その19
催眠アプリを使わずに、僕は命令を聞くようになってしまった。
クレアと緑仙先輩の要求を全てのむ奴隷になると覚悟したが、
――携帯の電子音。クレアが持っている僕のスマホから数回のコール。
鈴音からの電話が聞こえてくる。
『……はち、最近帰りが遅いんじゃない。わ、わたしがわざわざ連絡してあげたんだから、どんな理由があろうとも全力で今すぐ帰ってきなさい!』
脳内が急激にアドレナリンで満ち溢れ、120%の身体能力が解放される。
僕はクレアからスマホを奪い返すと、急いでその場から駆け始める。背後から命令と叫んでいる彼女たちの声が聞こえるが、僕の体は止まらない。
よ、よかった……命令が上書きされたんだな。ありがとう鈴音、最愛の義妹よ。
住宅街の屋根を飛び移り、地面に転がり衝撃を減らし、全速力で帰宅した。
泥や枝を体につけながら、僕は玄関の扉を開ける。
「ただいま」
「お、お帰りなさい」
「我が愛しの義妹鈴音よ、お兄ちゃんが抱きしめてあげよう」
僕が両手を広げて、出来る限り爽やかに微笑む。
鈴音は一瞬ポカンとした表情を浮かべて、そして顔を真っ赤にして階段を駆け上がり自室へと戻っていった。僕も鈴音に続き、部屋に戻るとベッドへと倒れこんだ。
翌日。いつも通り朝食を作り身支度を整えていると、緊張した面持ちの鈴音から、
「あのさ、たまにはエッチなことを言わないはちも見てみたいんだけど……」
「僕から煩悩をとったら、カッコいい顔と天才的な頭脳しか残らないぞ?」
「それで充分だってば。え、えっちなことじゃなくて、女子の手伝いとかお願いを聞くだけでモテるかもしれないよ?」
「だけど……」
「お願いっ! はちが学園中の噂になってるからさ、わたしにも色々と弊害があるんだよ」
「安心しろ。何か手を出してきた生徒がいたら、僕の猥談で辱めてやるからさ」
「はちがそういうことばっかりするから、わたしもス、スケベなのかなって、目線を向かられるの!」
声を荒げる鈴音。僕のことで一番影響があるのは分かっているけど、だからといって僕がアイデンティティをそう簡単には失えない。
堅苦しい表情で悩む僕に、しびれをきらした鈴音は僕に指を向ける。
「これは命令! どんな人だろうが、どんなお願いだろうが、えっちなこと言わずに、やり遂げること!」
「え~、僕にそんなことができるわけ――」
……ちょっと待て。僕は昨日の時点で同じような催眠をかけられている。鈴音のおかげで事なきを得たが、今回は違う。
催眠アプリでどんな人や命令でも実行するように受けて、
鈴音からその条件下で断ることなく、やり遂げることを命令された。
重複した催眠と命令。片方を解除しても、もう片方が打ち消す。
急速な脳の処理が終わり、僕は半ば諦めた微笑みを浮かべて家を出た。
学校に行く途中、大きな荷物を持ったお爺さんに話しかけられた。
「すまんが、病院まで案内してもらえないかい?」
「……もちろん大丈夫ですよ」
僕は爽やかに微笑み、お爺さんと荷物を抱きかかえて病院へと猛ダッシュした。全身筋肉が悲鳴を上げるが、体のブレーキが壊れたようで酸欠になりながらも無事に爺さんを送り届ける。
汗だくになりながら、学園に遅れて到着した。何度も学園を騒がせていた僕は、午前中は学園内の掃除をするように罰則を受けた。
今の催眠と命令が重なっている状態でやるのは嫌だったが、断ることが出来ず笑顔で承諾した。
三角巾を頭に巻き体操服に着替えた僕は、学園中の掃除を始めた。全ての廊下を雑巾でピカピカにし、男女両方のトイレを新品同様に磨いた。
周囲から奇妙なものをみるかのような視線を向けられる。普段とは違い戸惑いだったり、感謝は籠ったような感じで、心が落ち着かない。
「とりあえず学園中の掃除できるところは、全部したと思うけど……」
園庭に生えている花に水を与えようと、水が入ったバケツを担いで廊下を歩いていると――走ってきた女子生徒をぶつかる。
「危ない!」
倒れるギリギリで女子生徒を抱きかかえ、宙に浮いたバケツの水から身を挺して庇う。
バケツが床に落ち、僕は全身に水を浴びるが女子生徒は無傷であった。
濡れちゃったけど彼女にケガをさせなくてよかった。
「か、カッコいい……」
女子生徒が顔をゆでたこのようにして、僕からゆっくりと距離をとる。
僕はずぶ濡れになった体操服を脱ぎ。上裸になると周囲から歓声が沸く。
「もしかしてシンプルな九々一はイケメン⁉」「あんな可愛い顔して筋肉質とかギャップ萌え~」「猥談を話さない蜂さんが、単にモテる奴なのか!」
多種多様な反応だったが、意外にも受け入れられていることに、僕はほんの少し驚き、午前中の授業が終わるチャイムが鳴った。




