第七話:午前二時の境界線、あるいは守るべきもののために
第七話:午前二時の境界線、あるいは守るべきもののために
1. 静寂を切り裂く呼び出し音
午前二時十五分。
寝室のサイドテーブルに置かれた凛の公用スマートフォンが、激しいバイブレーションと共に闇を震わせた。
その瞬間、凛の意識は覚醒した。隣で穏やかな寝息を立てていた健太郎を起こさないよう、音速に近い速さで通話ボタンを押す。
「……はい、佐々木です」
結婚して苗字は変わっても、現場では今も「佐々木」として通っている。電話の向こう、通信指令室の緊迫した声が、凛の脳内に現場の地図を叩き込んだ。
『——管内、西三丁目の深夜スーパー。男が刃物を持って立てこもり。現在、負傷者一名。至急現場へ向かってください』
「了解。五分で現着します」
凛はベッドを抜け出し、暗闇の中で迷いなく制服に袖を通した。警察官の体は、深夜の出動を「非日常」ではなく「義務」として受け入れるようにできている。
「……凛さん?」
微かな衣擦れの音に、健太郎が目を覚ました。彼は半身を起こし、暗がりの中でネクタイを締める妻の背中を見つめる。
「……事件?」
「ええ。少し、行ってくるわ。戸締まりをしっかりして、あなたは寝ていて」
凛はホルスターのベルトを締め、最後に一度だけ健太郎の方を振り返った。昨夜、キッチンで紙飛行機を飛ばして笑い合っていた彼とは、今、住む世界が違う。今の彼女は、街の平和を維持するための「装置」だ。
「気をつけて。……絶対に、無茶しないで」
「……分かってる。行ってきます」
玄関の鍵が閉まる音が、深夜の静寂に重く響いた。
2. 臨場:殺意の漂う現場
現場のスーパーの周囲には、すでに数台のパトカーが赤色灯を回転させていた。深夜の住宅街に、不気味な赤が反射し、近隣住民が不安げに窓から様子を伺っている。
凛はパトカーから降り、防刃ベストの感触を確かめながら指揮所に駆け寄った。
「状況は!」
「犯人は二十代前半の男。サバイバルナイフを所持。店員一人をバックヤードに追い込み、立てこもっています。負傷した店長は救急搬送されましたが、命に別状はありません」
同僚の河野が、無線機を片手に険しい表情で説明する。
「動機は?」
「自暴自棄のようです。……先ほどから『誰でもいいから殺して俺も死ぬ』と叫んでいる」
凛は現場の入り口を見つめた。自動ドアは破壊され、床には商品が散乱している。
奥から、金属がコンクリートを叩くような嫌な音が聞こえてきた。犯人がナイフで棚を叩いているのだ。
「佐々木、お前は裏口の警戒に回れ。突入の合図を待て」
「……いえ、河野さん。私が交渉に入ります。あの中に取り残されている店員は、まだ十八歳のアルバイトです」
凛の瞳には、一切の迷いがなかった。彼女は、この街で働く人々を、学ぶ生徒たちを、そして家で待つ夫を守るためにここにいる。
「許可できません。相手は凶器を持っている」
「分かっています。だからこそ、時間を稼ぎます。……彼は、説得に応じる余地があるはずです」
3. 対峙:冷徹な刃と、温かな記憶
「……聞こえる? 警察官の佐々木です。あなたの話を聞きに来たわ。……武器を置いて、こちらに出てきなさい」
凛は防刃盾を構えず、両手を上げた状態で、ゆっくりと店内へと足を踏み入れた。店内は静まり返り、冷凍食品のケースが回る低い音だけが響いている。
「来るな! 来たらこいつを刺すぞ!」
バックヤードの影から、血走った目の男が現れた。左手で若い女性店員の髪を掴み、右手には鈍く光るナイフを握っている。
「落ち着いて。……あなたの要求は何?」
「要求なんてねえよ! 全部終わりなんだよ。仕事も、金も、誰も俺のことなんて見てねえんだ!」
