虐げられた少女
その日は、前日から国中、いやシスティナ大陸中が沸き立つ日だった。
百年に一度の聖誕の鐘が鳴る日。聖女が誕生する夜である。
ベルニア聖爵家の屋敷も例外ではなく、生花やリボンで壁も柵も彩られシャンデリアがきらめいている。日が沈んでからも洋灯や燭台があちこち灯され、街中が明るい。街中では領民にも食事が振る舞われているらしい。ベルニア聖爵家から聖女が誕生する、そのお祝いを待ち構えてのお祭り騒ぎである。
よそ者にも馳走が振る舞われ、酒を楽しむ、にぎやかな夜。
修道院の子どもにもケーキが配られるこんな夜に、暗い物陰で残飯をあさっているのは自分くらいのものだ。
だが、ご馳走にありつける日でもある。いつものゴミ箱にはパンの耳だけではなく、生クリームがついたケーキの生地の切れ端に、欠けたラスクまで入っていた。果物の皮もある。野菜の根の部分も少しなら食べられそうだ。
途中の中庭では何個か飴を拾ったので、大事に懐に入れた。いざというときの非常食になる。しかも、拾ったのはそれだけではない。
聖誕の夜を祝うため飾りに使う銀貨も一枚、拾ったのだ。
(今日はついてる)
大事な逃走資金がまた貯まった。シルヴィアの頬が緩む――が、窓硝子に映った自分の顔はひとつも変わらない。目立たず、感情を出さず、影のように生きることを心がけていたら、いつの間にか表情筋が死んでしまった。冷たい相貌は人形のようで不気味だとよく言われるし、自分でもそう思う。
だが、内心はうきうきだ。何年もこんな生活をしていれば、硬貨や色んな道具を拾うことはある。でも、銀貨を拾ったのは初めてだ。
逃走用に集めている他の硬貨や道具と一緒に、大事に隠しておかないといけない。いつか古着や穴のあいてない靴をそろえ、この街を出て、船に乗って逃げるために――そのためにはどれくらいのお金が必要なのか、よくわからないのだけれど。
とにかく、屋敷中がパーティーに手を取られている今のうちだ。できるだけ色んなものを拾い集めて、次の飢えに備えておかなければならない。
とりあえず食べられるものは、この場で食べてしまおう。まずケーキの切れ端を放りこみ、果物の皮と一緒にパンの耳を噛みちぎったそのときだった。
「シルヴィア」
名前を呼ばれて顔をあげる。目があった途端に、声をかけた少年は目線を泳がせた。見てはいけないものを見た、という顔だ。
口元のパンくずを拭い、シルヴィアは少年に向き直る。猫のようで怖いと言われる菫色の瞳を一瞬だけ眇めると、金髪の少年は頬を引きつらせて、たどたどしく言った。
「ひ、久しぶりだね。僕がわかる?」
「わかります、ジャスワント様。お久しぶりです」
「う、うん。……君、何をしているの?」
「食料調達です」
見てわからないものだろうか。不思議に思っていると、ジャスワントが唇を噛んだ。
「聖女ベルニアの血を引くご令嬢が、残飯漁りだなんて……」
「今日は収穫日和ですが」
ジャスワントに痛ましそうな顔をされて、シルヴィアは説明を中断した。
もちろん、客観的に自分は残飯を漁るみじめな少女だというのはわかっている。幼い頃は自慢だった髪はばさばさ、肌も汚れでくすんでいる。着ているものも裾がほつれた粗末なワンピース。夏に拾ったものなので生地が薄すぎてすうすうする。頭からかぶって外套がわりにしているのも、ただの襤褸布だ。サイズの合っていないなめし革の靴は、穴があいている。
だが助けるでもないジャスワントに、なぜ憐れまれるのかわからない。
「ひょっとして、臭いますか。雨水でできるだけ拭いているんですが」
くん、と外套がわりの布をかいでみるが、自分ではわからない。
きゅっと眉をひそめて、ジャスワントがつぶやいた。
「聖女ベルニアもお嘆きになる」
