第十五話:残響の追跡、あるいは散りゆく風の祈り
第十五話:残響の追跡、あるいは散りゆく風の祈り
1. 終わらない惨劇
確保の安堵がホールを包みかけた、その刹那だった。
制圧されたはずの犯人の一人、手首を撃ち抜かれた男とは別の、体格のいい男が隠し持っていた二挺目の拳銃を取り出し、狂ったように発砲した。
「ふざけるな! 逃がせ、逃がせと言ってるんだ!」
混乱に乗じ、男は舞台袖の非常口へと走り出した。凛が反射的に追おうとしたが、男は近くにいた負傷した学生を盾にしようと銃口を向ける。
「凛さん、行って!!」
健太郎の声が響いた。彼は、凛が躊躇した一瞬の隙を埋めるように、学生を突き飛ばして自らが男の進路に立ちはだかった。
「退け! 死にたいのか!」
「……行かせない。君を、外へは行かせない……!」
健太郎は、五年前と同じように、愛する妻が守るべき正義のために、自らの体を「壁」とした。男は焦燥に駆られ、持っていたナイフで健太郎の胸を深く突き刺した。
「ぐっ……あ……!」
「健太郎さん!!」
凛の悲鳴がホールにこだまする。男は健太郎を突き飛ばし、そのまま非常口から闇夜の街へと逃走していった。
2. 繰り返される悪夢
凛は、逃走する犯人を追わなければならない衝動と、崩れ落ちる夫を抱きしめたい衝動の狭間で、一瞬だけ硬直した。だが、健太郎の胸から溢れ出す鮮血を見た瞬間、彼女の「警部補」としての仮面が砕け散った。
「健太郎さん! 健太郎さん!! 嘘よ、またなの!? なんで、なんであなたが……!」
凛は健太郎を抱き寄せ、その傷口を必死に押さえた。五年前のあの夜よりも、傷は深く、血の温もりは恐ろしいほどに速く失われていく。
「……凛、さん……追って……。あいつを……外に、出しちゃ……ダメだ……」
「喋らないで! 救急車! 早く!! 誰か、止血帯を!!」
凛の声は、絶望に震えていた。周囲の署員たちが駆け寄るが、凛は誰にも彼を渡したくないかのように、強く、強く抱きしめた。
「……風が……吹いてる……」
健太郎は、薄れゆく意識の中で、微かに微笑んだ。
「……大丈夫……。僕は……君の中に……いるから……」
健太郎の手が、力なく床に落ちた。
「健太郎さん? 健太郎さん!! 目を開けて! お願い、置いていかないで!!」
3. 静寂と、修羅の目
救急隊が到着し、健太郎が運び出されていく。
凛は、自分の両手が夫の血で真っ赤に染まっているのを、ただ呆然と見つめていた。
五年前のあの日と、同じ。
けれど、決定的に違うことが一つだけあった。
今の彼女は、一人の妻である前に、この街の治安を預かる「警部補」なのだ。
「……河野巡査部長」
凛が、低く、地を這うような声で言った。
「……はい、警部補」
「……全車両に通達。犯人の車両を特定、全検問所を閉鎖して。……奴を、この街から一歩も出すな」
凛は、血に濡れた自分の警察手帳を握りしめ、立ち上がった。
その瞳から、涙は消えていた。
代わりに宿ったのは、かつての「氷の執行官」さえも凌駕する、底知れぬ漆黒の殺意——いや、冷徹な「断罪」の光だった。
「……あいつは、私が仕留める。……法の名の下に、息の根を止めてやる」
凛は、夫を刺したナイフが落ちている床を一度だけ見つめ、夜の闇へと飛び出していった。
背中には、冷たい風が吹き荒れていた。
それは、健太郎が言った「見守る風」ではなく、すべてをなぎ倒す「復讐の嵐」だった。
4. 逃走の果て
犯人の男は、盗んだ車で山間部へと逃走していた。背後から迫るサイレンの音に、男は発狂したようにアクセルを踏み込む。
だが、男は知らなかった。
彼を追っているのは、ただの警察ではない。
最愛の夫を二度も奪われかけ、魂を凍りつかせた「最凶の法執行官」であることを。
「……見つけた」
凛が運転するパトカーが、男の車両を猛烈な速さで追いつめる。
急カーブが続く峠道。凛は一切のブレーキを踏まず、男の車両のリアに自らの車体を激しくぶつけた。
「止まりなさい!!」
火花が散り、男の車がスピンして崖の手前で停車する。
男は銃を乱射しながら車から降りたが、凛は弾丸の中を潜り抜け、電光石火の速さで男の腕を捻り上げた。
「あがああああっ!」
「……よくも、私の夫を。……よくも、私の滑走路を汚してくれたわね」
凛は男の顔をアスファルトに叩きつけ、耳元で低く囁いた。
その手には、手錠ではなく、剥き出しの怒りが握られていた。
「……ここで殺してあげてもいいのよ。……でも、あなたは一生、暗い牢獄の中で、あのアスファルトの冷たさを思い出しながら生きなさい。……それが、私の夫が信じた『法』の罰よ」
5. 祈りの夜
事件が終息し、凛が病院に駆けつけたのは、翌朝のことだった。
集中治療室の前。凛は、血のついた制服のまま、祈るように椅子に座っていた。
「……警部補」
河野がやってきた。その顔には、安堵の色があった。
「……旦那さん、一命を取り留めました。……意識も戻りつつあります」
凛は、その場に崩れ落ちるようにして泣いた。
警部補としての重圧も、復讐の炎も、すべてが涙となって流れ出していった。
病室のドアを開けると、そこには無数の管に繋がれながらも、確かに呼吸をしている健太郎がいた。
「……凛……さん……」
「……バカ。……本当に、バカなんだから……」
凛は、健太郎の手をとり、自分の頬に寄せた。
「……犯人は、捕まえたわよ。……ちゃんと、法の手続きでね」
「……知ってるよ。……だって、風が……そう、言ってたから……」
窓の外には、新しい朝日が昇っていた。
二人の物語は、これからも続く。
傷だらけになっても、何度引き裂かれそうになっても。
二人がお互いの「風」であり続ける限り、その滑走路が途絶えることはない。




