放棄の輪
教室に響くチャイム――しかし、その音は天音セイレンの心には届かない。
三か月前に失った人の影が、日常を灰色に染めていた。
周囲の囁き、同級生の視線、すべてが重く、彼女の胸に突き刺さる。
その日、クラス全員が異世界へ召喚されるという、信じられない出来事が起こった。
仲間たちは光輝く力を手にする中、天音には“書き手”という謎めいた能力だけが与えられた――。
無力だと嘲笑され、絶望の淵に立たされた少女は、果たしてこの世界で生き延びることができるのか。
これは、悲しみの中で運命に抗い始める一人の少女の物語の始まり。
教室に鐘の音が鳴り響いた。
いつもならただ授業の終わりを告げるだけの、ありふれた金属音。
だが今日のそれは、水面に落ちた小石のように――小さな衝撃が広がり、波紋はやがてどこにも届かず消えていった。
窓際のいつもの席に座る天音。
しかし、窓から差し込む光は他の生徒のように彼女を照らすことはなかった。
黒板を見つめる瞳は、胸の奥底に押し込められた雑然とした闇を見透かそうとするかのよう。
その眼差しは厳格で、静かで――考えず、抗わず、ただ見守っていた。
あの日から三ヶ月が過ぎていた。
眠りは冷えを覆うにはあまりにも薄い布のようで、夜は永遠に続くように長かった。
スマホの画面をただ機械的に、癖のようにスクロールし続ける。
映し出されるのは笑顔、冗談を言い合う姿、そして最後に二人で撮った写真――
あの瞬間だけは、まるで世界全体が息を止めていたかのようだった。
彼女はその画面を顔のすぐ近くに寄せる。距離を縮めれば、あの感覚を取り戻せる気がしたから。
周囲の生徒たちは小さな海のように落ち着きなく揺れていた。
声にならない囁きは、祈りにも毒にも似て。
彼女と目を合わせない者もいた。恥や迷信が、悲しみを遠ざけると思っているかのように。
「……まるで何事もなかったみたいにしてるよな」
「……あの日、もっと気をつけてれば……あいつ、生きてたかもしれないのに」
苦い残滓のような声が響く。
だが、その囁きを鋭く切り裂く声が続いた。
「……やめろよ。ユキが言ってただろ? あの日、彼女も一緒にいたんだ。そんなこと、あるわけないって」
天音はすべて聞いていた。
声は教室を横切り、思考の消えた空洞に落ちていく。
彼女は応えない。沈黙の価値を知っていた。言葉はあまりにも高価で、得るものは何もないから。
彼女の世界は、わずか三つの色に縮んでいた。
教室の天井の灰色。窓ガラスの向こうに広がる褪せた青空。
そして、戻ることのない不在の黒。
カーテンを揺らす風でさえ、彼女を避けるかのように通り過ぎる。
親友のユキは、時折こっそりと天音を見つめていた。
それはまるで解読不能な文字を読み取ろうとする視線。
彼女は天音の悲しみの形を、馴染みのある街路のように知っていた。
事故直後の二週間はずっと傍にいて、インスタントラーメンを持ってきては、笑いで癒せると信じていた。
だが最近、その笑いは消え、代わりに重く長い問いだけが二人の間に横たわっていた。
そんな中、誰かの囁きが背後から落ちる。
「……死人みたいな顔してる時があるよな」
石を投げつけるような粗雑な言葉。
ユキの袖の中で、握りしめた拳が震えた。顔から血の気が引き、代わりに剥き出しの怒りが宿る。
「……黙れ!」
抑えきれない声が教室に響く。
その瞬間、重い沈黙が蓋のように降りた。
天音はその怒声を、雨に濡れた夜に差し出された小さな蝋燭のように感じた。
唇の端に一瞬、儚い笑みが浮かんでは消える。
「大丈夫?」とユキが口の動きで問いかけると、天音は平然と答えた。
「……平気」
その言葉は香りもなく、会話を終わらせるための定型文のように虚ろだった。
やがて教師が廊下に出るため立ち上がり、扉を開ける。
冷たい光が一筋、教室に滑り込んだ。
「少しの間、席を立つ。静かにしていろ」
誰も、その後に起こることを予想していなかった。
何の前触れもなく――床に残るチョークの粉の上から光が噴き出した。
それは単なる光ではなかった。机の下の一点から花のように咲き、風船の息吹のように膨らんでいく。
床タイルが震え、金属の椅子は歯を軋ませるような周波数で共鳴した。
机が揺れ、天井から粉塵が降り注ぐ。
