第十三話:新緑のクルージング、あるいは二人だけの非武装地帯
第十三話:新緑のクルージング、あるいは二人だけの非武装地帯
1. 巨大な「相棒」と旅立ち
「……健太郎さん。これ、本当に私たちが運転するんですか?」
駅前のレンタカー営業所。凛は、目の前に鎮座する巨大なフルサイズのSUVを見上げて、思わず警察官らしい鋭い視線を向けた。今回の新婚旅行リベンジにあたり、健太郎が「せっかくなら、どんな悪路でも、どんな荷物でも大丈夫な大きな車で、遠くへ行こう」と奮発して予約したものだ。
「そうですよ、凛さん。これなら車中泊だってできるし、何より守られている安心感があるでしょう?」
「安心感というか……装甲車に近い威圧感がありますね。車幅の感覚、死角の確認……。よし、運行前点検を始めます」
凛は新婚旅行用のワンピース姿のまま、手慣れた様子でタイヤの空気圧やライトの点灯確認を始めた。営業所のスタッフが呆気に取られる中、彼女は完璧な点検を終えると、助手席の健太郎に向かって力強く頷いた。
「出発しましょう。目的地は、誰にも教えないと言った『北の果ての湖』ですね」
二人のスマートフォンは、あらかじめ「機内モード」に設定され、ダッシュボードの奥へと封印された。署からの呼び出しも、学校からの緊急連絡も、そして佐藤くんのSNS投稿も、今の二人には届かない。
巨大なエンジン音が低く響き、二人の「本当の新婚旅行」が幕を開けた。
2. 高速道路のパーソナルスペース
高速道路に乗ると、大きな車体の安定感は抜群だった。
凛は当初、車幅の大きさに神経を尖らせていたが、次第にそのゆったりとした乗り心地に体を預けるようになっていった。
「健太郎さん。……なんだか、この車の中だけが、世界から切り離されたシェルターみたいですね」
「そうでしょう? 警察官も教師も、常に誰かの目に晒されている仕事ですから。こうして誰にも邪魔されない空間が必要だと思ったんです」
健太郎はハンドルを握りながら、穏やかに言った。
窓の外を流れる景色は、ビル群から広大な田園風景、そして深い森へと変わっていく。
途中のサービスエリアで、凛は「職業病」を抑えるのに必死だった。
「……隣のレーンの車、タイヤの溝が限界に近いわ」
「凛さん」
「……あ、そうでした。今は、ただの旅行者。……でも、あの積載の仕方は落下の危険が……」
「凛さん、ソフトクリームを食べに行きましょう」
健太郎に手を引かれ、凛は渋々パトロール(視察)を中断した。
バニラと夕張メロンのミックスソフトを二人で分け合いながら、凛はふと漏らした。
「……私、事件がない日常に、まだ少し戸惑っているのかもしれません」
「リハビリですよ、凛さん。これから行く場所には、信号機もありませんから」
3. 湖畔の「非武装地帯」
数時間のドライブの末、二人が辿り着いたのは、深い原生林に囲まれた神秘的な湖だった。
観光地化されておらず、そこにあるのは、風に揺れる木々の音と、鏡のように静かな湖面だけ。
「……綺麗」
凛は車から降り、大きく深呼吸した。
巨大なSUVは、その荒々しい景色の中に驚くほど馴染んでいた。
二人は車を湖畔のベストポジションに停め、リアゲートを開放した。広いラゲッジスペースにクッションを敷き詰め、そこを即席のテラスにする。
「凛さん、お疲れ様。……乾杯しましょう」
健太郎が用意していたのは、ノンアルコールのスパークリングワインと、道中の道の駅で買った地元のデリカテッセン。
夕日が湖を黄金色に染め上げる中、二人は肩を並べて座った。
「健太郎さん。……あの夜、あなたが刺された時、私、本当に世界が終わると思ったんです」
凛はグラスを見つめながら、静かに語り始めた。
「正義とか、法とか、そんなものが全部どうでもよくなって。……ただ、あなたを奪ったものを壊したいとしか思えなかった」
健太郎は、彼女の細い肩を引き寄せ、自分の胸に預けさせた。
「分かってますよ。……でも、こうして今、二人でこの夕日を見ている。それが、僕たちの勝ちなんです」
「……ええ。……私、この旅行で決めたんです。……これからも、あなたの隣で、この街を守り続けるって。……でも、時々はこうして、あなたの『確保』から逃れて、二人だけの場所に逃げ込んでもいいですか?」
「もちろんです。そのための、この大きな車なんですから」
4. 満天の星と「紙飛行機」の誓い
夜になると、周囲は一寸先も見えないほどの暗闇に包まれた。
その代わり、空にはこぼれ落ちそうなほどの星々が輝いている。
二人はSUVの広いルーフの上に寝転び、宇宙の中に放り出されたような感覚に浸っていた。
「……あ、流れ星」
「健太郎さん、願い事は?」
「……『明日も、凛さんの美味しいご飯が食べられますように』かな」
「……もっと、警察官の妻を誇れるような願い事はないんですか?」
「はは、それが僕にとって一番の平和の象徴なんですよ」
健太郎は、ポケットから一枚の紙を取り出した。
「凛さん、覚えてますか? 初めてキッチンで飛ばした、紙飛行機」
「忘れるわけありません。公務執行妨害の一歩手前でした」
健太郎は、星明かりの中で丁寧に紙を折った。
「あの時は、僕の気持ちを背中に飛ばした。……でも、今日は、二人で一緒に飛ばしませんか? 未来に向かって」
二人は一つの紙飛行機に、それぞれの指を添えた。
「せーの」
放たれた紙飛行機は、夜の湖に向かって吸い込まれるように飛んでいった。
目には見えないが、二人の心の中では、その飛行機はずっと高く、星の間を縫うように滞空し続けていた。
「……凛さん。愛しています。……一生、僕の人生のパトロールを、お願いしますね」
「……了解。……終身刑ですよ、健太郎さん」
5. 帰路、新しい風
翌朝、二人は朝露に濡れた湖を一周散歩し、再び巨大なSUVに乗り込んだ。
「さあ、帰りましょう。……僕たちの、賑やかな日常へ」
「ええ。……佐藤くんたちが、また騒いでいるでしょうね」
凛がハンドルを握り、ゆっくりと車を走らせる。
その表情は、旅に出る前よりもずっと晴れやかで、満ち足りていた。
国道に戻り、機内モードを解除した瞬間。
スマートフォンの通知音が鳴り響いた。
【佐藤:先生! 佐々木さん! どっか行ってるってマジ!? 俺、進路相談したいんすけど!】
【河野:佐々木、明日からのシフト、夜勤代わってくれ。お土産期待してるぞ】
二人は顔を見合わせ、同時に笑い声を上げた。
「……やっぱり、私たちは、あの騒がしい街が似合っていますね」
「そうですね。……でも、この大きな車の鍵は、ずっと僕たちが持っています」
新婚旅行。
それは、ゴールではなく、二人で歩む長い長い「パトロール」の、再スタートの儀式だった。
風は、今日も二人の背中を優しく押している。
新しい日常という名の、輝かしい滑走路へ向かって。




