湯上がりの誤認逮捕と、騒がしい放課後
このお話の登場人物
佐々木 凛 / 30歳
所属:〇〇警察署 交通課 巡査部長
性格:正義感が強く、曲がったことが大嫌い。仕事中は「氷の執行官」と呼ばれるほどクールだが、実は極度の恋愛初心者。
弱点:可愛いもの、甘いもの、そして高橋の「不意打ちの笑顔」。
特技:柔道(三段)、違反車両のナンバー暗記。
背景:実家が厳格な家庭で、隙を見せずに生きてきた。銭湯が唯一のリラックス場所。
高橋 健太郎 / 28歳
職業:市立高校 国語教師(2年B組担任)
性格:物腰が柔らかく、生徒からも「タカケン」と慕われる。一見草食系だが、芯が強く、大事なところでは意外とグイグイ行くタイプ。
弱点:方向音痴、運動神経が少し(?)鈍い。
特技:朗読(声が良い)、生徒の嘘を見抜くこと。
背景:厳しい校則よりも「対話」を重んじる。凛の不器用な優しさに気づき、彼女を「守ってあげたい(物理的には守られるが)」と思っている。
第一話:湯上がりの誤認逮捕と、騒がしい放課後
1. 鉄の女の休息
佐々木凛は、界隈の不良学生や交通違反者から「氷の執行官」と恐れられている。常に折り目のついた制服、一分の隙もないお団子ヘア、そして違反者を見逃さない鋭い眼光。それが彼女のパブリックイメージだった。
しかし、週に一度の非番の夜、彼女はその「武装」をすべて脱ぎ捨てる。
「ふぅ……。やっぱり、家のシャワーじゃこうはいかないわね」
下町の風情が残る「松の湯」。大きな富士山のペンキ絵を眺めながら、熱い湯船に肩まで浸かる。この瞬間だけは、法も秩序も、山積みの書類も忘れることができる。
湯上がり、脱衣所の鏡に映るのは、湯気で上気した頬と、湿気で少しうねった後れ毛。凛は手早く髪をタオルでまとめ、着古したグレーのパーカーのフードを被った。眼鏡をかけ、手には飲みかけのコーヒー牛乳。今の彼女を「佐々木巡査部長」だと見抜ける者は、署の人間でもまずいないだろう。
夜風が心地よい帰り道。凛は鼻歌まじりに住宅街の路地を歩いていた。頭の中では、明日の朝食に何を食べるか、そんな平和な思考が占めている。
その平穏を切り裂いたのは、鋭い悲鳴だった。
「泥棒! 誰か、ひったくりよ!」
凛の脳内スイッチが、一瞬で「オフ」から「オン」へと切り替わる。湯上がりで弛緩していた筋肉が、即座に戦闘態勢へと引き締まった。
2. 0.5秒の制圧
暗がりから、猛烈な勢いでこちらへ走ってくる男の影が見えた。
黒いジャケット、焦ったような足つき。手には女性用のハンドバッグを握りしめている——ように見えた。
(逃がさない)
凛は電柱の影に身を潜め、男が通り過ぎる瞬間を待つ。呼吸を整え、重心を下げる。
男が横をすり抜けようとした刹那、凛は弾かれたように飛び出した。
「止まりなさい!」
男の右腕を掴み、一気に引き寄せる。相手の勢いを利用し、腰を深く入れ、鮮やかな「払い腰」を見舞った。
「ぐはっ!?」
重い衝撃音とともに、男が地面に叩きつけられる。凛は迷わずその背中に膝を乗せ、腕を極めて地面に押しつけた。
「動かないで! 窃盗の現行犯で拘束します。大人しくしなさい!」
「……っつあぁ! い、痛い! 痛いです佐々木さん! 僕です、高橋です!」
聞き覚えのある、情けない叫び声。
凛の動きが凍りついた。恐る恐る下を見ると、街灯の光に照らされていたのは、眼鏡を飛ばし、苦悶の表情を浮かべる高橋健太郎の顔だった。
「……高橋、さん?」
「そうですよ……。ひったくりを追いかけようとしたら、いきなり投げ飛ばされて……。死ぬかと思いました……」
「え、あ、えっ!?」
凛が慌てて周囲を見渡すと、遠くの角を別の男がバッグを持って曲がっていくのが見えた。高橋が手に持っていたのはバッグではなく、丸めた自分のジャケットだったのだ。
「……申し訳、ありませんでしたぁ!!」
深夜の住宅街に、凛の絶叫に近い謝罪が響き渡った。