淡い光の紋様が床に広がり、花弁のように重なり合って巨大な魔法陣を描く。
囁き声は悲鳴へと変わった。
「……な、なんだよこれ!?」
「……嘘だろ!? 冗談に決まってる!」
恐怖は伝染病のように広がった。
一人の生徒が立ち上がり、腕を振り回す。逃げろと叫ぶ声があちこちで上がる。
だが空気さえ裏切っていた。嵐の前触れのような圧力が喉を締め付け、足は見えない泥に絡め取られたように重くなる。
――鐘か、悲鳴か。そんな音とともに、魔法が彼らを呑み込んだ。
息を奪い、床を消し去り、世界を暴力的に塗り替える。
やがて光が視界から抜け落ちたとき、そこに広がっていたものは、もはや「日常」ではなかった。
空は紫――不可能なほど深く、傷ついたような紫。まるでそれ自身に重力を持つかのように空を支配していた。
遠くには城が聳え立ち、塔は牙のように地平線を突き刺し、その影が太陽を呑み込んでいた。
足元の草は金属粉をまぶしたように輝き、踏みしめるたびに群衆の囁きのような音を立てた。
大地には淡く脈動するルーンが刻まれている。まるで呼吸をするかのように生きていて。
音でさえ異質だった。足音はわずかに遅れて響き、一瞬ごとに現実がずれた感覚を与える。
「……ここ、は……」
誰かが言いかけた言葉は、途中で崩れた。
召喚の光から姿を現したのは、一人の女だった。
それは生きるために造られた美ではなく、彫像のような完璧さ。
銀髪が背に流れ、白い法衣が肩から垂れ、問いかけのように揺れている。
その手に握られた杖は、冷たく内側から光を脈打っていた。
「――ようこそ、選ばれし者たち」
声は大きくないのに、空気そのものを曲げる響きを持っていた。
「あなた方は〈エラリア王国〉へと召喚されました」
教室は混乱の渦に飲み込まれる。
信じられないという叫び、恐怖、そして「これは夢だ」と都合よく解釈しようとする卑小な希望。
指が震え、瞳が見開かれ、それぞれの心に小さな計算と逃げ道が芽生えていく。
「あなた方は理解を超えた使命のため、この世界へと呼ばれたのです」
女は丘に響く声で続けた。その声は風さえ従わせる。
「魔王――測り知れぬ悪意を持つ存在が復活しました。彼はこの世界だけでなく、繋がるすべての世界をも脅かしています。
あなた方は選ばれたのです。なぜなら、あなた方一人ひとりに眠る可能性は、結集すれば天秤を揺るがす力となるからです」
「……選ばれた? それって要するに、使い捨ての駒ってことだろ!」
怒りに顔を歪めた男子が吐き捨てる。
「……どうして俺たちなんだ!? ただの高校生だぞ!」と別の声が震えた。
恐怖と否定が広がる。互いにしがみつく者、歩き回りながら呪詛を吐く者。
中には冒険や栄光を囁く者もいたが、その震える指先が本心を裏切っていた。
女――巫女は揺るがない。
「恐れも、怒りも、疑いも理解しています。
あなた方は無力に思えるでしょう。ですが選択はただ一つ。傍観し、世界が燃えるのを許すか――それとも立ち上がり、戦うか。
力はすでにあなた方の中に在る。共にある。私が導きましょう。……できますか?」
沈黙が落ちる。
金属のように輝く草原を風が撫で、土と野の香りを運んだ。
視線が交わり、誇りと恐怖と好奇心がぶつかり合う。
やがて一人、前列の男子が口を開いた。
「……チッ……わかったよ。やってみる。でも死んでも知らねぇからな」
後方の女子が頬を赤らめながら叫ぶ。
「わ、わたしも……やるわ! でもこれ、正気じゃない!」
巫女は首を傾け、その瞳にかすかな柔らかさを宿した。
「良いでしょう。では来なさい。あなた方の旅は街から始まります。そこで役割と道が明らかになるでしょう」
一行は巫女に導かれ、丘を下っていく。
谷間には大都市が広がり、煙と焼きたてのパンの匂い、そして石畳を流れる川の塩気が混じる。
空を舞うのは見知らぬ鳥たち。溶けた金属のように光る翼を持つもの、虹色に揺れる羽毛を纏うもの。
その歌声と叫びに、生徒たちは口を開けて立ち尽くした。
「……あれ……夢みたい。生き物なのに、現実じゃないみたい……」
天音は小さく呟いた。
「生きてる……彼らは。……でも、私たちは――まだ」
街はまるで古代の迷宮のようだった。
高くそびえる塔、市場、そして複雑にねじれた石畳の通り。