「私は聖女失格なので、嫌われていそうですが」
「聖女ベルニアは慈悲深い御方だよ、そんなことしない」
むきになったように、ジャスワントが詰め寄ってくる。
「何より、君はれっきとした聖女ベルニアの末裔だ。その血統に対して、こんな扱い許されるわけがない。……僕は元婚約者なのに、何もできないのがもどかしいよ」
「気にしないでください。私の問題です」
淡々と返すと、なぜかジャスワントは切なげに微笑んだ。
「ありがとう。君は強いね。……僕は、皇帝選に出ることも怖くてたまらないのに」
「お姉様みーっけ!」
わってはいった声に、ジャスワントがびくっと身を震わせた。
明るい栗毛にくりくりと大きな瞳、人なつっこい愛らしい顔立ち――妹のプリメラだ。
厚手の外套を羽織り、上等な編み目の革靴で元気いっぱいに駆けてくる実妹は、いかにも愛され大事に育てられたお転婆令嬢といった姿で、シルヴィアとは似ても似つかない。まるで光と影だ。シルヴィアとプリメラが並べば姉妹というより、令嬢と使用人、いやお姫様と施しを受ける物乞いに見えるだろう。
「か、帰ってきたんだね、プリメラ」
ジャスワントがうわずった声で、愛想笑いを貼り付けた。プリメラは頷き返す。
「ついさっきね。パーティーに間に合わせろって大急ぎで。ジャスワントもきてたんだ」
「そ、それはもう、君が聖女になる大事な夜だからね。プレゼントもたくさん持ってきたんだよ。大広間に置いてあるから」
できればそのままふたりで大広間に行ってくれと願ったが、大体こういう願いが叶ったためしはない。
「嬉しいな! で、お姉様と何を話してたの?」
「特に何も」
淡々としたシルヴィアの答えに、プリメラがジャスワントへ視線を投げる。そうするとジャスワントがちらちらとこちらを見ながら、答えた。
「か、彼女から声をかけられたんだ。食べ物がほしいって、どうしたものかと」
「そうなんだ。わかったよ、お姉様にはボクから言っておくから」
「あ、ああ。頼んだよ」
ジャスワントがそそくさと逃げ出す。なんだか話が食い違っていた気がするが、訂正する気にはなれない。時間の無駄だ。
「ジャスワント、まだお姉様に未練があるのかもね。嬉しい?」
「婚約はとうの昔に破棄されました。今はあなたの婚約者兼皇帝候補では?」
「ボクはお父様とお母様がうるさいから、婚約しただけだよ。そもそも皇帝選が悪いんだよー聖女は皇帝候補と誓約しないと参戦できないって、面倒だよねえ。ボクが参戦したら皇帝候補なんか誰だって結果は同じだろうにさ」
プリメラはジャスワントを見送ったまま、頭の上でひとつにくくった栗毛の髪先をいじっている。
「お姉様、元気だった?」
黙っているシルヴィアにプリメラはひとりでしゃべり出した。
「ボクは大変だったよー今回の遠征。すっごい山間の田舎でさあ。移動の馬車はずーっとお尻が痛いし、食事だって大したもの出てこないし、遊ぶものもないし。なのに、みーんなボクの苦労も知らずに助けてくださいってさ。あんな薄い瘴気と下級妖魔にびびって、ボクをいちいち呼び出さないでほしいよ。ね、お姉様」
「瘴気に冒されたら作物も育たなくなります。皆、命がかかっているからでしょう」
淡々と事実だけ告げると、プリメラが振り向いた。
「命かあ。お姉様はいいよねえ。残飯漁りなんて、暇でさあ。毎日生きてて楽しい?」
プリメラの口元は笑っているが、菫色の瞳は笑っていない。同じ菫色の瞳を伏せて、シルヴィアは事実を確認した。
「そうですね。あなたのおかげで瘴気とも妖魔とも無縁ですごせ――ッ!」
正面から突然、突風がくる。プリメラの魔力が放った衝撃波だ。
細くて軽いシルヴィアの体はあっさり吹き飛ばされ、地面に転がった。