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『制服を脱いだら、恋でした。』  作者: 水前寺鯉太郎


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第六話:放課後のキッチン、あるいは滞空時間の長い愛

第六話:放課後のキッチン、あるいは滞空時間の長い愛

1. 巡査部長の「エプロン」という名の装備

結婚から三ヶ月。

佐々木凛——いや、高橋凛は、かつてない強敵と対峙していた。

それは、犯罪者でもなければ、交通違反車両でもない。

「サンマの塩焼き」と「出汁巻き卵」である。

「……よし。魚の向きは左頭。卵の巻きは……厚み三センチ、均一に」

夕方のキッチン。凛は、アイロンの効いた警察官の制服から、薄いピンクのエプロンに着替えていた。お団子ヘアはそのままに、しかしその眼光は、検問の際と同じくらい鋭い。

彼女にとって、料理は「目分量」という曖昧さが許せない精密作業だった。大さじ一杯はすりきり一杯。火加減は中火という名の規定温度。

「健太郎さんの帰宅まで、あと十五分。……現時点で、工程は八割完了。予定通り」

凛はふっと息をつき、タイマーを確認した。

警察署での勤務は相変わらず激務だが、最近は少しだけ、この「家庭」という現場に馴染んできている。自分が作ったものを、誰かが「美味しい」と言って食べてくれる。その平和な充足感は、犯人を確保した時の達成感とは全く質の異なる、じんわりとした温かさを持っていた。

2. 教室からの持ち込み品

「ただいま、凛さん。……いい匂いだ。今日は和食?」

玄関の開く音とともに、高橋健太郎の声がした。

「おかえりなさい、健太郎さん。……手洗いうがいを済ませたら、三分以内に食卓へ。今、卵を巻き終わりますから」

「あはは、相変わらず正確だなぁ」

健太郎はリビングに入ってくると、カバンを置いて、ネクタイを少し緩めた。

手には、学校での配布物だろうか、何枚かの色鮮やかなプリントを抱えている。

彼はキッチンに立つ凛の背中を眺めながら、ダイニングテーブルに座った。

夕飯を待つ間の、この静かな時間が彼は好きだった。換気扇の回る音、包丁がまな板を叩く規則正しいリズム。そして、自分を待っていてくれる妻の、少し丸くなった背中。

「……ねえ、凛さん。これ、知ってる?」

健太郎は、机の上に広げたプリントの一枚を手に取り、何やら器用に折り始めた。

「何ですか? ……今は、火加減から目を離せません」

「いいから、チラッと見てて。これ、今日クラスの生徒に教わった『よく飛ぶ紙飛行機』」

3. キッチンを横切る「不審物」

凛が最後の一巻きを終え、卵焼き器を火から下ろしたその時だった。

「行くよ。ターゲット、冷蔵庫の上のマグネット」

『シュッ』と、空気を切り裂く微かな音がした。

凛の視界の端を、白い物体が鮮やかな弧を描いて通り過ぎる。

それは、凛の肩のすぐ横をすり抜け、冷蔵庫の扉にピタリと当たってから、ふわりとシンクの脇に時着した。

「……っ!? 健太郎さん、危ないです!」

凛は反射的に、菜箸をまるで十手のように構えて振り返った。

「キッチンは火気も刃物もある場所です。……『飛行物体』の無断投入は認められません!」

「ごめんごめん。でも見てよ、今の滞空時間。凄くない?」

健太郎は悪びれる様子もなく、二機目の飛行機を折り始めている。

「……全く。学校で生徒たちと遊んでいる気分が抜けていないのではありませんか?」

「そうかも。でもさ、凛さん。……君の背中があまりにかっこよくて、つい。……なんだか、滑走路みたいに見えたんだ」

「滑走路……? 私の背中が、ですか?」

凛は眉をひそめた。警察官として「背中を任せられる」という褒め言葉は聞いたことがあるが、滑走路だと言われたのは人生で初めてだ。

「そう。いつもピシッとしてて、真っ直ぐで。……そこに、僕の『今の気持ち』を飛ばしたくなったんだよ」

健太郎は、完成した二機目の紙飛行機を、今度はそっと、凛の足元に向かって滑らせた。

4. 滞空時間の長い告白

凛は足元に落ちた紙飛行機を拾い上げた。

それは、彼が使い古した国語のプリントで作られた、少し不器用な、けれど翼の角度が絶妙に調整された飛行機だった。

「……健太郎さん。これ、プリントの裏に何か書いてあります」

凛が翼を少し広げると、そこには彼の柔らかな筆跡で、こう書かれていた。

『今日の夕飯も楽しみです。いつもありがとう。』

凛の胸の奥が、熱い出汁のようにじゅわっと温かくなる。

「……こんなこと、普通に言えばいいじゃないですか。わざわざ飛ばさなくても」

「普通に言うのもいいけど、こうして『届くのを待つ』のもいいかなって。……凛さんはいつも、事件とか違反とか、重いものを背負って帰ってくるでしょ? だから、たまにはこういう、紙一枚の軽さで届く言葉があってもいいかなって思ったんだ」

健太郎は立ち上がり、凛の背後に回ると、エプロンの紐をそっと整え直した。

「……凛さんが台所に立っている背中、僕は世界で一番好きだよ。だから、そこに向かって、何度でも飛ばすよ。僕の『好きだ』って気持ちを」

凛は、手に持った紙飛行機をぎゅっと握りしめた。

「……公務執行妨害です。……いえ、家の中ですから、これは……家庭内の『平和維持活動』ですね」

彼女は振り返り、健太郎の胸に小さく頭を預けた。

「……次、飛ばす時は、教えてください。……ちゃんと、私がキャッチしますから。背中で受けるんじゃなくて、正面で」

「了解。じゃあ、次の飛行計画は、食後のデザートの時かな」

5. 最後の飛行、あるいは二人の日常

夕食の食卓。

完璧な焼き色のサンマと、少し出汁の効きすぎた(けれど美味しい)卵焼き。

二人の間を、時折、健太郎が作った紙飛行機がゆらゆらと舞う。

「あ、また外れた」

「健太郎さん、重心が左に寄っています。……貸してください、私が構造を修正します」

結局、凛の方が熱心になってしまい、食後のリビングには十数機の紙飛行機が並ぶことになった。

「凛さん……それ、もう戦闘機みたいな形になってるよ。よく飛びそうだけど、ちょっと怖い」

「ルールと構造を理解すれば、飛行効率は最大化されます。……ほら、行きますよ」

凛が飛ばした一機は、リビングの端から端まで、驚くほど真っ直ぐに、そして長く、二人の未来をなぞるように飛んでいった。

窓の外は、静かな夜。

警察官の凛と、教師の健太郎。

二人の生活は、時に事件に、時に学校の騒動に翻弄される。けれど、このキッチンの温かさと、ふわりと舞う紙飛行機があれば、どんな強風の中でも、二人はきっと、同じ場所に着陸できる。

「……健太郎さん」

「ん?」

「……明日も、飛ばしていいですよ。……一機だけなら、着陸を許可します」

「……了解、奥様」

幸せな滞空時間は、これからも、この家の中で続いていく。

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