初めて
もう少しで、あと数ミリで、多分触れてしまう。口が、唇が逃げられない。こんな公の場で。侯爵も子爵も、騎士も令嬢も、あの子もその子も皆が見ているのに。こんな意味不明な相手に。こんな予測もしていなかったようなタイミングで。
……私、初めてなのに!!!!!!!!
エレーユは、カッと全身が熱くなったのを感じた。
燃えるような衝動に任せ、気づいたら、大きく手を振り上げていた。
エレーユとゼファルの周りにいた人々がひゅっと息を呑む。
でも、エレーユは止められなかった。止めちゃいけなかった。このまま止めずにゼファルのなすがままになっていたら、きっと後悔するから。
パアン!!!と大きな乾いた音が会場に響いた。
そして、その反響が聞こえるほど、会場は静かだった。
……やって、しまった、みたい。
激しく動いたわけではないはずなのに、エレーユの息はゼイゼイと上がっている。
振り上げた方の手のひらがジンジンと熱い。
目の前でゼファルがゆらりと動いたのが、恐ろしくスローモーションに見えた。
心臓がドクンとなり、動悸が早くなってくる。
……まずい、まずい、まずい。
エレーユは咄嗟に、この場から逃げれば助かるかもしれないと考えた。
全速力で駆け抜けて、見つけた馬に乗って見つからない場所まで逃亡する……しかし、そんな抵抗も無駄だと我に返る。
相手はあの帝国の皇太子。圧倒的な武力を持つ大国の、戦争でも拷問でも処刑でも、なんでもござれで有名な帝国の皇太子。
エレーユはあろうことか、そのゼファルの頬を、全力で叩いてしまったのだ。
一気に酔いが覚めた思いだ。
……これから私はどうなるのかしら。打首?火炙り?それともこの場で斬首?ああ、何にしても死だわ。
「悪くない」
「え?」
しかしエレーユは、まだ生きていた。
「従順な女は腐った魚のようにまるで使いものにならないが、勝ち気な女は悪くない」
「あ、えーと」
「帝国に来い」
「私、貴方の頬を叩いて……」
「活が良い女の方が好みだ」
ゼファルの予想外の発言に、エレーユはまたまたポカンと口を開けた。
……口答えする人間は問答無用で処刑しそうだと思ったけど……。
「こちらに来い。このまま連れて帰ってやる」
ゼファルは、エレーユの手を引いた。有無を言わせない強さの力で、腰を抱き寄せられてしまう。
ど、どうしよう。
殺されなかったのは幸運だったが、これはこれで良く無い。
皇太子に変に気に入られてしまったこの哀れな令嬢は、このままどうなるのだろう。
結婚なんて言っているが、本当にさせられてしまうのだろうか。一応だけど婚約者もいる身だが、それはどうなるのだろうか。
というか、このままだと全部無視して本当に帝国に連れて行かれてしまいそうでもある。帝国なんかに連れて行かれたら、エレーユは果たして生きていけるのだろうか。全然違う文化の中で、カルチャーショックで発狂したりしないだろうか。
いや、メリエーヌあたりの王族がなんとか取りなしてくれて、なんとかこの場は切り抜けられるかもしれない。
他人任せで申し訳ないが、こうなって仕舞えばメリエーヌ達王族が頼りだ。
視線だけでメリエーヌを探すと、彼女は騒ぎを聞きつけて、料理台からこちらに向かってくるところだった。
しかし、周りの者に「出て行くな」と止められてなかなか進めないようだった。
一応婚約者であってもエルフリートが執りなしてくれる可能性はありえないし、会場の貴族や騎士からの助け舟も期待できない。
周りにはエレーユとは家同士の付き合いで顔見知りの貴族や、仕事などでよく話す騎士が多くいるが、彼らではこの地雷のような皇太子の相手はできない。
むしろ、下手にされて大問題に発展しては困るから、大人しくしていてもらわなくてはならない。
だが、かといって、エレーユ自身ももう打つ手無しだ。
エレーユが項垂れたところで、追い討ちをかけるようにゼファルが笑った。
「なんだ、緊張でもしているのか?では今から部屋に来い。一度俺を知れば、お前もなりふり構わず帝国へ連れて行ってくれとせがむようになるだろう」