その大道を行き交うのは、ありとあらゆる形をした存在たち。
石のように磨かれた肌を持つ角付きの巨人。
足元を縫うように飛び回る小さな翼のある生物。
そして、ほのかに元素の光を纏ったヒューマノイドの商人たち。
生徒たちは囁き合い、友人の袖を掴む者もいれば、鼻をひそめて未知の匂いに戸惑う者もいた。
巫女が静かに手を上げると、見えない手に引かれるカーテンのように喧騒がすっと消えた。
「――あなた方一人ひとりには、固有の力が授けられています」
その声は凪のように澄んでいた。
「心を覗きなさい。あなたの“ステータス”が現れるでしょう」
次の瞬間、十数枚の光のパネルが目の前に浮かび上がった。
明るく、奇妙で、神秘的。
稲妻のような興奮が走り、声が爆ぜる。
歓声、呪詛、笑い――人間らしい一瞬の安堵。
「……《スカーレットフレイム》だ!」
「……EXP十倍!?」
ユキの顔に笑顔が広がる。
希望が旗のようにひらめいた。
天音は、自分の番が来るとそっと目を閉じた。
世界の色を吸い込むように深く息を吸い、しかし感じたのは内側の脆いひび割れだけ。
彼女の前に現れたステータスパネルは、幽かな白い文字で浮かんでいた。
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名前: 天音セイレン
種族: 人間
クラス: 未割り当て
レベル: 1
HP: 100/100
MP: 5/5
筋力: 6
敏捷: 7
耐久: 4
魔力: 0
運: 1
固有スキル: 【ライター】― 任意のスキル名を書き換えることができる
状態: 戦闘不適合
潜在: 不安定
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空気がひやりと冷たくなった気がした。
彼女の周囲で、失望が怒れる蜂のようにざわめく。
「……それだけ?」と誰かが鼻で笑う。
「……攻撃スキル、なし?」
細く嫌悪に満ちた笑い声が、生徒たちの間を滑った。
天音は頭を下げ、すべての言葉が重みを持って落ちてくるのを感じた。
そのとき、ユキの手が彼女の手を探し当てる。
指先がかすかに触れ合い、それは細い命綱のようだった。
ユキの瞳には、壁にならないで――という沈黙の祈りが宿っていた。
「……大丈夫?」と、彼女は小さく囁いた。
召喚されて以来、初めて、天音の中に微かな震えが走った。ユキを見つめるその瞳に、世界が要求する礼儀としての微笑を無理やり浮かべる。
「……大丈夫よ」
その言葉はあまりに自然に嘘に染まり、まるで真実のようだった。
巫女は彼らを街の大門へと導いた。
「あなた方はグループに分けられます」
声は正確で、儀式めいた響きを帯びていた。
「各グループは訓練し、成長し、能力に応じた任務に就くでしょう。中には予想を超える試練に立ち向かう者もいるでしょう。絶望してはいけません――迷ってはいけません。これから明らかになるものを信じなさい」
生徒たちの間に緊張の波が走る。
「……え、分けられるの? 不公平だ!」と少年が拳を握り叫ぶ。
「……無理だ! 何ができるかもわからない!」と別の者が恐怖で顔を歪めて声を上げた。
巫女は杖を掲げ、反発のささやきはすっと消えた。
「あなた方には必ずチャンスがあります。これは罰ではなく、訓練です。準備です。道はあなた方を試すでしょう――しかし歩むことでしか、力を知ることはできません。自分を信じ、仲間を信じなさい」
生徒たちは太陽に引かれる惑星のように散らばった。
輝く瞳が未来を掴み、栄光の噂が広まり、弱者たちは噂の的になった。
天音の名前は第三グループに呼ばれた。
扉が閉まる音のように、運命が彼女を押し込めた。
「……不公平だ!」誰かが抗議する。
「……僕たちは使い捨てじゃない!」
巫女の瞳は、月明かりに照らされたガラスのように冷たく、柔らかくなることはなかった。
「拒む者は去ることもできます――道を見つけられればですが」
ユキは無理に笑みを作り、一歩前に出る。
天音の手に自分の手を重ねた瞬間、世界は縮んだ。
「……また会おう。必ず探す。約束する」
その声は恐怖と決意が入り混じったかすれ声だった。
天音の喉が詰まり、ただ頷いた。頷くことは、何も奪わない。
