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『制服を脱いだら、恋でした。』  作者: 水前寺鯉太郎


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第十六話:風の止まる日

第十六話:風の止まる日

1. 偽りの平穏

手術は成功した、はずだった。

意識を取り戻した健太郎と短い言葉を交わし、凛が廊下で河野から戦況報告を受けていた、その時である。

静寂に包まれた深夜のICUに、心拍計の無機質なアラーム音が鳴り響いた。

「健太郎さん……?」

凛は弾かれたように病室へ飛び込んだ。

そこには、数分前まで確かに微笑んでいたはずの夫が、激しく痙攣し、青ざめていく姿があった。

「先生、血圧低下しています! 30まで落ちました!」

「挿管準備! 心臓マッサージ開始!」

医師や看護師たちが雪崩れ込み、凛は無情にも部屋の隅へと押しやられた。

目の前で繰り返される、懸命な蘇生措置。

だが、モニターに映し出される波形は、残酷なまでに平坦な一本の線へと近づいていく。

「嫌よ……健太郎さん、嘘でしょう? 犯人は捕まえたのよ! 私、ちゃんと正義を守ったのよ!」

凛の叫びは、医療機器の音にかき消された。

五年前のあの日、そして数時間前のホール。

彼は何度も死の淵から帰ってきてくれた。だから今度も、と凛は祈り続けた。

だが、彼の体は、度重なる重傷と、今回の深い一撃に、もう耐えられる限界を超えていた。

2. 静寂の宣告

「……午前三時十四分。ご臨終です」

医師の低い声が、冷たい病室に落ちた。

凛は、その言葉の意味を脳が拒絶するのを感じた。

「……先生、何、言ってるんですか。まだ温かいわ。……ほら、私の手を握り返そうとしてる……」

凛は健太郎の元へ歩み寄り、その頬に触れた。

まだ、温もりは残っている。

けれど、そこにはもう、彼女を「凛さん」と呼ぶ声も、優しく細められる瞳もなかった。

「……健太郎さん。……起きてよ。……おにぎり、作ってくれるって言ったじゃない。……私、お腹すいちゃったよ……」

凛は健太郎の胸に顔を埋め、静かに、けれど深く、慟哭した。

警察官として、多くの「死」を見てきた。

だが、自分の世界のすべてだった「死」を前にして、彼女はただの、救いようのないほど孤独な一人の女性になった。

窓の外では、皮肉なほどに静かな風が吹いていた。

3. 葬列の風

数日後。葬儀には、署の関係者だけでなく、健太郎が勤めていた学校の生徒たちが大勢詰めかけた。

佐藤は、人目も憚らずに声を上げて泣いていた。

「……先生、ずるいよ……。俺、まだ進路、決めてねえのに……」

凛は、喪服に身を包み、焼香に訪れる人々を機械的に迎えていた。

その瞳は、もはや氷ですらなかった。

何の色も宿さない、ただの空虚な、暗い穴のようだった。

出棺の時、凛は健太郎の棺の中に、一機の紙飛行機をそっと忍ばせた。

彼が初めて飛ばしたあの日のプリントではなく、彼女が署の報告用紙で折った、一点の曇りもない真っ白な飛行機。

「……健太郎さん。……あなたが風になるなら、私は……」

彼女は言葉を飲み込み、空を見上げた。

雲ひとつない青空。

そこには、彼が愛した「平和な街」が広がっていた。

4. 孤独な巡回パトロール

四十九日が過ぎ、凛は職場に復帰した。

署員たちは腫れ物に触るように彼女に接したが、凛は以前よりもさらに淡々と、そして苛烈に任務をこなした。

彼女の家には、もう紙飛行機は舞わない。

キッチンのサンマの向きを気にする必要も、帰宅を急ぐ理由もない。

彼女が守っているのは、夫が命を懸けて守ろうとした「法」という名の、あまりにも冷たい正義だった。

ある日の深夜。

凛は一人、かつて二人で散歩した公園のベンチに座っていた。

「……寒いな。……今日は、風が強いわね」

彼女が呟いたその時。

どこからか、ふわりと一陣の風が吹き抜け、彼女の頬を優しく撫でた。

それは、あの病室で彼が言った、最後の約束。

『風が吹いたら、思い出して。……僕は、君の中にいるから』

凛は、思わず周囲を見渡した。

誰もいない。

けれど、確かにそこに「温もり」があった。

5. 滑走路の終わり、そして

凛は立ち上がり、夜の街を見つめた。

彼女の指先には、今も彼の結婚指輪がネックレスとなって揺れている。

「……健太郎さん。……私、もう少しだけ、ここで頑張ってみるわ」

彼女は、自分の中に吹く「風」を感じながら、再び歩き出した。

警察官としての彼女の道は、これからも続く。

けれど、それはもう、誰かを追うための道ではなかった。

彼が残してくれた「平和」という名の滑走路を、彼に届くところまで、真っ直ぐに伸ばしていくための道。

凛が歩き出すと、夜風が彼女の背中を、そっと、本当にそっと、押し返した。

「……了解。……行ってきます、健太郎さん」

街の灯りが、彼女の進む道を照らしていた。

それは、星になった彼が、地上に降らせた最後の、そして永遠の光だった。

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