第四話:湯煙の逃避行、あるいは想定外の職務質問
第四話:湯煙の逃避行、あるいは想定外の職務質問
1. 越境する二人の休日
「……本当に、いいんでしょうか。私、こんな浮かれた格好で」
休日の朝、特急列車の座席。佐々木凛は、自身の服装を何度も確認していた。
今日の彼女は、白のサマーニットにフレアパンツ、そして新調したばかりのキャスケットという、どこからどう見ても「旅行中の女性」だ。
「似合ってますよ、凛さん。ようやく『確保』や『連行』のない、本当の休日じゃないですか」
隣で駅弁の蓋を開けながら、高橋健太郎が優しく笑う。
前回の「学校拡散事件」から数週間。二人の交際は、良くも悪くも周囲の知るところとなり、半ば「公認」の状態になっていた。署でも学校でも冷やかされ続ける日々に耐えかねた高橋が、思い切って一泊二日の温泉旅行を提案したのだ。
行き先は、二人の管轄からも離れた、隣県の静かな温泉街。
ここなら、教え子にも、顔なじみの交通違反者にも、茶化してくる署員にも会うはずがない。
「そうですね。……今日だけは、巡査部長の肩書きは置いてきました」
凛はそう言って、高橋が差し出した卵焼きを少し恥ずかしそうに口にした。車窓を流れる景色は、都会の喧騒を離れ、鮮やかな緑へと変わっていく。二人の心は、これから始まる穏やかな時間に期待を膨らませていた。
2. 湯煙の向こうの「伏兵」
宿泊先の老舗旅館「翠明館」は、川のせせらぎが聞こえる絶好のロケーションだった。
チェックインを済ませ、それぞれの部屋(高橋の気遣いで、一応別々の部屋を取っていたが、食事は一緒というプランだ)へ荷物を置く。
「夕食の前に、一度お湯を浴びてきましょうか」
「ええ。では、一時間後にロビーで」
凛は、旅館の浴衣に着替え、タオルを手に大浴場へと向かった。
湯船に浸かり、目を閉じる。
(……幸せ。高橋さんと、こんなに静かな時間を過ごせるなんて)
しかし、その平穏は、脱衣所から聞こえてきた「あまりに聞き覚えのある声」によって無惨に打ち砕かれた。
「マジ受けるんだけど! この旅館、超インスタ映えじゃん!」
「佐藤、お前写真撮るのヘタクソなんだから、ちゃんと映える角度で撮れよなー」
凛は、湯船の中で凍りついた。
(……嘘でしょう?)
恐る恐る、湯気の間から脱衣所の方を覗き見る。
そこには、修学旅行の自由行動……にしては時期がおかしい、私服姿の佐藤と、その仲間たちがいた。どうやら、部活の大会の打ち上げか何かで、親のツテを使ってこの旅館に泊まりに来ているらしい。
(なぜ。なぜ、隣県の、こんな辺鄙な温泉街で……!)
凛は、警察官としての「直感」と「危機管理能力」をフル稼働させた。
今、ここで自分が上がれば、必ず彼らに遭遇する。そして、隣の男湯には……おそらく、高橋がいる。
(高橋さんに知らせないと。このままでは、また『確保』の二の舞になる!)