彼らは円形の大広間へと導かれた。
高い天井、冷たい石の匂い。雨に濡れた古の石を思わせる。
中央にはもうひとつ、光る召喚陣。
無骨な袋が、鈍い音を立てて床に投げられる。
言葉が与えられ、命令が下る。
巫女の低い呟きが、残ったわずかな希望を切り裂く。
「弱者の審判を始めよ」
ドームは無情な必然の冷たさで閉じられた。
光は彼らを飲み込み、空気よりも飢えが支配する場所へと吐き出した。
目の前にはダンジョンが広がる。
狭く、古の物語の湿気に濡れた空間。
鉄の味を帯びた影。
自身を忘れ、変化して戻ってくるこだま――鋭く、容赦なく。
パニックが判断を飲み込む。
教室で輝いていた魔法は暗闇の中で sputter(途切れるように)消えた。
最初の血が流れ、熱く、不快な匂いを残す――混乱と肉体に爪が引き裂く低く響く音。
暗黒の中で赤い瞳が光る。
変異した狼――飢えに狂う。
天音は中央に立つ、風化した像のように。
周囲のクラスメイトは叫び、引き裂かれていく。
ひとり、またひとり、叫びは破れ、消え、廊下は悲劇の異様なモルタルで満たされる。
鉄の匂いが、かつて恐怖しかなかった空間に濃く立ち込める。
「……天音!」誰かが叫ぶ。非難と懇願が混ざる。
「……どうすればいい? 何か言って!」
天音はついに顔を上げる。
映し出した顔は、平らな鏡のようだった。
「……ごめん」
暴力を止められると思って言ったのではない。
言葉はただ、錨を探して漂っていた。
そして走る。
脚は動作の記憶だけを覚えていた。
夢から逃げるかのように、濡れた石床に足を叩きつけ、喉を裂く息で走る。
悲鳴は応答のない合唱のように追いかけてくる。
傷つき、血を流し、彼女はダンジョンの廊下をよろめきながら進む。
数分か、数時間か――誤って横道に入り込む。
ちらつく松明の光が、見捨てられた部屋を照らす。
錆びた箱、埃に半分埋もれた骸骨、そして中央には台座に載ったネックレス。
小さく、醜く、耐え難く美しい。
穴のように黒い宝石が銀の細工で縁取られ、松明の光を受け止める。
記憶のように。
その輝きを見つめた瞬間、世界は収縮した。
空気は薄く、距離感は耐え難く鋭い。
ダンジョンの葬送の合唱は消え、糸――最初はかすかな声――が頭蓋に滑り込む。
「望みを叶えたいか?」
その声は形を持たないが、孤独の角度にぴたりと合った。
こんな言葉が慈悲のように聞こえるとは思わなかった。
肩に触れる手のように、近く、恐ろしい約束の色を帯びていた。
彼女は、かつてそこにあった顔と去った顔を思う。
ユキの指が自分の指に触れた感触。
最後の、普通の日の暖かさ。
罪悪感の余韻。生き残ったことで、ガラスのように空っぽになった自分。
「……はい」
答えは不完全でしかなかったが、口から零れた。
ネックレスは冷たく首に滑り込む。皮膚より深く沈む冷たさ。
骨に脈動が走る――凍てつく火が墨のように広がる。
「この絶望……深い味がする」
声はつぶやき、一瞬、何か古の存在が彼女の人生全てを写本のように読んだ気がした。
彼女の手は許可を待たず、台座に置かれた剣を握る。
幅広く、古び、ネックレスの応答に振動する。
その重さが瞬間に彼女を繋ぎ止めた。
許しを請えなかった者たち、最後に自分が許せるもの――全てを思い浮かべる。
「……ごめん、ユキ」
誰にも、すべてに向かって、吐息のように。
鋼が肉を貫く。
痛み、鋭く、恐ろしい。
記憶、暗闇、感覚を貫く。
世界は一瞬、一点に縮む――もう二度と聞くことのない名前、写真、終わりの可能性。
しかし――終局が決まる前に――
ネックレスが閃き、運命がその瞬間に牙を立てた。
世界が傾く前に見た最後の光は、優しくも許しもない、しかし正確な一閃。
視界は裂け、別の何かがその裂け目に織り込まれる。
運命はまだ語り終えていなかった。
古く、飢え、あるいは単に機会を狙った何かが、その亀裂に気づき、足場を選んだ。
剣は手から滑り落ちる。その余韻が室内に長く響く。
鼓動を超えて、別の声――ネックレスの甘い誘惑とは違う声――が石の間を風のように息づく。
「……子よ」
「選んだのだな。我らが応えよう」
慈悲ではない。
優しさではない。
しかし――応答だった。
すべてを失った彼女の瞳に、新たな世界の光はあまりにも残酷だった。