2. 書店CLOVERにて (1)
「お兄さん奥の机使ってもいいですか?」
火曜日の放課後、バイト先の児童書店『CLOVER』に到着すると、見慣れない少女が店長の柳木と話をしていた。畦編みのニットワンピースの上からキャメル色のランドセルを背負っている。身長から見て小学校中学年ぐらいだろうか。
「うちは図書館じゃないんだぞ……まあいい、静かにできるなら好きに使え」
「ありがとうございます」と女の子は頭を下げた。ベルの音で気づいていたらしく、店の入り口で静かに扉を閉じていた千花に続けて会釈した。
小学生とは思えないほど洗練された動き。まるで彼女がこの店の職員で自分が歓迎されたお客様のような錯覚を覚え、千花はどぎまぎしてしまう。これはお辞儀の練習が必要かもしれない。
まだ少しあどけない声で「それでは」と柳木に断った少女は店の左奥に小走りで進んでいった。
そこには絵本を試し読みできるように三卓の壁付けテーブルが備え付けてある。千花がこれから担当するレジのカウンターの隣だ。しかしそれは初めて来たお客さんなら知る由もないことで。
「あの娘、柳木さんのお知り合いですか?」
柳木との挨拶を終え、バックヤードに行く前に千花はたずねた。この目つきの悪い店長に頼み事ができるのは、物怖じしない度胸のある子か彼の人柄を知っている子のどちらかだ。どちらもそういないだろうけど。
きまりが悪そうにくせっ毛の頭をかきながら、柳木は唸るように答えた。
「ゆかは俺の高校時代の恩師の子どもなんだ。客さん用の机だし他の子が真似して店に来ても困るから断るべきなんだがな。本当にあの教師の子どもかって疑うぐらいにできた子で。拒否すんのも気が引けてたまに勉強スペースとして使わせてやってる」
ゆかと言う名の折り目正しい少女は、オーク材の丸形スツールに座り、ランドセルからノートを取り出していた。
柳木は、語感からして恩師の娘だからというよりも彼女の清廉な雰囲気に圧倒され、むげにできないんだろう。遠慮のないやんちゃな子どもなら容赦なく外に放りだしていそうだ。
それにしても、恩師という割には敬いが足りてないような気がする。
柳木が人間に対して毒のある物言いをするのは珍しかった。決まってそれは彼にとって気の知れる間柄の人たちばかりだ。ゆかの母親であるというその教師について、千花は質問せずにはいられなかった。
「その先生ってどんな方なんですか?柳木さんやっぱり高校生の頃やんちゃしてて、その人に怒られてたとか」
「やっぱりってなんだよ。むしろ逆。俺は在学中、生徒会をしていた時期があった。その時の生徒会担当教諭が先生、朝野美保だった」
生徒会……。学ラン姿の柳木が脳内に浮かぶ。と同時に、一九八〇年代のような長ランにボンタンを穿いた柳木を生成してしまい吹き出しそうになる。
毅然とした代表生徒を思い浮かべるはずだったのに……顔と態度が想像を捻じ曲げてくる。すぐに頬を引き締めたがバッチリ見られていたらしい。なんだと睨まれた。
「生徒会なんて窮屈な仕事を担当してんのに、先生はノリと勢いで仕事してるようなもんだった。おかげで生徒会自体は明るい環境だったし、生徒の代表として気を張ることもなかった。ただ先生のずぼらが俺らを苦しめることの方が多かったな。卒業式に使う垂れ幕製作用の資材を発注し忘れてた時はさすがに怒った」
豪快な人だ。柳木さんを振り回すなんてただものじゃない。
柳木は本棚の整理をしながら言葉をつづけた。
「あとは負けず嫌いだったな。体育教師だったし、そういう性なのかもしれねえが。モットーなんて『目には目を、歯には歯を』だ。やられたらやり返す、意地には意地で対抗だ!って言って」
顔も見たことがないのに、朝野美保が鮮明に思い浮かぶようだった。話を聞けば聞くほど、ゆかとは似ても似つかない。柳木の反応も当然のように感じた。
「俺は高校生の頃からゆかの自慢話を聞かされてた。そんときはゆかも二歳か三歳で、写真を見せてもらったがお世辞なしで可愛かったな。そのままに成長して、今そこで勉強してんだから感慨深いもんがあるよな」
「なんだかおじさんっぽいですね」
「ほっとけ」
思い出話をしていると、後ろで扉の開く音が聞こえた。
まずい。長話をしたせいで千花は学校指定の紺のセーラー服のままだった。柳木に目配せされ、急いでバックヤードの更衣室に駆け込む。
まだ新しいスチールロッカーには『相根』と書かれた名札が取り付けられている。掘り込み型の取っ手を手早く引き、セーラー服の上着をハンガーにかけながら、千花は日常になりつつある『CLOVER』での活動を振り返っていた。
……読み聞かせの本を探しに行ったのがきっかけだったんだよね。
柳木とはある事件によって知り合い、読み聞かせの才能を買われてこの店にスカウトされた。ここは童話書店だが、子どもやその親とのつながりを大事にする柳木は、月に一度、この店の向かいにある喫茶店で読み聞かせ会を行っている。母親層からの評判はいいと、マスターが教えてくれた。しかし肝心の子どもたちには怖がられるみたいで……。
読み聞かせは場面の盛り上がりに応じて声の強弱や緩急を変えることがある。柳木の声の迫力に反応してしまうのかもしれない。
そうして子どもに慕われる読み手を探していた柳木に、目をつけられたのが相根千花だった。読み聞かせの目的もあるが、彼自身人相の悪さも相まって接客が苦手だったらしい。
千花も本が好きであり、幼い頃から小学校の先生になるのが夢だった。子どもたちと関われる『CLOVER』でのバイトは魅力的で、勧誘されたその日に両親の了解をもらっていた。
……いけない急がなくちゃ。
午後五時頃からは人の入りが多くなってくる。壁にかかる時計は四時五十分を少し過ぎていた。ロッカーの扉が奥まで閉じたのを確認して、千花は店内に戻った。