その13
どうも人間サンドバックこと……九々一蜂です。
現在、僕の上に馬乗りになっているクレアが、鬼の形相で鳩尾を殴打してくる。
呼吸ができず、脳まで酸素がまわってこない。
「す、少しでいいから……僕の話を……聞いて――」
「いいから黙って殴られなさいッ!」
クレアの重い一撃が、僕の肺に残っていた酸素を全て吐き出させた。
頭がズキズキと痛み出す。視界が、赤、黒、赤、黒……と、色彩が壊れ始める。
ヤ、ヤバい。確実に意識が飛ぶッ!
徐々に痛みが快楽へと変化していき、見えている世界が徐々に狭まっていき――扉が開く音――緑仙先輩が現れる。
「ちょ、ちょっと! 何してるのくれあ!」
緑仙先輩がクレアを羽交い絞めして、僕の体から退ける。
僕は嗚咽を繰り返し、肺に酸素を送り込む。体を起き上がらせて、徐々に脳が正常な働きをし始める。
「ゲボォ……あ、ありがとうございます、緑仙先輩」
涙目で緑仙先輩を見上げる。視線が交わって互いに照れくさくなり頬を赤らめる。
そんな姿を見たクレアは、体をジタバタと動かす。
「み、緑仙っ、なんでそんな奴なんかに……も、もう知らないッ‼」
涙と鼻水で化粧がグチャグチャになったクレアは、抑えられている緑仙先輩の手を払いのけると、旧校舎の扉から走って出ていく。
僕はスマホを回収して立ち上がり、緑仙先輩に訊ねる。
「もしかしてクレアと過去に関係があったんですか?」
「……やっぱりわかっちゃうよね」
緑仙先輩は苦虫を潰したような表情を浮かべ、
「くれあは私の彼女だったんだよ、高校に進学する前に振られちゃったけどね」
気まずそうに言った。僕はその発言に思わず目を見開く。
な、なんだと……クレアと緑仙先輩が恋仲だった⁉
百合カップルが身近にいることに驚き、僕が仲を裂いた間男なのかと心に衝撃が走る。
「私が家の問題で悩んでいた時に喧嘩しちゃってね……だから私が悪いんだ」
緑仙先輩が切なげに微笑む。そして僕の方に近寄ってきて手を握ってくる。
家庭環境にまきこみたくない緑仙先輩、彼女の心配をして何とか力になりたいと思うクレア。
互いを思いやる感情は一緒なのだが、方向は別々で喧嘩に発展。
恋人同士だった二人の複雑な事情に、僕は絶妙に心が痛くなる。
「そうなのか。なんだか悪いことをした気がするな」
「あ、あのさ。それでハチくんに聞きたいことがあるんだけどさ……」
そういえば、僕の趣味嗜好を根掘り葉掘り聞くとかいっていたっけ?
僕の情報で隠すようなものなんて何もない。性癖だろうがケ毛穴の数だろうが、なんだって答えられる。
緑仙先輩は照れたようすで笑い、頬を赤らめる。
「式場はどこで挙げよっか⁉」
予想の斜め上からの質問だった。脳が突然のことに思考を停止する。
緑仙先輩は興奮したように捲くしたてる。
「とりあえず婚約指輪から選びにいこっか! 付属する宝石もつけなきゃいけないし、なんだったら骸骨がハマっている勇ましいのでも大歓迎だよっ!」
な、なんだこのかなりズレた中二病状態の緑仙先輩は……愛のグラフが偏りすぎている。
僕はじりじりと滲み寄ってくる緑仙先輩から距離をとりつつ、何とか片手を振りほどく。スマホをポケットから取り出し、すぐさまに催眠アプリを起動する。
スマホを見せつけた瞬間に、緑仙先輩は目を閉じた。
「前はその変な目玉みたいなのを見て動けなくなっちゃったからね、しっかりと対策は考えているんだよ」
ドヤ顔で胸を張る緑仙先輩に驚くが、僕は素朴な疑問を感じる。
だったら、それって何も見えていないのでは?
もう片方の手を自由にして、僕はその場から急いで駆け出す。
旧校舎の廊下を走り、扉を開ける。後ろから緑仙先輩の声が聞こえ、僕は大きな声で話す。
「すみません! さっき泣きながら飛び出したクレアの様子が気になってしまって、だからこの話は後日ということで!」
咄嗟に思いついた言い訳だが、筋は通っているはずだ。
僕は足を動かしながら、スマホを見てこれを張り上げる。
「命令! 僕の身体能力上限を解放して、無我夢中で走らせろォ!」
脳から急激にアドレナリンが発生して、体が軽くなる。
憧れていた緑仙先輩と二人きり。手を出すなら今しかなかったが、もしも、危険日で僕との行為で既成事実を作られたら……
そういうのはもう少し大人になってからでも良い気がする。うん、絶対。
無尽蔵のスタミナで街を駆け巡り、色々と頭の整理がついてきた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
催眠アプリを解除すると、一気に体の疲れが押し寄せてきた。
「でもこれくらいやらないと、現実逃避の一つもできやしないんだよな」
自宅から一時間ほど離れた場所に着てしまい、周囲はホテル街。
いたたまれない雰囲気にさっさと家に帰ろうとした所で、
「……なんで、クレアがこんなところにいるんだ」
薄暗い路地に、金髪の少女が座っていた。あの髪色と風貌はどう考えてもクレアだ。
僕はため息をつきクレアに近づこうとして、先に大学生っぽい二人組が話しかけに行ってしまった。




