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『制服を脱いだら、恋でした。』  作者: 水前寺鯉太郎


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第五話:助手席の特等席、あるいは未来への法定速度

第五話:助手席の特等席、あるいは未来への法定速度

1. 緊張の向こう側

「……終わった。本当に、終わったのね」

助手席に深く腰を下ろし、佐々木凛は大きく息を吐き出した。

その視線の先には、つい数時間前まで滞在していた実家の門構えが、バックミラーの中で小さくなっていく。

「お疲れ様です、凛さん。……一時はどうなるかと思いましたけど」

ハンドルを握る高橋健太郎が、苦笑いを浮かべながら言った。

六ヶ月の交際を経て、二人が挑んだ「両家への結婚の挨拶」。高橋の実家は終始和やかだったが、問題は凛の方だった。

凛の父・厳一郎は、元・警視庁の要職を務めた厳格な男。挨拶の席では、高橋に対して「娘を守る覚悟はあるのか」「万一の際、君は盾になれるのか」と、さながらキャリア組の面接のような圧をかけてきた。

「父があんなに畳みかけるなんて。……高橋さんが『盾にはなれませんが、彼女が盾にならなくて済むような平和な家庭を築きます』って言い返した時、私、心臓が止まるかと思いました」

「必死だったんですよ、僕も。……でも、最後にお義父さんが『……いいだろう、健太郎君。娘をよろしく頼む』って言ってくれた時、実は膝がガクガクでした」

二人は顔を見合わせ、ふっと笑った。

張り詰めていた空気がようやく解け、車内には安堵の香りが広がる。

高橋の愛車――教師らしく、地味だが手入れの行き届いたシルバーのセダン――は、初秋の柔らかな日差しを浴びて、海岸沿いの国道へと滑り出した。

2. 職業病とドライブ

「……高橋さん」

「はい?」

「今の、合図不履行(ウインカーの出し遅れ)です。あと三秒早く出すべきでした」

ドライブが始まって十分。凛の「交通課」としての魂が、無意識に目を覚ます。

「あはは、すみません。気をつけます」

「それと、前方車両との車間距離。あと一メートル空けたほうが安全です。路面が少し湿っていますから、制動距離を考慮して……」

「……凛さん。今日は、お義父さんから解放された、僕たちの『勝利のドライブ』ですよ? 取り締まりは非番にしてください」

高橋が呆れたように笑うと、凛は「あ……」と口を押さえて赤くなった。

「申し訳ありません。……つい、癖で。あなたの運転が下手だと言いたいわけじゃないんです。ただ、あなたには絶対に事故に遭ってほしくないと思うと、視線が厳しくなってしまって」

凛は膝の上で手をぎゅっと握りしめた。

「私、怖いんです。誰よりもルールを守らせる立場にいながら、一番大切な人がルールに守られない事態になったら……って。……私、重いでしょうか」

高橋は赤信号で車を止めると、左手を伸ばして凛の手をそっと包み込んだ。

「重くないですよ。その厳しさが、凛さんの愛だって知ってますから。……でも、助手席に座っている時くらいは、僕を信頼して、外の景色を見ていてほしいな。今日は、僕が凛さんの『エスコート役』なんですから」

凛は、彼の温かい掌の感触に、こわばっていた肩の力が抜けていくのを感じた。

「……分かりました。では、次のパーキングエリアまで、私は『善良な同乗者』に徹します」

3. 海辺の「職務質問」

海岸沿いの展望台に車を止め、二人は潮風を浴びた。

水平線がキラキラと輝き、遠くではカモメが鳴いている。

「半年か。……長いようで、あっという間でしたね」

高橋が、フェンスに身を預けて呟いた。

「ええ。出会いは、あなたが一時停止を無視した時でしたね。……あの時は、まさか自分がその相手と結婚するなんて、夢にも思いませんでした」

「僕はあの時、なんて怖い警察官なんだって震えてましたよ。でも、切符を切るあなたの指が少し震えているのを見て、あ、この人は機械じゃないんだ、って思ったんです」

凛は照れくさそうに髪を耳にかけた。

「……そんなところまで見ていたんですか。……あの時は、あなたの顔が、あまりに情けなくて、でもどこか優しそうで。……違反は違反ですけど、言葉にするのが難しくて」

二人が思い出話に花を咲かせていると、近くに停まっていた派手な改造車の影から、数人の若者がこちらをチラチラと見ているのに気づいた。

「あ……。あれ、佐藤の仲間じゃないか?」

高橋が声を潜めた。

「……いえ、違うわ。私の管轄外だけど、あのナンバー、手配車両の特徴に似ている……」

凛の目が、一瞬で「氷の執行官」に変わる。

しかし、高橋がその肩を優しく叩いた。

「……凛さん。見てください、彼ら、ただ僕たちを見て『タカケンと佐々木さんだ!』って騒いでるだけですよ」

よく見ると、若者たちは怯えたような、それでいて興味津々な表情でこちらを伺っていた。

「え……? ああ、またあの時の拡散が……」

凛は脱力した。もはやこの界隈の「やんちゃな若者」たちの間で、二人はある種のレジェンドと化しているらしい。

「……もう、どこへ行ってもこれですね。私たち、隠し事はできそうにありません」

「いいじゃないですか。街中が僕たちの監視役です。……これなら、僕が浮気しようとしても、秒速で凛さんに通報が行きますから」

「……浮気? もしそんなことがあれば、即座に緊急逮捕の上、終身刑です。覚悟しておいてくださいね」

「はは、怖いなぁ。……でも、望むところです」

4. 未来への走行車線

帰り道。夕日がダッシュボードをオレンジ色に染めていた。

高橋の運転は、凛の指摘を受けたおかげか、より慎重で優しいものになっていた。

「凛さん。……苗字、変わるんですよね」

「……ええ。『高橋凛』。……まだ、少し実感が湧きません」

「僕は嬉しいですよ。僕の生徒たちが、みんな『高橋先生の奥さんは、あのカッコいい警察官なんだぜ』って自慢するようになるのが目に浮かびます。……あ、でも、たまに学校へお弁当を届けに来てくれたり……は、しませんよね?」

「公務中ですから、無理です。……でも、夕飯は、できるだけ一緒に食べられるように調整します。……私、料理はまだ……その、制服のアイロンがけほど上手くはありませんが」

「いいですよ、一緒に練習しましょう。……僕も、凛さんの仕事の忙しさは分かっているつもりです。事件があったら飛び出していく。……そんなあなたを、僕は家で『おかえり』って迎える盾になりますから」

凛は、窓の外を流れる街灯を見つめた。

今までは一人で守ってきたこの街。けれど、これからは帰る場所がある。

自分を待っていてくれる、温かな「心の法定速度」のような人がいる。

「……健太郎さん」

凛は初めて、彼の名前を呼んだ。

「はい」

「……愛しています。……取り締まりの対象にならないくらい、ずっと、ずっと」

高橋は少し驚いたように、けれどこれまでで一番幸せそうな笑顔を浮かべた。

「……了解しました。……僕も、愛しています。……オーバー・スピードには気をつけながら、ゆっくり幸せになりましょう」

車は、夜の帳が下り始めた街へと戻っていく。

テールランプの赤い光が、二人の進む道を優しく照らしていた。

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