第十四話:五年の月日、あるいは再会は硝煙の中で
第十四話:五年の月日、あるいは再会は硝煙の中で
1. 凛、警部補の重圧
五年の歳月は、二人をより強固な、そしてより責任ある立場へと成長させていた。
佐々木凛——今は高橋凛——は、その卓越した検挙率と冷静な判断力を買われ、史上最年少クラスで警部補に昇進。現在は県警本部、捜査一課の特殊班(SIT)の指揮官候補として、最前線で指揮を執っていた。
「……突入五分前。各班、無線感度確認」
現場に響く凛の声は、五年前よりもさらに低く、威厳を増している。
かつての「氷の執行官」は、今や部下たちの命を預かる「鉄の司令官」へと進化した。しかし、その胸元の内ポケットには、今も健太郎が初めてキッチンで飛ばした、あのボロボロの紙飛行機がお守りとして忍ばせてある。
一方、健太郎もまた、教師としての道を邁進していた。
現在は学年主任を務め、生徒たちの精神的な支柱となっている。今日は、教育委員会の要請による県外への出張。隣県の地方都市で開催される教育シンポジウムに参加するため、彼は朝早くから家を出ていた。
「凛さん、夕飯は駅前で何か買っていくから。……あまり、根を詰めすぎないでね」
今朝の、その穏やかな笑顔が、凛の脳裏をよぎる。
まさかその数時間後、夫が地獄の渦中に放り込まれるとは、神ならぬ彼女には知る由もなかった。
2. 凶報
「——警部補、緊急入電です! 隣県大森市で立てこもり事件発生!」
本部の無線が悲鳴を上げた。
「犯人は銀行強盗に失敗した二人組。自動小銃で武装し、現在、市内の多目的ホールに逃走。人質は数十名、その中には……」
凛の指先が、一瞬だけ止まった。
多目的ホール。それは、健太郎が参加しているシンポジウムの会場だった。
「……人質の名簿を、至急こちらに回して」
タブレットに送られてきたリスト。
最上段に、その名前があった。
『高橋 健太郎 私立高校教諭』
周囲の空気が、一瞬で凍りついた。
部下の河野(今や巡査部長だ)が、青ざめた顔で凛を見る。
「警部補……旦那さんが……」
凛は目を閉じ、三秒間だけ深く息を吸い込んだ。
五年前の、あの血塗られた倉庫街の記憶が蘇る。あの時、彼女は理性を失いかけた。
だが、今の彼女は違う。今の彼女は、健太郎が信じ、愛した「正義の味方」だ。
「……本部長に伝えて。特殊班、これより現場へ急行する。……指揮は、私が執る」
その瞳に宿ったのは、殺意ではない。
愛する人を、そしてそこにいるすべての人々を、光の中へ連れ戻すという、ダイヤモンドよりも固い決意だった。
3. ホール内の「特別授業」
「……落ち着いてください。犯人たちの要求は車です。……それが来るまで、彼らを刺激しないことが最優先です」
ホールの舞台袖。健太郎は、恐怖に震える若手教師や学生たちの前に立ち、静かに、けれど毅然とした声で語りかけていた。
犯人の一人が、自動小銃を振り回しながら叫ぶ。
「おい、そこの眼鏡! 喋るなと言っただろうが!」
健太郎は、ゆっくりと立ち上がった。
「……私は教師です。生徒……いえ、ここにいる人々を落ち着かせるのが、私の『授業』なんです。……あなたたちも、これ以上罪を重ねたくはないはずだ。……外には、日本で一番優秀な警察官たちが集まっています」
「うるせえ! 警察が何だ! 来るならこいつらを皆殺しにしてやる!」
「……来ますよ。……風が吹いたら、彼女は必ず来る」
健太郎の脳裏には、いつか病室で交わした言葉があった。
(……凛さん。君なら、どうする? ……僕は信じているよ。君が、この暗闇に風を吹かせてくれることを)
4. 疾風の突入
「——カウント、三。……二。……一。……GO!!」
凛の合図とともに、ホールの天井ガラスが砕け散った。
閃光弾の爆音と白い煙が、一瞬でホールを支配する。
「警察だ! 武器を捨てろ!」
凛は、誰よりも早くロープで降下した。
煙の中、犯人の一人が狂乱して銃を乱射しようとした、その瞬間。
凛の放った一撃が、犯人の手首を正確に撃ち抜いた。
「ぐわああっ!」
もう一人の犯人が健太郎に銃口を向けようとしたが、凛の動きはそれを許さない。
彼女は流れるような動作で犯人の懐に飛び込むと、五年前よりもさらに磨き抜かれた体術で、男を床へと叩きつけた。
「……確保!!」
静寂が戻ったホール。
凛は、膝をついたまま、すぐ目の前にいる健太郎を見つめた。
防弾ヘルメット越し、煤で汚れた顔。
だが、その瞳だけは、五年前と変わらない優しさで、彼女を見つめ返していた。
「……遅かったわね。……健太郎さん」
「……いえ。……最高のタイミングでしたよ、警部補」
健太郎は、少しだけ震える足で立ち上がり、凛の前に立った。
周囲には大勢の署員や救助隊が溢れているが、二人だけの空間には、確かな「風」が吹いていた。
5. 帰還、あるいは未来への誓い
事件解決から数時間後。
本部の前で、凛は制服の上着を脱ぎ、健太郎の肩にかけた。
「……また、約束を破ったわね。……巻き込まれないでって言ったのに」
「すみません。……でも、おかげで確信しました。……僕の妻は、やっぱり世界で一番かっこいい」
健太郎は、凛の手のひらに自分の手を重ねた。
「……凛さん。……警部補になっても、どんなに偉くなっても。……僕の『おかえり』を言う場所だけは、変えないでくださいね」
凛は、健太郎の胸に顔を埋めた。
五年前は泣くことしかできなかった。
けれど今は、彼を守り抜いた達成感と、愛する人が生きている喜びで、清々しい風を感じていた。
「……了解。……定年まで、あなたの滑走路であり続けるわ。……でも、今日は……おにぎり、あなたが作ってね」
「はは、了解しました。特製のを、山ほど作りましょう」
夕闇に包まれる街。
二人の背中には、どんな凶刃も、どんな弾丸も届かない、強固な愛という名の防弾チョッキが、確かに備わっていた。
凛と健太郎。
二人のパトロールは、これからも続く。
この街の平和を、そして二人だけの小さな、けれどかけがえのない幸せを守るために。




