顔、今にも犯人を食い殺しそうだぞ」と強制的に二連休を言い渡されたのだ。健太郎も有休を合わせ、二人は「誰にも行き先を告げない旅」に出ることにした。
「スマホは、緊急時以外はダッシュボードの奥に封印。職場、学校、そして佐藤くん。すべての追跡を振り切ります」
「了解、司令官。僕も教え子たちには『探さないでください』って言っておきました」
二人は、普段のセダンではなく、あえてレンタカーの軽自動車を選んだ。顔なじみの交通課の同僚に車を見咎められないための、凛らしい徹底した「偽装」である。
2. 境界線を越えて
向かったのは、地図に辛うじて載っている程度の、山奥にある小さなキャンプ場だった。
電波は一本立つか立たないか。パトカーのサイレンも、チャイムの音も届かない、深い緑に包まれた場所。
「……空気が、美味しいわね」
凛は、動きやすいデニムにオーバーサイズのシャツという、完全な私服姿で大きく背伸びをした。肩から下げているのは拳銃ではなく、健太郎とお揃いで買った水筒だ。
二人は慣れない手つきでテントを張り、川のせせらぎを聞きながら椅子に腰を下ろした。
「凛さん、そんなに周りを警戒しなくて大丈夫ですよ。ここは私有地で、不審者は僕らだけですから」
「……そうね。つい、物陰を見ると伏撃ポイントを探してしまうわ」
苦笑いする凛の手を、健太郎が優しく包み込む。
「今日は、ただの『凛さん』でいてください。犯人もいないし、交通違反もありません。あるのは、美味しい空気と、僕がこれから焼く、ちょっと焦げる予定の肉だけです」
3. 贅沢な沈黙
日が落ちると、あたりは濃密な闇に包まれた。
焚き火の爆ぜる音と、虫の音。
都会の夜は「事件の気配」で満ちているが、この山の夜は「生命の静寂」で満ちていた。
「……健太郎さん」
炎を見つめながら、凛がぽつりと言った。
「私、今まで『止まる』のが怖かったの。止まったら、守るべきものが壊れてしまう気がして。でも……」
彼女は、健太郎の肩にそっと頭を乗せた。
「こうしてあなたと火を見ていると、止まっている時間も、前に進むための大切な一部なんだって思えるわ」
「そうですよ。滞空時間を伸ばすには、風を待つ時間も必要なんです」
健太郎は、昨日の紙飛行機の話を思い出したのか、穏やかに笑った。
その時、凛のポケットの中でスマホが震えた。
一瞬、彼女の身体が緊張で硬くなる。「職業病」が、出動要請ではないかと告げている。
「……出なくていい。今は、僕たちの時間だ」
健太郎が静かに制した。凛は数秒間迷ったが、やがてふっと微笑むと、電源ボタンを長押しして、完全に「沈黙」させた。
「……そうね。今は、あなたの奥さんとして、ここにいるわ」
4. 秘密の約束
翌朝。霧に包まれた森の中で、二人は朝露に濡れた道を散歩した。
見つかることを恐れず、誰の目も気にせず、しっかりと手を繋いで。
「ねえ、凛さん。もし、僕たちが定年退職したら、こんな風に毎日を過ごしましょうか」
「定年……。あと三十年近く先の話ね。その頃には、私も一本背負いなんてできなくなっているかしら」
「いいですよ。その時は、僕が肩を貸します。……あ、でもその前に、佐藤くんたちが立派な大人になって、僕たちを冷やかしに来るかもしれませんね」
二人は想像して、声を上げて笑った。
かつては「警察官」と「教師」という記号でしか出会えなかった二人が、今は一組の男女として、同じ未来を歩いている。
帰り道、車に乗り込む前に、凛は山に向かって小さく敬礼した。
「……リフレッシュ完了。明日から、また街を守るわ。あなたがいる、あの街を」
「僕も、明日からまた戦います。凛さんが帰ってくる、あの家を守るために」
レンタカーが山を降り、電波が戻り始めると、スマホには署からの「どこにいるんだ!」「月曜の当番忘れるなよ!」というメッセージや、生徒からの「先生、どこー!」という通知が溢れ出した。
けれど、二人は顔を見合わせ、いたずらっぽく笑っただけだった。
この秘密の二日間の思い出は、誰にも教えない。
二人の心の中にだけある、最強の「防弾チョッキ」なのだから。




