第十七話:四十九日の風、あるいは見えない紙飛行機
第十七話:四十九日の風、あるいは見えない紙飛行機
1. 凪の部屋
健太郎の四十九日が、あと三日に迫っていた。
初七日から今日まで、凛にとっての時間は、まるで粘度の高い液体の中を歩いているようだった。
一時は自ら命を絶とうとした彼女だったが、病院で感じた「あの風」以来、不思議と心は静まり返っていた。それは諦めではなく、自分の輪郭が少しずつ、目に見えない大きな温もりに溶けていくような感覚だった。
夕暮れ時。凛は久しぶりに、二人で暮らしたマンションの窓をすべて開け放った。
「……埃が、溜まっちゃったわね。健太郎さんに怒られちゃう」
かつては「運行前点検」のように完璧だった掃除も、今はどこか疎かになっていた。彼女は手に持った掃除機を置き、ふと窓の外を眺めた。
高層階から見える街の灯りは、五年前、SUVで新婚旅行へ向かったあの日の夜景と同じように、宝石を撒いたように輝いている。
だが、隣にその光を共有する人は、もういない。
2. 招かれざる「訪問者」
その時だった。
開け放たれた窓から、不意に、強烈な一陣の風が吹き抜けた。
それは初秋の冷たさを帯びながらも、どこか懐かしい、日向の匂いがする風だった。
『バササッ……!』
リビングのテーブルに積まれていた書類や、健太郎の遺影の前に供えられていた花びらが、激しく舞い上がる。
凛は反射的に、風で乱れる髪を片手で押さえた。
「……健太郎さん?」
冗談ではなく、彼女の口からその名が漏れた。
風は、まるでリビングを自由に探索するかのように、渦を巻いて走り抜ける。
キッチンへ、寝室へ、そして——最後に凛のすぐ横を、彼女の耳たぶを優しくなでるようにして通り抜けた。
その瞬間、凛の視界の端を、白い「何か」が横切った。
3. 宙を舞う「約束」
風に煽られたわけでもないのに、棚の上に置いてあった、あの日凛が折った**「真っ白な紙飛行機」**が、ふわりと宙に浮いた。
それは、まるで意志を持っているかのように、広いリビングを大きく一周した。
通常の物理法則では説明のつかない、あまりに長い滞空時間。
凛は、その白い影を追いかけて、無意識に手を伸ばした。
「待って……行かないで……!」
紙飛行機は、窓から逃げていくのかと思いきや、くるりと反転した。
そして、五年前のキッチンでのあの日と同じように。
凛が「正面で受け止める」と言った、あの約束を果たすかのように。
彼女の、目の前で。
ピタリと動きを止め、静かに彼女の手のひらの上へと舞い降りた。
4. 最後に届いた「報告書」
手のひらに残る、微かな風の余韻。
凛は、震える指でその紙飛行機の翼を広げた。
それは、彼女が心中を図ろうとした時に見た幻ではなく、確かに今、ここにある現実だった。
翼の裏側には、彼女が書いた覚えのない、けれど見間違えるはずのない筆跡で、新しく一文が書き加えられていた。
『——佐々木巡査部長。本日のパトロール、異常なし。
僕は、最高の滑走路を手に入れたよ。だから、君は、君の道を真っ直ぐに。
……愛してる。また、風が吹く日に会おう。』
凛は、その紙を胸に抱きしめ、窓の外に向かって叫んだ。
「……異常、ありよ! 健太郎さん! あなたがいないことが、最大の異常事態なんだから……っ!」
涙が、止まらなかった。
けれど、その涙はもう、死を望む絶望のものではなかった。
彼が風になって、自分を見守っている。
その事実が、彼女の中に、鋼のような強さを再び宿らせていた。
5. 巡査、出発します
四十九日の朝。
凛は、真っ新な巡査の制服に身を包んだ。
警部補からの降格。周囲の同情。そんなものは、今の彼女にはどうでもよかった。
彼女は玄関の鏡に向かって、一つだけ深く頷いた。
ネックレスとして下げられた結婚指輪が、胸元でチャイムのように小さな音を立てる。
「……行ってきます、健太郎さん」
玄関を開けると、そこには、目を開けていられないほどの眩しい朝日と。
彼女の背中を力強く押し出す、心地よい追い風が吹いていた。
凛は、一歩を踏み出した。
それは、彼と共に歩む、終わりのないパトロールの続き。
風が吹くたびに、彼女は強くなる。
空が高くなるたびに、彼女は彼の優しさを思い出す。




