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童話書店の夢みるソーネチカ  作者: 横山くらい
平衡のシンデレラ
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6. 悪夢「灰色の温度」

 寒い。


 冷凍されているのかと思うほどの茨の冷たさに千花は悲鳴をあげて飛び起きた。


 ここはどこ?私さっきまで『CLOVER』の閲覧席で絵本を読んでいたはず……なのに。


 思い出せる最後と現状はどうしても結び付かない。見渡す限りの黒。一寸先といわずとも目に映るすべてが暗闇でなんの輪郭も辿れない。冴えるほど、不安定な自分を認識して霞ませる。体の震えが、寒さからなのか恐怖からなのか判断がつかなかった。


「や、柳木さん?誰かいませんか……」


 返事はなく、反響もしない声。広大な闇にただ一人。周囲の冷気が容赦なく心を削る。


 ……嫌だ、怖い!


 千花はしゃがみ込んで唯一確かな地面に指を這わす。床面は粗いテラコッタで氷のように冷たい。指先のヒリヒリとした痛みはこの場所にさえ拒絶されているのかと思わせる。


 姿勢を低くしたことで千花はいつもの制服を着ていないことに気がついた。切り貼りされたワンピース。裾が至る所から裂けていて穴も開いている。千花の服ではない……けれど最近どこかで見たような気がする。


 不幸にもこの粗末な服の無数の隙間から冷気が侵入し、一層肌が凍てつけられる。空気に擦れる感覚に千花は顔をしかめた。


 このままじゃ……。何が起こっているのか、夢を見ているくらいに荒唐無稽な状況だけど、近い未来に自分は凍えて死ぬのだろうと本能が予見する。南国出身の千花にとって経験したことのない寒さだった。


 ……留まるくらいなら、進もう。


 疑問を解決しようとする余裕はもうなかった。そもそも千花の頭では答えにたどり着けないと思うけれど。こんな悪夢に論理を求めても仕方ない。

もしかしたら出口があるかもしれない、その一心でふらつく足を懸命に動かす。


「誰か……返事してよ…………」


 掠れた声が無意識に零れる。いつ足が止まるか分からない。当てのない暗闇を一歩歩むたび、体が重くなっているような気がする。


 組んだ腕を掴む両手は力み過ぎて爪が立っていた。はっきりと並んだ跡が赤を深めている。けれど、歯を食いしばって身を縮めることだけが千花のできる唯一の寒さへの抵抗だった。


「助けて…………」




「……デレラ」


 誰か、いるの?


 純黒の空は相変わらず世界と一体化した無だけれど、千花は確かに天上から降る声をとらえた。それは時間の残されていない千花にとって一筋の希望だった。


「お願いします、助けてください!」


 出せる限りの声で千花は叫んだ。数秒の後、数多の言葉が弾丸のように千花の頭上から降り注いだ。


「シンデレラ、あなたは奉仕する側でしょう?」

「おこがましい、恥を知れ」

「ばか言ってないで働きなさい。今日の仕事は終わったのかしら?」

「まあひどいわ!私の部屋のお掃除がまだじゃない!」

「朝食のお皿も残っているわよ。これはどういうことかしらね」


 ……やめて。


 声が混ざって頭の中に反響する。吐き気とめまいに襲われ、ふらつきながらも必死に体を支える。


 ……もう聞こえないで。頭の中に入ってこないで!


 耳が潰れるくらいに力任せに、千花はその穴をふさいだ。


「このくらいも満足にできないなんて、生きる価値があって?」

「本当に惨めだわ」

「邪魔。生まれてこなければよかったのに」

「亡くなった母親の後を追ってあげればいいのよ」

「みすぼらしい、目に毒だわ」

「消えろ……」


 ……もう…………やめて。


 一転不気味な静けさが訪れ、千花は恐る恐る耳をふさぐ手の力を緩める。壊れた人形のようにぎこちない動作で腕を下すと、どろりとした気配が背後からまとわりつき、耳元で囁いた。


「ばいばい」




 千花の絶叫はどこまでも拡散し、闇に溶けた。


 その声を合図に、埃が雪のように舞い落ち、四方から皿の砕け散る音が聞こえる。罵詈雑言は再び天から降り注ぎ、心をすり潰していく。


 千花はなにかを振り払い、走り出していた。涙と暗闇で前も見えないまま、声の届かない場所を探して一心不乱に駆ける。寒さでかじかんだ足も今だけは千花の味方でいた。


 ……思い出した。このボロボロの服、さっきまで読んでいた絵本の中でシンデレラが着てたんだ。私いま、シンデレラなんだ。


 シンデレラが虐げられている不遇な少女だとは知っていた。それでもこんなにつらいの?傷だらけの服で、死ぬような寒さで、雑用を強いられて、言葉で抉られて。私はもう耐えられない。


