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『制服を脱いだら、恋でした。』  作者: 水前寺鯉太郎


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第十九話:夢の迷走、あるいは片肺のランナー

第十九話:夢の迷走、あるいは片肺のランナー

1. 境界線の向こう側

四十九日という一つの区切りを過ぎ、季節は容赦なく本格的な冬へと向かっていた。

かつて健太郎と二人で過ごしたマンションの空気は、暖房を何度に設定しても、どこか芯から冷え切っているように感じられた。凛は、独りきりの静寂に耐えられなかった。静かすぎると、脳裏にあの日の病室のモニターの音が、アスファルトを叩く雨の音が、そして彼が息を引き取った瞬間の「重すぎる沈黙」が蘇ってくるからだ。

凛は、日々の過酷なパトロールに自らを投じた。以前よりもさらにストイックに、自分を追い込むようにして街を駆け抜けた。深夜の当番を志願し、不審者の追跡や事務作業に没頭する。体が悲鳴を上げ、思考が麻痺するまで自分を酷使すること。それが、今の彼女にできる唯一の「延命処置」だった。

その夜も、凛は冷え切ったベッドに倒れ込むようにして眠りについた。

眠りというよりは、意識の断絶。思考が完全に止まるのを待つようにして、彼女は深い闇へと沈んでいった。

そして、その夢を見た。

そこは、現実世界の重力も色彩も存在しない、ただ真っ白な世界だった。

どこまでも、どこまでも続く、地平線の見えない白い滑走路の上に凛は立っていた。風はないのに、空気が微かに震えている。

視界の先、陽炎のようにゆらゆらと揺らめく影があった。

凛は目を凝らした。見間違うはずのない、なで肩の、少しだけ猫背気味の、頼りなげで、けれど誰よりも愛おしい背中。

「……健太郎さん?」

喉の奥から絞り出した声が、白濁した世界に響く。

影が、ゆっくりとこちらを振り返った。

そこにいたのは、血に染まった姿でも、苦しげな表情でもなかった。あの凄惨な事件が起きる前、新婚旅行の計画を立てていた時のように、穏やかで柔らかな笑顔を浮かべた健太郎だった。

「健太郎さん!!」

凛は絶叫し、彼の方へと駆け出した。ようやく会えた。この悪夢のような現実が、本当は夢だったのだと彼に言いたかった。その体を強く抱きしめ、二度と、二度と離さないと誓った指先に力を込める。

しかし、凛が触れようとした瞬間、健太郎はふわりと身を翻した。まるで、掴もうとすると逃げていくシャボン玉のように、彼は軽やかに遠ざかっていく。

「待って! どうして逃げるの!? 健太郎さん、私よ! 凛よ!!」

凛は必死に地面を蹴った。

警察官として、どんな凶悪犯も逃がしたことのないその脚力。アカデミー時代からトップを走り続けてきた、彼女の自慢の足。彼女は全力で、心臓が破けるほどの速度で彼を追った。

けれど、健太郎はひらひらと舞う紙飛行機のように、捕まりそうで捕まらない絶妙な距離を保ちながら、白濁した世界を駆けていく。

2. 追跡の果て

どれほど走っただろうか。

現実の世界であれば、もう数キロは移動しているはずだった。息が切れる。肺が焼けるように熱い。冷たいはずの白い世界の空気が、喉を通るたびにナイフのように突き刺さる。

それでも凛は止まらなかった。止まれるはずがなかった。

彼に聞きたいことが山ほどあった。伝えられなかった「ありがとう」も、あの時飲み込んだ「愛してる」も、そして自分だけが生き残ってしまったことへの、救いようのない謝罪も。まだ何一つ終わっていない。私たちの物語を、こんなところで終わらせてたまるものか。

「お願い……止まって……行かないで!!」

凛が全霊を込め、指先を精一杯伸ばした瞬間。

前方を走っていた健太郎の足が、何かに躓いたように、あるいは電池が切れた玩具のように、唐突に止まった。

凛はブレーキをかけることも忘れ、そのままの勢いで彼の背中に激しく衝突するようにしがみついた。

「……捕まえた。やっと、やっと捕まえたわ……健太郎さん……」

凛は彼の背中に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。

コート越しに伝わる体温。わずかに香る、彼が愛用していた石鹸の匂い。

「どうして……どうして逃げるの? 私が嫌いになった? それとも、私があなたを守れなかったから、怒っているの? 私を置いて、一人でどこへ行こうとしていたの……?」

健太郎は、凛の腕の中でゆっくりと、困ったように振り返った。

その顔は、激しく走ったせいか少しだけ青白く、呼吸もわずかに乱れていた。けれど、その瞳には憎しみも怒りもなく、いつもの、凛を包み込むような優しい笑みを湛えていた。

「……ごめんね、凛さん。逃げるつもりなんて、これっぽっちもなかったんだよ」

「嘘よ、あんなに速く走って……。私を突き放そうとしていたじゃない」

凛が涙で顔を汚しながら詰め寄ると、健太郎は自分の胸元にそっと、愛おしそうに手を当てた。そして、かつて彼が数学の難問を解いた時や、凛に冗談を言う時のような、少しおどけた、優しいトーンでこう言った。

