010 お帰りのキスを強要する旦那様(ニセ)。
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次の更新は、6/16 12時です。
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こちらがあやうく赤面しそうなところへ、真顔に戻った一矢が一言。
「伊織、ただいま」
「あ、お、お帰りなさい!」
たるみ始めた背筋を慌ててしゃきっと伸ばした。「みっともない言葉遣いをしてしまって、ごめんなさい。もう少し上品なレディーらしく振舞えるように努力するわ。でも、中松の指導がキツくて。彼、鬼だから」
クソって言うと明日の中松の指導がもっとキツくなりそうだから、今日の嫌味はこの辺にしておいた。あまりに虐められるようなら、一矢に告げ口してやろうっと。そう思うと気持ちが軽くなった。
「玄関先でこんなに笑ったのも、中松の怒り出しそうな顔を見たのも、初めてだ。中松はいつも涼しい顔をしているからな。伊織には手を焼いているのがよく解る」
一矢は優しい微笑みを浮かべ、目を細めた。あら・・・・こんな顔も出来るのね。私も初めて知ったわ。こんなに長い付き合いなのに、まだ一矢の知らないことがあるのね。
「うん、いいな。・・・・悪くない」おもむろに私を見つめて一矢が呟いた。
「な、なにが? あ、もしかしてこの衣装の事? 鬼・・・・じゃなくて、中松が用意してくれたの。こんなにお嬢様みたいなワンピース、初めて着たんだけれど、サイズもぴったりで」
「伊織。主人が帰って来たばかりだというのに、他の男の話をするな」
「ほ、他って・・・・中松の話もダメなの?」
「ああ、不愉快だ」
「ああ・・・・うん、解った。じゃあ話さないようにするね。配慮が足りなくてごめんなさい」
面白くないとか不愉快だとか、否定的な事をはっきり言う時は、一矢が本当に『嫌』の合図。幼い頃からよく知る癖も、言葉尻も、考え方も、何もかもが解る。解らないのは、一矢の気持ちだけ。私の事、どう思っているのか怖くて聞けない。でも、多分何とも思っていないだろう。彼の周りには、とても綺麗な令嬢が山の様にいる。パーティーで知り合う事もあれば、会社の付き合いで知る事もあるだろう。
洋食屋で汗まみれで働く私なんかが、そんな令嬢に敵う筈もない。だから何時まで経っても、一矢が好きだと打ち明けることも出来ないし、フラれる事も出来ない。
だからこのニセ嫁修行は、せめて頑張りたいと思う。中松を見返すとか、そういうのは抜きにしてもね。これは一矢との恋がダメだったとしても、自分の気持ちにキリを付けられる最後のチャンスなんだ。
一矢が好きな気持ちを後悔しないように、精いっぱい努力しよう。
「・・・・そう素直に返されると困るな。しかし不愉快な気持ちになったのは事実だ。だから、罰を与える」
「罰!?」
この旦那様に、一体何を言われるのだろう。
「夫婦たるもの、夫の帰宅時には、妻の方からキスを施すと聞いたぞ。伊織、私にキスをするのだ」
「はあぁ!?」
令嬢なら上げるような声ではない、素の声で切り反してしまった。絶対に後から中松の嫌味が飛んできそうだ。
一矢とキス・・・・そんな、憧れるけど、そんな・・・・中松も見ている今ここでキスしろと言うのか!
私は一度たりとて、男性とキスをしたことがないのだ。自慢じゃないが。
一矢が好きだから、一矢以外の男の人なんて考えた事も無かったし。
「不満なのか」
拗ねたような物言いをされた。嫌がったと思われたのだろうか。
「あ、あの、私・・・・男性にはその・・・・触れた事が無くて・・・・不満とか・・・・そういうのじゃなくて、その・・・・ずっと店の手伝いとか料理ばっかりやっていたから、慣れてなくて上手くできないと思う・・・・」
「上手くできなくても構わん。今後、夫婦を演じるのだ。その程度やって貰わなければ困る」
「けっ・・・・契約にはそのような事項は無かったと認識が・・・・」
「つべこべ言うな。主人の私がしろと言っているのだ。さあ、早く」
旦那様、ハードル高すぎですって!
しかも『妻の方から旦那様にキスをする』なんて、一体どこ情報なのだろうか。中松情報だったら今度シバく。
私は目を閉じている一矢に屈むよう頼んだ。百八十センチを超える長身で、九頭身のモデル並みのカッコよさ、スタイル。身長が百六十センチほどの標準身長アーンド標準体型な私には、釣り合わない程の美男子だ。
こんなややこしい物件に惚れちゃったのが、運の尽きなんだろうか。
私は未だに恋人のひとりもできないし、この年になってキスのひとつもしたことが無い。
「ぜ、絶対に目、と、閉じておいてよ? 開けたら承知しないからねっ」
中松も行く末を見守っている始末だし、ああ、もう!
こんな状況で大切に守って来たファーストキスを投げ捨てるなんて、絶対に嫌だ!
私は一矢のほっぺに軽く唇を付けた。「はい、終わりっ!」
一矢が切れ長の瞳を開いた。まつ毛長い。少女漫画に出てくるような美形で、幼馴染とか身内びいき抜きにしても綺麗な顔。
ああーああー、静まれ心臓! 動機が・・・・激しくなる。顔が赤くなっているのが解る。
「目を閉じている隙にやってしまうなんて、どういうつもりだ。何も見えなかったぞ」
不満そうに言われた。
「かっ・・・・感じたでしょっ、わ、私の息遣いとかっ、く、唇の・・・・感触、とか」
目が合った。一矢の綺麗な顔に見つめられると、身体が強張る。動けなくなっちゃう。