 どこからか、少女の声が聞こえた。


 何といっているのか暴言が重なりある闇の中では判断できなかったけれど、千花を包み込むような優しい響きで、その声は千花を導いていた。顔を上げると、狭まった視界の遠方でかすかな光が宙を舞っている。不思議とあれは千花の味方でいてくれる存在だと思った。荒い息も収まらないままに、一歩一歩光を目指す。


 たどり着くまでの時間は長かったのだろうか。意識がはっきりすると、目と鼻の先にその光は佇んでいた。遠くからは点に見えていた光は、光子が寄り集まってアヒルの雛のように見える。


 高く飛べるはずのない雛はその場でくるくると宙を舞った後、手を振るように左右に揺れて、上空に弾けた。


「待って!」


 暗闇に飲み込まれた優しい光に手を伸ばす。


 踏み出した足、その親指に微かなぬくもりを感じた。気がつけば鋭い雨も止んでいる。千花は手の甲で瞼をぬぐい、地面にゆっくりと顔を近づけた。


 足元の色はこれまでよりも明るい。涙の落ちたところがうっすらと濃いしみになっている。二つの指でつまんでみるとそれはサラサラとした粉末、灰だとわかった。


 ……灰って温かい。こんなにも心強いんだ。


 物悲しい色の中で千花はうずくまった。胸いっぱいに灰を抱きしめて、小さな笑みを浮かべていた。相変わらず暗くて寒くて孤独なところだけど、わずかに伝わってくる温もりだけで心が満たされた。


 灰をかぶった少女は、極寒の闇夜の下で緩やかにその意識を閉ざした。




「……い大丈夫か!おい!」


 切迫した声が近くで響いている。大きな手が両肩を掴む力に千花は痛みまじりで覚醒した。首をひねると鋭い目を見開いた柳木がこちらを覗いている。後方のライトが眩しく、千花は再び机に顔を伏して呟いた。後ろめたい気持ちで目を見て話せないことも一因だった。


「や、柳木さんだ」


「柳木さんだな。お前、体調が悪いなら事前に言え。すごい汗だ」


「すいません違うんです。私絵本を読んでいる間に寝ちゃって……それで悪夢を見ただけなんです。仕事中なのに、心配もかけてごめんなさい」


 不安で苦しかった夢と従業員としてあるまじき失態。黒いものが心を締め付けて千花は涙がこぼれそうになった。


 柳木の期待を裏切ってしまったこと、迷惑をかけてしまったことに自分を責めずにはいられなかった。バイトももう、やめさせられるかもしれない。彼の次の言葉を聞くのが怖かった。


 柳木は言葉を探すようにいくらか唸ってから口を開いた。


「まあなんだ、勤務中にうたた寝してたことは注意しよう。次からは拳骨で起こす。が、悪夢は精神的に参ってるときや疲れで見るらしいな。お前の様子は尋常じゃなかった。今だって体が震えてんの気づいてるか?今日は今すぐ帰って寝ろ。健康な状態で次は来い」


 その言葉で自分がまだ暗闇の世界から戻り切れていないのだと気がついた。柳木の優しさに罪悪感は残ったが、傷ついた心がやっと休める場所を見つけられたみたいだ。こらえていたのに温かい涙が一滴頬を流れた。


 急いで目元を拭い、直視はできなかったけれど体を向き直して千花は答えた。


「ありがとうございます、本当に反省します。POPとポスターは家で作ってきますね。よかったらこの絵本貸してもらえませんか?」


「絵本は俺の私物だから問題ねえよ。それじゃあ土曜日に持ってきてくれ……まだ調子戻らねえなら車出すぞ」


「もう大丈夫です!これ以上迷惑は……」


「そうか」


 柳木はそう言うとカウンターの方へ戻っていった。柄にもないことをしたという風で微妙な表情を浮かべている。最近は遠慮のない関係だったので、弱いところを見られ、千花自身落ち着かなかった。


 ……お言葉に甘えて、今日はもう帰ろう。


 慰められて、泣いたのもバレバレだろう。恥ずかしくなった千花は絵本と道具を手早くまとめ、速足でバックヤードに逃げ込んだ。そうして、ふと空想のシンデレラに思いを巡らせるのだった。

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