男の叫びは、悲鳴に近かった。凛は一歩、また一歩と、一定の距離を保ちながら歩を進める。
男のナイフが、怯える店員の首筋に近づく。
「……見てるわよ。私が、今こうして、あなただけを見ているわ」
凛の声は、驚くほど穏やかだった。それは昨夜、健太郎が自分に向けてくれた声に似ていた。
「嘘つけ! 警察なんて、俺を捕まえることしか考えてねえだろ!」
「ええ、捕まえるわ。それが私の仕事だから。……でもね、あなたを『終わらせる』ためにここにいるんじゃない。あなたが明日、もう一度やり直せる場所へ連れて行くためにいるの」
凛は、腰に差した手錠を意識しながらも、言葉を紡ぎ続けた。
「昨日、私は家で紙飛行機を飛ばして遊んでいたの。夫が作った、不器用な紙飛行機。……彼もね、教師として、あなたみたいな若者と毎日向き合っているわ。……誰も見ていないなんてことはない。あなたが気づいていないだけで、あなたの滞空時間を、誰かがずっと見守っているはずなの」
男の動きが、一瞬止まった。
「……紙、飛行機……?」
「そう。風に流されて、地面に落ちることもあるわ。でも、また拾って飛ばせばいいの。……そのナイフを捨てなさい。まだ、墜落するには早すぎるわ」
4. 制圧:静寂の中の確保
男の目に、涙が溢れた。ナイフを握る手が震え、刃先が店員の首から離れる。
その一瞬の隙を、凛は見逃さなかった。
「……動くな!」
凛は地を蹴った。かつて高橋を投げ飛ばした時よりも鋭い、鍛え抜かれた身体能力。
男の右腕を掴み、ナイフを床に叩き落とすと同時に、体格の勝る男を鮮やかに床へ組み伏せた。
「午前二時五十分、現行犯で拘束! 応援、入れ!」
背後から河野たちが一斉に突入してくる。店員が救出され、男に手錠がかけられる。
男は抵抗せず、ただ子供のように泣きじゃくっていた。
「……怪我はないか、佐々木」
河野が声をかける。凛は乱れた制服を整え、深く息を吐いた。
「……はい。大丈夫です。……店員さんの保護を優先してください」
凛の手は、微かに震えていた。冷静を装ってはいても、一歩間違えれば命を落としていた現場だ。アドレナリンが引き、深夜の冷気が汗ばんだ肌をなでる。
5. 帰還:日常という名の奇跡
午前五時。空が白み始めた頃、凛は自宅の玄関を開けた。
リビングの明かりがついている。
「……起きていたの?」
ソファに座り、教科書を広げていた健太郎が顔を上げた。その顔には、隠しきれない疲労と心配が刻まれていた。
「寝られるわけないでしょう。……お帰り、凛さん」
健太郎は立ち上がり、凛の元へ歩み寄ると、制服のままの彼女を強く抱きしめた。
「……無事でよかった。本当に、無事で」
凛は、冷え切った自分の身体が、健太郎の体温で少しずつ解けていくのを感じた。
防刃ベスト越しでも伝わる、彼の心臓の鼓動。
「……ごめんなさい。……また、心配をかけたわね」
「いいよ。それが君の仕事で、君の正義だって知ってるから」
健太郎は、彼女の背中を優しく叩いた。
「……朝ごはん、作ってあるんだ。……紙飛行機は飛ばさないけど、ゆっくり食べて」
食卓には、温かい味噌汁と、彼が作った少し形の崩れたおにぎりが並んでいた。
数時間前まで、血の匂いと殺意の漂う現場にいたことが、嘘のように思える。
凛は、おにぎりを一口頬張った。
お米の甘みが、喉を通って全身に染み渡る。
「……健太郎さん」
「ん?」
「……今日の夕飯は、私が作るわ。……最高に滞空時間の長い、美味しいやつを」
「楽しみにしてるよ。……さあ、少し休んで。……君の滑走路は、ここにあるんだから」
二人の窓の外では、新しい一日が始まろうとしていた。
街の平和を守る警察官の凛と、未来を育てる教師の健太郎。
二人の戦いと日常は、これからも交互に、けれど確かに重なり合いながら続いていく。