「……あのね、凛さん。僕は今、肺が一つしかないから。……あんまり速くは走れないんだよ。だから、逃げ切るなんて、最初から無理だったんだ」

3. 記憶の断片、愛の重さ

凛は、言葉を失った。

「肺が、一つ……?」

その言葉の意味が、彼女の脳内で幾層にも重なって響いた。

それは物理的な意味だったのだろうか。あの凄惨な事件の夜、ナイフが彼の体を貫いた時、その刃が彼の肺を、そして生命の根源を破壊したことを指しているのか。あるいは、もっと精神的な比喩なのか。彼という「半分」を失った彼女が、今まさに片肺だけで苦しそうに呼吸をしていることの裏返しなのか。

「そう。だからね、一生懸命走っても、すぐに息が切れちゃうんだ。君に追いつかれないように、かっこいいところを見せようと必死だったんだけど……やっぱり、現役の警察官には敵わないな」

健太郎は、凛の頬を伝う大粒の涙を、大きな、温かい親指でそっと拭った。

その手の感触は、驚くほどリアルで、切なかった。

「君は、僕の分まで呼吸をして、僕の分までこの街を走らなきゃいけない。……肺が一つしかない僕を、君がずっと、その心の中で連れて歩いてくれているから。僕の片方の肺は、今、君の中にあるんだよ」

「健太郎さん……」

「だから、時々こうして、僕が先に行って、君を引っ張ってあげなきゃって思ったんだ。君が立ち止まってしまわないように。君が、呼吸することを忘れてしまわないようにね」

凛は、吸い寄せられるように彼の胸に耳を寄せた。

そこからは、ドクドクという心音に混じって、微かな、けれど確かな「風の音」が聞こえた。

それは、彼がかつて言った言葉の残響のようだった。

「……苦しくないの? 一つだけで、辛くないの? 私を置いていくのは、そんなに簡単なことだったの?」

「平気だよ、凛さん。君が吸い込む空気が、風に乗って僕のところまで届いているから。……世界に風が吹いている限り、僕は君の隣で、ちゃんと呼吸を続けていられる。だから、君が苦しそうに息を止めるのが、一番困るんだ」

健太郎は彼女の頭を優しく撫で、その姿がゆっくりと、白濁した光の中に溶け込み始めた。

「さあ、もう行かなくちゃ。空気が薄くなってきた。……凛さん、君の肺に、新しい風を詰め込んで。僕と一緒に、また明日を走ろう」

4. 覚醒の朝

「健太郎さん!!」

自分の叫び声で、凛は跳ねるように目を覚ました。

心臓が喉から飛び出しそうなほど激しく打っている。視界に入ってきたのは、見慣れた、けれどあるじを失った静かな寝室だった。

頬を伝う涙は、夢の中の熱を帯びたまま、まだ温かい。

窓の外からは、夜明け前の蒼い光が差し込んでいた。

しんとした部屋には、自分以外の誰の姿もない。けれど、自分の肺に、冬の冷たく鋭い空気を深く吸い込んだ瞬間、凛はこれまでにない不思議な感覚に包まれた。

左の胸、心臓のすぐ裏側に。

自分の激しい鼓動とは別の、静かな、なぎのようなリズムが刻まれているような。

自分が吸い込むこの冷たい空気が、気管を通って肺に満ちるたび、それがどこか遠い場所にいる彼に、光の糸のように繋がって届いているような。

「……肺が、一つ……」

凛はベッドの縁に腰掛け、自嘲気味に、けれど愛おしそうに笑った。

夢の中の彼は、最期まであの「健太郎さん」のままだった。ユーモアを忘れず、不器用な言い訳をして、悲しみに沈む彼女を何とかして笑わせようとした。自分が彼を失った絶望で呼吸を忘れているのを見て、あんな不思議な話を創り上げたのかもしれない。

凛は立ち上がり、窓の鍵を外した。

重いアルミのサッシを開けると、冬の、凍てつくような鋭い北風が、部屋の中を一気に通り抜けた。

「……了解したわ、健太郎さん」

彼女は、自分の胸を強く、手のひらで叩いた。

「あなたの分の呼吸も、私が引き受ける。あなたが、もう速く走れないって言うなら……私があなたをこの胸に抱えて、あなたが守りたかったこの街を、どこまでも走ってあげる」

その瞬間、風が彼女の髪を激しく揺らした。それはまるで見えない彼が、彼女の背中を力強く押したかのようだった。

5. 二人で吸う空気

その日の朝のパトロール。

交番の前に立つ凛の姿は、昨日までの「何かに追われるような悲壮感」が消え、どこか軽やかで、凛としたものに変わっていた。

「佐々木巡査、おはようございます。……今日はなんだか、顔色がいいですね」

同僚の河野が、不思議そうに声をかけてくる。凛は、冬の澄み切った空を見上げ、眩しそうに目を細めて微笑んだ。

「ええ。……一人分の呼吸じゃもったいないくらいの、いい風が吹いていますから。しっかりと吸っておかないと」

「……? 相変わらず、変なことを言いますね」

河野が苦笑しながらパトロールに出て行く背中を見送り、凛は大きく、本当に深く空気を吸い込んだ。

彼女の肺に取り込まれた酸素は、血流に乗って全身を巡り、彼女の心の中に住む「片肺のランナー」へと届けられる。

風が吹く。

彼女の制服の裾が揺れる。

一歩、また一歩とアスファルトを踏みしめるたび、彼女の鼓動は彼の記憶と共鳴する。

二人の呼吸が、時空を超えて重なる。

凛は、今日も街を駆ける。

一人でありながら、決して一人ではない。

この世界の空気を、彼と共に、一つになった肺で分かち合いながら。

彼女が守るこの街の風の中に、健太郎は今も、そしてこれからも、彼女の隣を走り続けているのだ。

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