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『制服を脱いだら、恋でした。』  作者: 水前寺鯉太郎


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第十一話:風の囁き、あるいは止まらない涙

第十一話:風の囁き、あるいは止まらない涙

1. 静寂の病棟

臨海部の倉庫街で起きた惨劇から、三日が過ぎた。

健太郎は二度にわたる大手術を乗り越え、ようやく集中治療室から一般病棟の個室へと移された。

ナイフは脇腹の深くを貫き、内臓の一部を損傷させていたが、幸いにも大動脈は逸れていた。それは奇跡に近い確率だった。

凛は、あの夜から一度も警察署に戻っていなかった。

署長から「特別休暇」という名の謹慎を言い渡されたこともあるが、今の彼女には、制服に袖を通す気力さえ残っていなかった。

「……健太郎さん、お水、飲む?」

個室の窓から差し込む午後の柔らかな光の中で、凛はやつれた顔で健太郎の傍らに座っていた。かつて「氷の執行官」と呼ばれた面影はどこにもない。ただ、愛する人の命が繋がったことに安堵し、同時に彼を危険に晒してしまった自分を責め続ける、一人の不器用な妻がそこにいた。

健太郎は酸素マスクが外れ、蒼白い顔ながらも意識ははっきりとしていた。彼はゆっくりと瞬きをし、凛の震える手を見つめた。

「……凛、さん。……泣かないで。……僕は、ここに、いるよ」

「……ごめんなさい。私が、もっと早く気づいていれば。私が、あなたをあんな場所に……」

凛は健太郎の手を握りしめ、溢れ出す涙を堪えきれなかった。

2. 境界線に立つ心

凛の心は、今もあの夜の闇に囚われていた。

健太郎の容態は安定したが、犯人は依然として逃走を続けている。同僚の河野からは「有力な手がかりを掴んだ。まもなく確保できる」と連絡があったが、凛の胸の内には、正義とは程遠い「黒い炎」が燻っていた。

(あいつを、許さない。……健太郎さんの笑顔を奪い、その命を弄んだあいつを、この手で……)

警察官としてあるまじき殺意。復讐心。

彼女はその感情を必死に押し殺しながら、健太郎の看病を続けていた。しかし、鋭い観察眼を持つ健太郎は、彼女の瞳の奥に宿る「危うさ」に気づいていた。

「……ねえ、凛さん」

夕暮れ時、空が茜色に染まり始めた頃。

健太郎が、カサカサに乾いた声で、ぼそっと呟いた。

「……もし、僕がいなくなっても。……風が吹いたら、思い出して」

「……!? 健太郎さん、何を……。縁起でもないこと言わないで!」

凛は驚いて立ち上がった。だが、健太郎は穏やかな、どこか遠くを見るような瞳で話を続けた。

「……風になって、僕が君を見守っているよ。……だから、君は、光の中にいて。……暗闇に、行かないで」

3. 教師の最後の授業

健太郎の声は小さかったが、凛の心に、どんな無線の絶叫よりも重く響いた。

「……君が、僕のために怒ってくれているのは分かる。……でも、凛さんのその手は、人を傷つけるためにあるんじゃない。……僕を、誰かを、守るためにあるんだよ」

健太郎は、凛の手を弱々しく、けれど優しく握り返した。

「……あの夜、僕が君の後を追ったのは、君が一人で『憎しみ』と戦うのを見たくなかったからだ。……僕が君を愛したのは、君が誰よりも真っ直ぐに、平和を信じているからなんだ」

凛は、言葉を失った。

自分が抱いていた殺意。復讐のために法を逸脱しようとしていた自分の浅ましさ。健太郎は、生死の境を彷徨いながらも、ずっと自分の「心」の安否を心配していたのだ。

「……風が吹いたら、思い出して。……僕は、君が正しい道を進むための、追い風になりたいんだ。……だから、お願いだ、凛さん。……佐々木巡査部長に戻って。……僕の大好きな、街のヒーローに戻って」

健太郎の頬を一筋の涙が伝い、枕を濡らした。

4. 浄化の涙

凛は、健太郎の胸に顔を埋めて、声を上げて泣いた。

それは、後悔の涙であり、浄化の涙だった。

「……ごめんなさい。……私、どうかしてた。……あなたの言う通りね。私が暗闇に落ちたら、あなたが守ろうとしたものが全部無駄になってしまう」

凛は、彼の胸の鼓動を感じながら、自分の中の「黒い炎」が消えていくのを感じた。

代わりに灯ったのは、静かで、揺るぎない「正義」の光だった。

「……私、行くわ。健太郎さん。……復讐のためじゃなく、この街に、もう二度とあなたのような被害者を出さないために」

凛は顔を上げ、涙を拭った。その瞳には、かつての、いや、それ以上に気高く、力強い輝きが戻っていた。

「……行ってくるわ。……パトロールに」

「……うん。……気をつけて。……風が吹いたら、僕がそばにいるから」

5. 滑走路の再開

病室を出た凛は、廊下で待っていた河野に向き直った。

「河野さん」

「……佐々木。顔つきが変わったな」

「特別休暇を返上します。……犯人の潜伏先を教えてください。……正当な手続きに従い、確保します。……一秒でも早く」

河野は、満足げに頷いた。

「了解した。……行こう、佐々木巡査部長」

凛は、病室の窓の外を見つめた。

そこには、健太郎が言った通り、優しく、力強い風が吹いていた。

彼女の背中を押し、進むべき道を指し示す、世界で一番温かい追い風が。

凛は一歩を踏み出した。

それは、復讐への道ではない。

愛する人が守りたかった、平和な日常へと続く、新しい滑走路の始まりだった。

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