016 ニセ嫁、旦那様(ニセ)と喧嘩する。
結局一睡もせず憔悴しきった私は、一矢の束縛を振り切り、慣れないコルセットを着けて苦しい思いをしながら、これまた慣れないお嬢様衣装(最早ドレスね)に身を包んだ。鏡で自分の姿を見るだけなら、衣装のお陰でなんちゃって令嬢には見えなくも無いが・・・・マナーや言葉遣い、その他諸々・・・・私に出来るのかな。不安だらけだが、一か月しか婚約パーティーまで時間が無いし、引き受けた以上は責任を持って頑張るしか無い。
朝から鬼松――もうこれから修業中は、中松じゃなくて鬼松と呼ぶことにしてやろうかな――の修行に耐え、朝食の時。おはようの挨拶をしても、一矢はぶすっとした顔で機嫌を損ねていた。かなり機嫌が悪い様子だ。
おのれ・・・・昨夜は勝手に人のファースト・キスを奪っておきながら・・・・!
何でそんなに不貞腐れた顔をしているのよ! 腹立つわあ! 本当だったらこっちが怒りたい所よ!
ぶすっと不機嫌そうな顔をしながらも、相変わらず広いダイニングなのに私の隣に座ってくる夫。怒っているのに隣に座るのは、何故?
「伊織。どうしてちゃんと私を起こして、朝の挨拶をしていかなかったのだ」刺々しく一矢に言われた。
「え? 早朝からニセ嫁修行があったし、気持ちよさそうに寝ていたから、起こすと悪いと思って声を掛けなかっただけよ」
「そんな気遣いは不要だ。夫婦として初めての夜を過ごし、起きればお前が隣で眠っているのが当然だろう。それが嫁の務めだというのが、何故お前には解らないのだ」
「そんな事言われても・・・・」
えー。そんな定義知らないし!
「朝から気分が悪い。嫁失格だな」
一矢は相当怒っている。なんで? 私、そんなに悪い事した?
しかも嫁失格とか、言い過ぎじゃない!?
起こさなかったのも、理由があるんだから!
ニセ夫の態度に腹が立ったので、言い返してやった。「お仕事で疲れているだろうから、ニセ嫁としてニセ旦那に気を遣って起こさなかっただけよ! それの何が悪いの!?」
こんな時、素直に『ごめんなさい、私が悪かったわ』なんて言えたらいいんだけど。
そんな風に言える女だったら、初恋はここまで拗れていないわよねー。はあああー。
朝から超・最悪な気分!
「本当に口の悪い女だ。先が思いやられる」
思いきりため息を吐かれた。
「だったら私にニセ嫁なんか頼まなきゃいいでしょ!」
「他に頼めないから、仕方なくお前で手を打っているのではないか」
「モテる割に一矢は友達ゼロだもんねー。人徳無いから」
「伊織・・・・言ってはならぬことを・・・・!」
一矢が余計に怒り出した。
「先に喧嘩売って来たのはそっちでしょ!」
私も後に引けない。
「伊織様! 一矢様に向かって何という口の利き方ですか!! ご自分の立場を弁えなさい!」
大声で喧嘩をしている所へ、一矢の味方しかしないクソ松が飛んでやって来た。左手にパンやらスープやらを乗せた銀トレイを持っている。朝から鬼修行でこっちはへとへとなのに、何で二人にここまで怒られなきゃならないのよ!
「中松、アンタの主人は私が朝、彼を起こさなかっただけで『嫁失格』とか言ってくるのよ! 何が悪かったワケ? そんなにイヤなら他にニセ嫁頼めばいいじゃないって言っていた所よ! 文句ある!?」
「伊織様、文句しかありませんよ」中松は冷ややかな笑顔を湛えて言った。この鬼が!「どんなに理不尽な事を言われましても、主人の言う事は絶対服従ですから。一矢様は貴女のご主人でもあるのですよ。嫌ならそちらこそニセ嫁修行などさっさとお辞めになられて、緑竹家にお帰り下さい。当然、一千万円の借金は即、全額回収させていただきますからね。そのつもりで一矢様に立てつくならご自由にどうぞ」
中松は本当に鬼だ。こちらとしては、言い返す事が何もできなかった。
本当は辞めたい。私にはたとえニセとはいえ、令嬢なんて向いていない事は自分でも解っているし、ニセ嫁だって務まるとは思えない。
悔しい。言い返せないのが本当に悔しい。
泣いちゃダメだ。こんなところで泣くくらいなら、最初から喧嘩なんか売ったり買ったりしちゃ駄目。
私が頑張らなきゃ、一千万円の借金を自分たちで払って返さなきゃいけなくなる。そうなると目途が立たないから、当然グリーンバンブーは人手に渡ってしまう――私達一家を助けてくれた一矢にたてつく訳にはいかないのだ。
「も・・・・申し訳ありませんでした。自分の立場も弁えず、一矢様に向かって失礼を致しました。お許し下さい」
唇をぐっと噛み締め、頭を下げ、気分が優れないから部屋で休ませて貰います、朝食は要りません、と滲んだ涙を見られないようにして、だだっ広いダイニングを後にした。
こんな状況で家には帰れない。借金の為に、私は自分の自由や人権を一千万円で一矢に売ったんだ。彼らがどうしようと、私は選択の余地もない。ただ、言われたことを的確にこなし、人形みたいに笑っていればいいだけ――
ぽろぽろと涙が零れた。
こんな苦しい服を着て着飾って美しくなっても、なんの意味もない。
汗臭くても油臭くても、一生懸命働いてグリーンバンブーに食べに来てくれるお客様の為に毎日仕込み頑張って、美味しい料理を作れるように日々努力する方が私は好き。私が私らしくいられる場所は、やっぱりあの家しかない。こんな屋敷なんかにいても、窮屈すぎて幸せになれない。
これは一矢の事が好きでもどうにもならない壁で、恐らく想像もできない程高い壁なのだ。
恐らくこの壁は生涯埋めることはできないだろう。次元が違い過ぎる。
これも、大切なお店を守るためだ。頑張れ、伊織、負けるな、余計な感情は捨てて、人形令嬢のニセ嫁になるのよ――唇を噛み締めて静かに涙を流していると、ノックが掛かった。慌てて涙を拭い、擦れた声でどうぞ、と応えた。
部屋に入って来たのは、一矢だった。
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