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『制服を脱いだら、恋でした。』  作者: 水前寺鯉太郎


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第十話:交錯する影、あるいは血塗られた滑走路

第十話:交錯する影、あるいは血塗られた滑走路

1. 拭えない予感

秘密の休日という「聖域」から戻って三日。

日常は、それ以前よりもさらに険しさを増していた。

管内では広域窃盗団による連続押し入り事件が発生し、凛の帰宅時間は午前二時、三時と際限なく遅くなっていった。帰宅しても、彼女は食事中も無線機のノイズに耳を澄ませ、その瞳からは「妻」としての光が消え、鋭利な「刃」のような冷徹さが支配していた。

健太郎は、その変化が怖かった。

彼女が街を守るために自分を削っている。その献身を理解しているからこそ、数日前のあの現場での光景——泥にまみれ、額を切りながらも立ち上がる彼女の姿——が、網膜に焼き付いて離れない。

「……凛さん、今日は少し顔色が悪い。無理をしないで」

夕食時、そう声をかけても、凛は力なく微笑むだけだった。

「大丈夫。……ヤマを越えれば、またゆっくりできるから」

その夜、午前一時四十三分。

枕元のスマートフォンが震えた。凛は無言で起き上がり、機械的な動作で装備を整える。

「行ってくるわ」

「……ああ、気をつけて」

ドアが閉まる音を聞きながら、健太郎は布団の中で拳を握りしめた。

前回の「尾行」の際、凛は厳重注意だと言った。二人の約束を破ることになる。だが、胸をざわつかせるこの得体の知れない不安が、彼を突き動かした。

「……約束は破るためにあるんじゃない。君を守るために、一度だけ捨てるんだ」

健太郎は、寝間着の上に厚手のコートを羽織ると、数分前に走り去った彼女の気配を追って、再び夜の闇へと滑り出した。

2. 深夜の追走劇

今回の現場は、再開発が進む臨海部の倉庫街だった。

巨大なクレーンが恐竜の骨格のようにそびえ立ち、街灯の間隔が広いその場所は、逃走と潜伏には絶好の条件を備えていた。

健太郎は数キロ手前で車を捨て、海風に吹かれながら走り続けた。

遠くに赤色灯の明かりが見える。パトカーのサイレンは消されているが、無数の無線の声が夜気を震わせているのが、距離を置いていても伝わってきた。

(あそこだ……)

健太郎は、大型コンテナが積み上げられた迷路のようなエリアに侵入した。

前回の反省を活かし、足元に細心の注意を払う。彼は、教師としての観察眼をフル稼働させ、警察官たちの視線を避けながら、凛の姿を探した。

「逃げたぞ! 第四コンテナの隙間だ!」

「応援! Aブロックへ回れ!」

怒号が飛び交う。どうやら犯人と鉢合わせ、追跡劇が始まったようだった。

健太郎は、積み上げられたパレットの陰に身を潜めた。すると、数十メートル先を、猛烈な速さで疾走する凛の背中が見えた。

「止まりなさい! 警察よ!」

凛の声が、潮騒を切り裂く。彼女の走りは、重い装備を身につけているとは思えないほど軽く、力強かった。だが、犯人は複雑な地形を熟知しているのか、コンテナの間を縫うようにして凛を引き離そうとする。

健太郎は、凛が向かった方向とは別の、ショートカットになるであろう細い路地へと足を踏み入れた。

(凛さんの先回りができれば、何か手助けができるかもしれない……)

