その8
僕は緑仙先輩を抱きしめると、上下を逆転させる。緑仙先輩をベッドに寝転ばせて、瞼を閉じさせる。
催眠アプリの効力は抜群で、緑仙先輩は一瞬にして寝息を立てはじめる。
目尻から一粒の雫が零れて、僕はそれを拭う。
これ以上事情を聞くのは、男としてのプライドに関わる。
緑仙先輩は多分……いや、ほぼ間違いなく父親からの虐待を受けている。
薄くなった痣から治りかけの傷まで、服で隠せる所にしかなかった。しかも、あの眼帯。恐らく目立つ傷を隠すためにつけているのだろう。
僕が集めた情報によると緑仙先輩が中二病になったのは中学に進学してからで、それ以降は友達付き合いも悪くなったらしい。
「根本的な問題は父親だな。金利関係が悪化して体を売られそうになってしまったのだろう」
僕が緑仙先輩に彼氏だと思い込ませる催眠だ。行為を強要したり、エッチになるような催眠はしていない。
つまりは、今までの動きは緑仙先輩自身の考えや行動だということだ。
「さすがに、違和感の一つや二つは感じてたけど、まさかここまでとは……」
再び服を着て、先ほど言っていたホテルの位置を調べる。ここから徒歩5分ほど。
財布から万札を出して机の上に置き、僕はその場を後にした。
部屋から出てロビーに向かう。延長料金を支払い、催眠アプリで僕と緑仙先輩が来たことを忘れさせる。
「僕には催眠アプリがあるけど、緑仙先輩は持ってないからね。一応記憶を削除させとかないと……」
受付を後にして、僕は緑仙先輩から聞いたホテルへと向かった。
外は豪雨で道行く人は傘をさしていそいそと歩いている。全身を濡らしながら僕は、催眠アプリを起動した。
「命令。僕の身体能力は120%発揮できる」
目玉がギョロリと動き、僕の脳内がアドレナリンで満ち溢れるのを感じる。
そもそも人間は常に5%ほどしか本来の能力を発揮できないように、制御されている。
だが、この催眠アプリがあれば、そんな制限を簡単に解除できる。
「催眠アプリの使い方はエロだけではないんだよな……僕はやはり天才だ!」
全身に力を込めて走り人の群れを避けていく。雨粒が一つずつ視認できるほど、周囲がゆっくりに見える。
道行く人は傘で視界が遮られているため、僕のことを気にする人はいない。
颯爽と駆けていき、一分も経たないうちに目的地のホテルへと辿り着いた。
裏路地に建てられた八階建ての建物で看板に、愛暗リゾート。と書いてある。
僕は入り口で立ち止まり、スマホを握りしめた。
体が段々と熱くなっていき、動きの制御が効かなくなってくる。
「ここからは時間との勝負だな……とりあえず、中に入るか」
歩みを進めて自動ドアを通る。中は意外と広く入り口付近にソファがあって、そこを通り過ぎると受付があった。周囲にお客さんはいない。
僕は慌てたようすで向かい、部屋の中にいる受付の人に話しかける。
「すみません? 予約している緑仙せ……花畑の知り合いなんですが」
「え~と、少し言っている意味が分からないんですけれども」
受付の不潔なおっさんは、顔をしかめてぶっきらぼうに言い放つ。
せめて緑仙先輩に何号室なのかは聞いておけばよかったな。
……いや、場所を尋ねたときに、何号室かは言っていなかった。つまり、このロビーに集合するはず。
しかし、客は僕しかいない。八方塞がりな状況に頭を抱えていると、先ほどの不愛想なおっさんが、僕に話しかけてきた。
「あのさ、冷やかしなら帰ってくれない? というか君未成年だよな。学校に連絡するぞ!」
「……すみませんが、花畑という客はいないんですね?」
「そうだよ! 分かったら、さっさと出てってくれ。こっちも人を待ってるんだから」
おっさんの何気ない言葉に、僕の脳内が急速に働いた。
催眠アプリを起動して背後から見えるように、おっさんから隠す。
「それじゃあ、ちょっと場所を間違えたみたいです……失礼しました」
後ろを振り向いた瞬間に、
「命令。僕の姿を忘れて、かわりに緑仙先輩の姿に見える」
「ち、ちょっとそこの嬢ちゃん? もしかして待ち合わせとかしてるかい」
僕は不敵な笑みを浮かべてコクリと頷いた。再び受付の方に体を向けると、おっさんは慌てたようすで鍵を出してきた。
「これがホテルの部屋だ。409号室だから、エレベーターに乗ると良いぞ」
おっさんは頬を緩めていやらしい目つきを浮かべている。鍵を受け取ろうと取手を出すと、
「それにしても、君みたいな可愛い子が……ねぇ?」
僕の手を弄るよう掴んできて、気持ち悪く撫でまわしてくる。
「ほら、少しくらいやっても……って、あれ? 意外と体が硬っ――」
おっさんが後方に吹っ飛んだ。受付の部屋の書類が散り舞って、おっさんがグッタリと動かなくなる。
僕は鍵を握りしめて、おっさんを殴った拳を払った。
エレベーターに行って4階を押す。機械音と共に上昇して扉が開く。
409号室の前に辿り着き、僕は目の前の扉をノックした。