3. 男湯と女湯の間の「極秘通信」
凛は、タオルで体を隠しながら、大浴場の端にある「男湯との仕切り」の壁に近づいた。
周囲に誰もいないことを確認し、壁を小さくノックする。
「……高橋さん。高橋さん、いますか?」
隣の男湯から、バシャリと水音がした。
「……え、凛さん!? どうしたんですか、壁越しに」
「静かに! 声を抑えてください。……最悪の事態です。佐藤くんたちが、ここにいます」
「…………はい?」
高橋の、魂が抜けたような声が聞こえてきた。
「佐藤が……? なんで……いや、そういえばあいつ、週末にこの辺りでサッカーの遠征があるって言ってたような……」
「とにかく、今、ロビーで待ち合わせるのは危険すぎます。彼らが夕食会場に行くまで、私たちは各々の部屋で待機しましょう。これは、極秘任務です」
「凛さん、旅行に来てまで『任務』って……。でも、確かに見つかったら一生の語り草ですね。分かりました、了解です」
凛は、壁の向こうで高橋が溜息をつくのを感じながら、隙を見て脱衣所を脱出し、文字通り「忍び」のような動きで自室へと帰還した。
4. 部屋食の攻防戦
夕食。
本来なら食事処で豪華な会席料理を味わうはずだったが、二人は急遽、プランを変更して「部屋食」に切り替えてもらった。
凛の部屋に運び込まれた料理を前に、二人はようやく緊張の糸を解いた。
「……なんだか、密会してるみたいですね」
高橋が、苦笑いしながら日本酒をお猪口に注ぐ。
「申し訳ありません。私のプロファイリングが甘かったせいで」
「いや、凛さんのせいじゃないですよ。あいつらの行動範囲が異常なだけです」
浴衣姿の二人が、差し向かいで食事を摂る。
窓の外には、月明かりに照らされた川の流れ。
「……でも。こうして二人きりでゆっくり話せるのは、逆に良かったかもしれませんね」
高橋が、少し真剣な眼差しで凛を見つめた。
「凛さん。僕、今回の旅行で、伝えたいことがあったんです」
「……何、でしょうか」
凛の心臓が、温泉で温まった以上に鼓動を速める。
高橋が、懐から小さな小箱を取り出そうとした、その時だった。
『ドーン! ドドドド!!』
階下の廊下から、凄まじい騒音と、叫び声が聞こえてきた。
「おい、やめろよ佐藤!」「あ、ヤベっ、これ壊したのバレたらマジで怒られるって!」
凛の「警察官の目」が、瞬時に開いた。
「……高橋さん、今の音。器物損壊、あるいは喧嘩の予感です」
「凛さん、今は……!」
「放っておけません。もし、他の宿泊客に迷惑をかけていたら、それは私たちの『教育』と『治安維持』の責任です!」
凛は、浴衣の裾をたくし上げ、腰紐を締め直した。
「……行きますよ、高橋先生」
「……はい、はい。分かりましたよ、佐々木巡査部長」
高橋は、出すはずだった小箱を再び懐にしまい、深い溜息とともに立ち上がった。
5. 浴衣の「執行官」
廊下では、佐藤たちが案の定、酔った勢い(と言っても、中身はノンアルコールの甘酒だったようだが)で騒ぎ、飾り壺を倒しかけていた。
旅館の従業員が困り果てているところへ、浴衣姿の「最強ペア」が降臨した。
「そこまでよ!」
凛の凛とした声が廊下に響き渡る。
佐藤たちは、幽霊でも見たかのように固まった。
「げ……げげっ!! さ、佐々木さん!? なんでここに!?」
「それはこちらのセリフです。佐藤くん、公共の場での迷惑行為、さらには備品の損壊未遂。……覚悟はできているわね?」
凛の後ろから、高橋が影のように現れる。その表情は、普段の「優しいタカケン」ではない、テストを返却する時よりも冷ややかな「教師」の顔だった。
「佐藤。お前、遠征の夜に何をしてる。……顧問の先生を呼ぶ前に、自分たちで全部片付けて、被害者に謝罪しなさい。……それとも、今すぐ佐々木さんに署まで連行してもらうか?」
「……ごめんなさい!!」
生徒たちは、脱兎のごとく掃除用具を取りに走り、従業員に平謝りした。
その完璧な連携プレイに、周囲にいた他の客からは、なぜか拍手が沸き起こった。
6. 月明かりの約束
騒動が収まり、再び静寂が戻った深夜。
旅館の広縁で、二人は夜風に当たっていた。
「……台無しですね。結局、最後まで『仕事』をしてしまいました」
凛が、申し訳なさそうにうつむく。
「いいえ。……やっぱり、僕たちのデートはこうでなくっちゃ」
高橋が笑いながら、再び懐からあの小箱を取り出した。
「凛さん。僕、あなたと一緒にいると、毎日が刺激的で、温かくて、誇らしいんです。……警察官としてのあなたも、ただの女性としてのあなたも、全部守っていきたい。……と言っても、物理的には僕の方が守られてばかりですが」
高橋が小箱を開けると、そこには慎ましいが美しいリングが光っていた。
「……これからも、僕の隣で、この街と、僕を『確保』し続けてくれませんか?」
凛の目から、一筋の涙がこぼれた。
彼女は、力強く、けれど震える手で、その指輪を受け取った。
「……喜んで。ただし、執行猶予はありませんよ。一生、私の監視下で、幸せになってもらいます」
夜の温泉街に、遠くから川の音が聞こえる。
それは、不器用で、正義感に溢れた二人の、新しい門出を祝うメロディのようだった。




