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『制服を脱いだら、恋でした。』  作者: 水前寺鯉太郎


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第十八話:風の言霊(ことだま)、あるいは永遠の交信

第十八話:風の言霊ことだま、あるいは永遠の交信

1. 静寂の部屋に差す光

健太郎の四十九日を明日に控えた、その午後。

高橋凛は、かつて二人で選んだカーテンが揺れるリビングの真ん中に立っていた。

降格処分を受け、再び一介の巡査として交番勤務に戻ってから、彼女の日常は「一歩一歩」を噛みしめるようなものに変わっていた。華々しいキャリアも、事件解決の功績も、今の彼女には必要なかった。ただ、健太郎が愛したこの街の平和を守り、彼が「おかえり」と言ってくれたこの部屋を、彼が帰ってきても恥ずかしくないように整えておくこと。それが、今の彼女のすべてだった。

窓を開け放つと、外からは公園で遊ぶ子供たちの声や、遠くを走る車のエンジン音が、生活の断片として入り込んでくる。

「……掃除、終わったわよ。健太郎さん」

独り言を言うのが癖になっていた。

誰もいないはずの空間に向かって声を出す。それは寂しさを埋めるためではなく、そこに彼が「いる」と信じるための儀式だった。

凛は掃除機を片付け、ふとリビングのソファに腰を下ろした。そこは、健太郎がいつも新聞を読んだり、不器用な紙飛行機を折ったりしていた、彼の「特等席」だった。

2. 蘇る「最期の約束」

ふいに、一陣の風が窓から吹き抜けた。

それは、ただの自然現象のはずだった。しかし、その風が凛の首筋を撫でた瞬間、彼女の脳裏に、封印していたはずの「あの瞬間」の記憶が、鮮烈な色を持って蘇ってきた。

それは、白い病室。

数時間後に訪れる永遠の別れなど、誰も信じていなかった、あのひとときの静寂。

刺された傷の痛みで、顔を歪めていた健太郎が、不意に、本当にぼそっと、呟いた言葉。

『……凛さん、風が吹いたら、思い出して。僕は風になって、君をずっと見守っているよ』

あの時、凛は「縁起でもない」と彼を叱り飛ばした。

警察官として、常に「最悪の事態」を想定して動くのが彼女の仕事だったはずなのに、あの時だけは、その可能性から全力で目を逸らしていた。

「……どうして、あんなこと言ったのよ」

凛は目を閉じ、その声をもう一度、心の奥底で反芻した。

健太郎の声は、いつも穏やかで、少しだけ情けなくて、けれど芯に強さがあった。

『風が吹いたら、思い出して』

その言葉は、彼が自分に遺した、最後の「任務」だったのかもしれない。

凛は自分の右手をじっと見つめた。

犯人を捕らえ、法を執行するその手。

けれど、彼に触れるときだけは、一番柔らかく、震えていた手。

「思い出して、なんて言われなくても、一秒だって忘れたことないわよ……」

3. 言葉が風に変わる瞬間

思い出せば出すほど、風は強くなっていくようだった。

部屋の中を吹き抜ける風が、壁に飾られた二人の写真や、健太郎の遺影をガタガタと揺らす。

凛は立ち上がり、開け放たれた窓へと歩み寄った。

空は、あの事件の日とは対照的に、吸い込まれるような深い青色をしていた。

「……ねえ、健太郎さん。あなた、本当に風になったの?」

彼女は空に向かって問いかけた。

すると、不思議なことが起きた。

風が、まるで彼女の問いに答えるように、一度ピタリと止まり、その直後、さらに優しく、温かな塊となって彼女の身体を包み込んだのだ。

それは、まるで彼が背後から彼女をそっと抱きしめた時の感触に似ていた。

厚手の制服の上からでも伝わるような、あの日の新婚旅行で感じた、大きなSUVの車内の安らぎ。

凛の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。

「思い出して」という言葉は、呪縛ではない。

それは、彼が今もそこに存在し、彼女と共に歩んでいるという「証」だったのだ。

「……分かった。分かったわ、健太郎さん」

彼女は涙を拭わずに、風の中に立ち続けた。

彼が風になって見守ってくれているのなら、自分は、その風を一番に感じられる「風見鶏」になろう。

街のどこかで誰かが泣いていれば、風を追ってそこへ駆けつけよう。

誰かが絶望していれば、彼から受け取った温かな風を、その人の心に届けよう。

それが、健太郎という滑走路から飛び立った、自分の新しい「フライト」なのだ。

4. 滞空時間の長い愛の結末

「——佐々木巡査、報告します」

凛は、誰もいない空に向かって、ビシッと敬礼をした。

その姿は、五年前の凛々しい警部補ではなく、初心を胸に刻んだ、凛とした一人の警察官のものだった。

「本日の巡回、異常なし。……明日も、明後日も、あなたが愛したこの街を守り続けます。……だから、あなたは、ずっとそこで吹いていて」

凛が敬礼を解くと、どこからか一機の紙飛行機が——それは彼女がかつて折ったものか、あるいはただの錯覚か——リビングの床をふわりと滑り、彼女の足元にそっと止まった。

『風が吹いたら、思い出して』

その言葉を胸に刻んだ凛の顔には、もう迷いはなかった。

彼女は窓を閉め、四十九日の準備を整えるために歩き出した。

彼女の足取りは、いつになく軽やかだった。

彼女の背中には、目に見えない翼がある。

健太郎が遺した「風」という名の、世界で一番強い翼が。

高橋凛は、今日も街へ出る。

風と共に。

彼と共に。

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