その浅はかな、けれど純粋な「守りたい」という願いが、彼を運命の袋小路へと導いてしまった。

3. 凶刃

そこは、街灯の光さえ届かない、完全な死角だった。

健太郎がその路地を抜けようとした、その時。

正面から、激しい足音と共に人影が飛び出してきた。

黒いパーカーのフードを深く被った男。肩を荒く上下させ、手には銀色に光る何かを握っている。

「……え?」

健太郎が声を出す暇もなかった。

男は、進路を塞ぐように立っていた健太郎を「邪魔な障害物」としか認識していなかった。

「どけえええええ!」

すれ違いざま、男は右手に持っていたナイフを、何の迷いもなく健太郎の脇腹へと突き立てた。

「あ……」

熱い。

最初の一瞬、痛みはなかった。ただ、焼けた鉄の棒を押し当てられたような、猛烈な熱さが体の中を駆け巡った。

男は健太郎を突き飛ばし、そのまま闇の奥へと消えていった。

健太郎は、コンテナの壁に背中を預けるようにして、その場に崩れ落ちた。

「……っ、が……はっ」

呼吸がうまくできない。

脇腹を押さえた手の隙間から、温かい液体が溢れ出し、コートの生地を黒く染めていく。

視界が急激に狭くなり、遠くで聞こえていた凛の声が、まるで水の中にいるように遠のいていく。

「……凛……さん……」

震える手でスマートフォンを取り出そうとしたが、指先に力が入らず、機械は無情にもコンクリートの地面へと転がり落ちた。

4. 悲鳴と覚醒

「健太郎さん……? 嘘、どうして……!」

犯人を追ってその路地に飛び込んできた凛が見たのは、血の海の中に横たわる、最愛の夫の姿だった。

彼女の思考が一瞬、真っ白に染まった。

警察官としての冷静さ、法執行官としての規律、それらすべてが吹き飛び、ただ一人の「妻」としての絶叫が喉を衝いて出た。

「健太郎さん! 健太郎さん!!」

凛は犯人の追跡を捨て、健太郎の元へ駆け寄った。

彼の顔は、見る間に土気色へと変わっていく。

「凛……さん……ごめ……約束……破っちゃった……」

「喋らないで! 今、救急車を……! 誰か! 救急車! 負傷者、警察官じゃない、一般人が刺された! 至急!!」

凛は無線機に叫びながら、自分の震える手で健太郎の傷口を強く圧迫した。

彼女の指が、夫の温かい血で赤く染まっていく。

「嫌よ……健太郎さん、目を開けて! 私を見て! 滑走路でしょう!? 私が帰る場所なんでしょう!? 勝手に閉鎖しないでよ!!」

凛の目から、大粒の涙が溢れ、健太郎の頬に落ちた。

現場で一度も泣いたことのない彼女が、子供のように泣きじゃくりながら、夫の命を繋ぎ止めようとしている。

「……凛さんの……制服……汚れちゃう……な……」

健太郎は、微かに微笑もうとして、そのまま意識を失った。

「健太郎さん! 健太郎さああああああん!!」

倉庫街の夜空に、凛の悲痛な叫びが響き渡った。

遠くから、ようやく救急車のサイレンが近づいてくる。だが、その音が届く前に、凛の心は、かつてないほどの漆黒の闇に包まれようとしていた。

5. 境界線の向こう側

救急車が到着し、健太郎がストレッチャーに乗せられる。

凛は、自分の手が夫の血で真っ赤に染まっているのを、呆然と見つめていた。

「佐々木! しっかりしろ! 犯人はまだ逃げている、追うぞ!」

同僚の河野が肩を掴む。だが、今の凛の瞳に宿っているのは、正義ではなく、底冷えのするような「殺意」だった。

「……河野さん」

「……なんだ」

「……あいつ、殺すわ。……私が、この手で」

「佐々木! お前、何を言って……!」

凛は河野の手を振り切り、健太郎が刺された現場に落ちていた、血に濡れた彼のスマートフォンを拾い上げた。

画面には、二人がキャンプ場で笑い合っている写真が、ひび割れたガラス越しに映し出されていた。

彼女は、血のついた制服の袖で涙を拭うと、夜の闇を睨みつけた。

その背中は、もはや滑走路ではなかった。

それは、すべてを焼き尽くすための、最凶の戦場の入り口だった。

「……待ってて、健太郎さん。……すぐに終わらせるから」

凛は、闇の中へと消えていった。

法と愛の境界線が、今、完全に崩壊しようとしていた。

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