聖誕の逃亡
やったのはプリメラだろうか。それとも、使用人か領民か。
いずれにせよ、シルヴィアのかすかな希望は見透かされていたらしい。
「だい……じょうぶ。また、やり直せば」
つぶやいて、シルヴィアは砕け散った物を拾おうとして、そのまま両膝を突いた。力が入らなくて、あれ、と思う。
そういえばろくに食べていなかった。そのせいだろう。
「……問題ない。想定内」
どうにか手に入れたものを奪われ、壊される。いつものことだ。慣れっこだ。また、諦めず積み上げればいい。
そう言い聞かせて、暗い空から、白いものが舞い降りそうな夜空を見あげる。
穴のあいた靴先から、凍てつくような冷気が吹きこんできた。薄い襤褸布一枚では凍え死んでしまう。今夜をどうするかを、早く考えねば。
「魔力がない私は、ここではお荷物、ゴミと同じ……ただの、事実に、傷つかない」
小さなつぶやきを、鐘の音が無慈悲にかき消した。
聖誕の夜が始まったのだ。ただの巫女ではない、本物の聖女が生まれる夜。シルヴィアの嘆きなどかき消す、荘厳で残酷な音。
「でも海の向こうなら、きっと違う」
屋敷のほうから大歓声が響いた。プリメラの瞳に聖痕が出たのだろう。鐘の音もかき消すような祝いの声。それがシルヴィアに向けられる日は決してこない――それでも。
「きっと誰かひとりくらい、私、を……っ!」
突然、両目に激痛が走った。
息を呑んだシルヴィアは両手で目を覆って、体を折り曲げる。目が熱い。
(痛い、痛い――何!?)
錆のようなにおいがする。じわりと涙ではない何か、ぬるりとしたものが目元と手を汚すのがわかった。
やがて、熱を持った痛みが少しずつ引いていく。おそるおそる目をあけると、視界がかすんで焦点がぶれたが、両手が見えた。それと、指先についた錆臭い赤。
血だ。
「……!?」
ぎょっとしたシルヴィアは、振り返って馬小屋の裏に並べられた桶の中を見る。雨水をため込んでいたその桶は、月と星明かりの下で水鏡のようにシルヴィアの顔を映し出した。
痛みで流したのだろうと思っていた涙の色は、赤だ。
そして見開いた両目の奥に、初めて見る模様がある――十字架の、聖痕。
(聖眼!?)
思わず桶を突き飛ばした。ごろごろと桶が転がり、冷たい水で赤い血の汚れが落ちる。
(どういう、どういうこと。私は魔力がない。聖眼が使えない。だから、そもそも聖眼は宿らず聖女にはなれないはず! 聖女失格だって。だから)
さすがに想定外の事態に、思考がまとまらない。いったい何の冗談なのか。
混乱しながらもひとつ奥の桶を覗きこむ。瞬いても、瞳の奥の十字架は消えない。
「お、おち、落ち着いて。未来……は視えない。聖殿で皇帝候補と誓約し、皇帝選に登録しないと、予知能力は宿らない、から……」
だが聖眼がなくともはっきり視える未来がある。シルヴィアは立ちあがった。
(殺される)
聖眼が宿れば聖女だ。もうお荷物の姫ではない。理屈の上ではそうだ。
だが、現実がそう都合よく運ぶはずがない。
聖眼が宿る条件は、聖女の血を引くことと最低限の魔力があることだ。シルヴィアは魔力がなかった。だから聖女になれぬお荷物だと蔑まれてきたのだ。
なのに、シルヴィアは聖眼を発現させた。
言ってしまえば特別な聖女――希有な存在になる。
そんなもの、恰好の実験材料ではないか。
次の聖女を生むために売りに出される、なんて話が優しく聞こえるくらいだ。
聖誕の夜に対して、シルヴィアはひそかに希望があった。プリメラが皇帝選に挑む以上、そちらに手を取られて監視の目も数も手薄になるという希望だ。だがそれは今、完全に砕け散った。むしろ今以上に監視は厳しくなるに違いない。
(今、逃げるしかない。いつかじゃ間に合わない!)
つばを呑みこんだシルヴィアは、先ほどまでの嘆きも忘れて一目散に駆け出した。
今なら鐘が鳴り終わったばかりで皆、プリメラに夢中になっているはずだ。聖眼の発現に激痛が伴うなら、手を取られている可能性も高い。おまけにお祭り騒ぎで浮き足立っていて、いつもより警備も手薄だった。藪の中を進んでいけば屋敷の外には出られる。
そのあとは姿を隠そう。周辺の地理は大丈夫だ、覚えている。
屋敷は領民にも開放されているので、見とがめられず抜け出せた。問題はその次だ。
「おい、あれ……!」
「お荷物姫じゃないか!? おい逃がすな、つかまえろ!」
「つかまえればきっと聖爵から報奨が出るぞ!」
ちょうど街を囲む門を抜けようとしたあたりで、見つかってしまった。やはり街の出入りを監視する目までごまかすのは無理だったようだ。
騒ぎはすぐ伝播し、皆が逃げるシルヴィアを注視し始める。幸いなのは酔っ払いが多いことだった。たいまつの用意にももたついている。その間に分かれ道の向こうにぶかぶかの靴が脱げたように放り投げておき、反対側の道の藪に飛びこんだ。
草木の生い茂る道なき道を、月明かりだけを頼りに走り抜けながら、唇を噛む。追跡の気配はないが、いずれ大勢に追われるのは明白だった。
(せめて聖眼が使えれば先が読めたかもしれないのに……!)
だが、その聖眼が出たせいで、いきなり殺されるか死ぬかの二択だ。理不尽すぎる。
何か奇跡くらい起こしてくれないと割に合わない。でもどんな奇跡だろう。わからない、奇跡など願ったことがない。むしろ何を望めば助かるのか、教えてほしい。
何を望めば『普通』に生きていけるのか――どんと、何かにぶつかった。
尻餅をついたシルヴィアは急いで顔をあげようとして、稲妻に打たれたかのような衝撃を受けた。逃げることも息をすることも一瞬、忘れた。
森の中、わずかに差し込む月夜の下に、青年が立っていた。
宵がかった色の髪は月明かりを吸い込んだように艶を帯びている。中でもとびきり美しいのは、星屑の瞳だ。冷たくて、透明で、まばたくたびに、星みたいに輝きを変える。
シルヴィアが今までの人生で見てきたものの中で、いちばん美しい。
(これがまさか、奇跡……?)
惚けたまま、そんなふうに思った。




