8. 虐待のシンデレラ (2)
柳木の拳がゆっくりと千花の頭上に迫る。すかさず二歩下がった千花は臨戦態勢で反論する。
「だって絵本でエラって名前見たことないですし!タイトルも『シンデレラ』なんだから勘違いしても仕方ないですよ!」
「こら逃げるな。確かに絵本は子どもに分かりやすいように構成されてるからな。特に日本における『シンデレラ』のストーリーはディズニー作品からの影響が大きい。本名のエラ含め、詳しい話は原作を読む必要がある」
「原作?」
絵本のままがストーリーではないのか。しかし、一般女子高生がシンデレラの原作を読んでいないからって、拳を上げるのはパワハラが過ぎる。
「そう。有名なものがふたつあって、一つ目がシャルル・ペローの『サンドリヨン』。ガラスの靴とか、かぽちゃの馬車ってイメージはペロー原作に由来してんな。そんでもう一つがグリム兄弟の『灰被り姫』。これは多分千花の知ってる『シンデレラ』とはずいぶん違う。魔法使いもいねえし、ガラスの靴も銀や金で出来た靴なんだ」
「同じ『シンデレラ』でもずいぶん違いがあるんですね」
原作を元に華やかなエピソードに構築し直したものが絵本の『シンデレラ』ということか。
千花は警戒しながらじりじりと柳木の隣に戻る。その様子に握ったままの拳を凝視した柳木は、ふっと肩で息をするとパーカーのポケットに右手を突っ込んだ。
「グリム童話の方がよく聞きますけど内容は絵本と似てないんですね、ちょっと意外」
「気がついたな。実はそれにもわけがある」
さっきまでの棘がなくなり、穏やかな不良となった柳木に目配せされ、千花は再び歩き始めた。店に帰り着くまで話題は尽きないんだろう。下手な笑みが上機嫌の証拠だ。
「ペロー童話もグリム童話も民間に伝承されていたお伽話を収集し、まとめたものだ。だが両者には特徴的な違いがある」
「ふむふむ」
「グリム童話は第一巻が一八一二年に刊行され、ドイツの昔話をまとめたもんだ。他の童話集と比較して、口承のまま脚色されずにかたちを保ってる。だから話の内容や表現が残酷で子ども向きではないとされたんだ」
グリム童話はありのままで残酷……っと。あまりそういうイメージがないのは、現代では子どもが読めるように暗い部分をそぎ落としたからなのかな。
千花の疑問に答えるように「今言ったのは初版についてだ。数十年後のの第七版で、ある程度の修正はされている」と柳木は補足説明した。
「ペローはグリム兄弟よりも早く十七世紀のフランスの民間伝承を編纂してる。ペローの童話集は宮廷なんかのサロンの女性向けに作られた面があってな。刊行する前に女性が読みやすいように修正が入った。だから子どもにも読ませやすい」
サロンって貴族の社交界だったっけ?と頼りない世界史の知識を引っ張り出しながら、千花はペロー童話の特徴を反芻していた。つまり今日の『シンデレラ』がペロー原作に近いのは、脚色されたおかげで万人受けしたからってことだ。
説明されればされるほど、納得と疑問符が交互に頭を切り替わる。横断歩道の赤信号を眺めながら千花は無意識に呟いていた。
「グリム童話はドイツ、ペロー童話はフランスなのに同じ伝承があるんですね」
思ったことが勝手に口から出て、千花はハッとした。柳木の方に視線を移すと彼も同様に驚いた顔をしている。頭上の車用信号機はまだ青のままだ。
「お前は説明していないところを的確についてくるな。よく聞いてる証拠だが粗探しされてるみてえだ」
「脊髄反射といいますか、疑問は口をつくんですよ」
「優秀な神経系だこと」
呆れているのか誉めているのか絶妙な反応の柳木に「いいから教えてくださいよ!」と言葉を催促した。
「わかったわかった。つっても広く伝わる伝承ってのは案外多いもんだ。例えば日本の『さるかに合戦』。類似した『ブレーメンの音楽隊』や『コルベス』はそれこそグリム童話だ」
「日本とドイツに似た伝承があるんですね」
「『シンデレラ』はもっと類話が多い。ペローやグリム以前に南イタリアで書かれた『灰被り猫』、平安時代に日本で書かれた『落窪物語』、中国唐代の『葉限』なんかが挙がる」
「えっそんなに⁉ほんとに世界中にありますね」
語り継がれるから歴史になる。時代を縦に繋がってきただけじゃなくて、人から人へ、国から国へ、横に渡してきた過去がある。そんな神秘を童話に感じられるなんて……なんだか不思議だ。また少し童話に興味を持った気がする。
柳木の解説が終わると、やっと信号が切り替わった。向かってくる自転車をよけてセミフラットの歩道に進む。
書店『CLOVER』のあるこの周辺一帯はかつて商店街だったらしい。太平洋に面し、漁業で栄えた港町だったと観光パンフレットで読んだことがある。
海から程なくして小規模の台地があり、宅地開発が行われた。早い段階で産業を漁業から鉄鋼業へとシフトチェンジし、働き口が増えたこと、もともと県の中心地に近いことが味方し、立て直しに成功している。近年はIT系のアウトソーシング企業が参入しているとか。地方創生に一役買っているらしい。
千花は、父親の仕事の都合で台地の住宅街に引っ越してきた。高校入学のタイミングだったので特別な疎外感を感じることはなく、一年以上暮らせばこの街での生活は日常になっていた。
千花と柳木は長い一本道を左側にある河川に沿って歩いていた。歩道の幅は狭いので対向者に配慮して一列に。柳木が前で、千花はその大きな背中をじっと見つめて着いていく。