3. 最悪の夜、最高の誘い
「本当に、なんとお詫びすればいいか……」
数分後。本物の犯人は通報を受けたパトカーが確保した。
道端で、凛は消え入りそうな声で謝り続けていた。
高橋はスラックスについた土を払いながら、苦笑いを浮かべている。
「いいですよ。まあ、あんなに綺麗に投げられたのは人生で初めてでしたけど」
「職業病なんです。ひったくりと聞くと、体が勝手に……。あの、お怪我は?」
「肩が少しピキッといってますけど、骨は大丈夫そうです」
凛は今、死ぬほど後悔していた。
よりによって、一番見られたくない「オフ」の姿。すっぴんで、髪はボサボサ、よれよれのパーカー。そして、あろうことか想い人(と、自分では認めたくないが)を誤認逮捕して投げ飛ばすという大失態。
「私、最低です。警察官失格です……」
「そんなに落ち込まないでください。凛さんの正義感が強いのは知ってますから」
高橋は、少し照れくさそうに首の後に手をやった。
「でも、驚きました。普段の制服姿も素敵ですけど、今の……その、お休みモードの凛さんも、なんだか柔らかい感じでいいですね」
「……えっ?」
凛の心臓が跳ねた。湯上がりのせいか、それとも今の言葉のせいか、顔が熱くて仕方ない。
「あの、佐々木さん。お詫びなんて気にしなくていいですけど……もし責任を感じてくれるなら、今度『私服』で食事に行きませんか? 捜査の一環じゃなく、ただのデートとして」
「……デート、ですか」
「ダメ、ですか?」
高橋の穏やかな、けれど真っ直ぐな視線。
凛はパーカーの袖をぎゅっと握りしめ、蚊の鳴くような声で答えた。
「……公務外、ですから。拒否する理由は、ありません」
4. 翌朝の嵐
翌日。市立高校の職員室は、朝から妙な熱気に包まれていた。
高橋が席に着くや否や、クラスの茶髪の男子生徒、佐藤がニヤニヤしながら駆け寄ってきた。
「おっはよーございまーす、高橋センセー! 昨日、駅裏の道で派手に転んでませんでした?」
高橋の肩がビクリと跳ねる。
「……佐藤。なんでお前、あんな時間に外にいたんだ?」
「いやいや、それより見たんすよ俺。センセーが女の人にボッコボコにされてんの!」
その言葉に、職員室中の教職員の視線が集まった。女子生徒たちも窓際で「えっ、先生が女の人に?」「DV?」「逆ナン?」と騒ぎ始める。
「違うんだ、あれは誤解で……」
「いやー、凄かったっすよ! あの女の人、めっちゃ強そうだった。しかもなんか、お風呂上がりみたいな格好してて。……あれ、もしかして交通課の『氷の佐々木』じゃないっすか?」
その名前が出た瞬間、教室のボルテージは最高潮に達した。
「ええっ!? あの美人の警察官!?」「先生、捕まったの?」「っていうか、なんで夜に二人で会ってんの!?」
生徒たちの執拗な追及に、高橋は顔を真っ赤にして教壇を叩いた。
「静かに! 授業を始めるぞ! ……佐々木さんには、その、ちょっとした間違いで投げ飛ばされただけだ!」
「投げ飛ばされただけって、それ関係性ヤバくないっすか!?」
同じ頃。
所轄署の交通課でも、凛が署員たちから生温かい目で見られていた。
「佐々木、昨日非番だったよな? 松の湯の前で教師を一本背負いしたって、通報……じゃなくて目撃情報が入ってるぞ」
「……っ! それは……不審者だと思って……」
「ほう。不審者を『私服のデート』に誘うのが、最近の流行りか?」
凛は真っ赤な顔で書類に顔を伏せた。
昨夜の甘い余韻は、朝の喧騒で完全に吹き飛んでしまった。
けれど、デスクの隅に置かれたスマホには、高橋からのメッセージが届いている。
『昨日の肩、まだ少し痛みます。治療が必要かもしれません(笑)。土曜日の19時、駅前のカフェで待ってますね』
凛は口元を綻ばせ、小さく呟いた。
「……本当に、公務執行妨害なんだから」
警察官と教師。
二人の、あまりに騒がしくて不器用な恋が、ようやく一歩を踏み出した。




