星の名を持つ悪魔
セドリックと義妹のナディアは六つ離れている。
ナディアは獣人王シドの娘だが、シドが彼女の母親を無理矢理手籠にした結果産まれた子供だった。
人間だったナディアの母親は元々獣人を酷く嫌っていたが、出産後はとても塞ぎ込むようになり、ナディアが赤ん坊の頃に蒸発していなくなってしまった。
シドは傍若無人を絵に描いたような男で、とても赤子を引き取って世話するような人物ではなかった。赤ん坊の状況を不憫に思ったセドリックの両親がナディアを引き取って、セドリックも含めた自分の子と共に育てることになった。
ナディアを入れて兄弟は全部で五人になった。男兄弟ばかりだった所に女の子がやってきたから、セドリックはとても嬉しかった。
両親は子育てや仕事で忙しかったし、長男であるセドリックがしっかりしなければならないと思った。セドリックは実の母の不在を察知して泣くばかりのナディアの世話をよく引き受けた。
オシメも替えたし、ミルクもあげたし、夜泣きの酷いナディアを夜外に連れ出してあやし、忙しい両親の眠りを妨げないようにした。
ナディアが泣きつかれて眠りに落ちると、セドリックは小さな彼女を自分の寝台に連れてきて、一緒に眠った。眠る小さなナディアはとても愛らしくて、まるで天使のようだった。
ナディアはスクスクと元気に成長した。野生動物が刷り込み作用で親の後を追うように、ナディアはセドリックのことを自分を守る唯一の保護者とでも錯覚したかのように、彼の後ばかりついて回るようになった。セドリックはナディアに「お兄ちゃん」と呼ばれて頼りにされることが嬉しくて、義妹をとても可愛がった。
ナディアは人間に良く似ていた。セドリックたち獣人は人間と同じ姿をしているが総じて美しい者が多い。けれどナディアはきらびやかな容姿を持たない、人間的に言えば平凡、獣人的に言えば不美人の部類に入っていた。
しかしセドリックはナディアの容姿が良くないなんて全く思わなかった。ナディアは笑った顔の愛らしい、とても可愛い義妹だ。
他の獣人の子供たちに見た目のことでからかわれると、喧嘩の強いナディアは全員を殴りつけた後に決まってセドリックの所にやって来て、わんわん泣いた。
セドリックはその度に、自分は他の獣人と違って美しくないと言って傷付いている義妹を抱きしめて慰めた。
『ナディアは可愛いよ。お兄ちゃんはナディアを目に入れても痛くないくらい可愛くて大好きなんだ。心ないことを言う奴は放っておけばいい。誰が何と言おうと、ナディアは俺の可愛い天使なんだよ』
その時セドリックは十二歳、ナディアは六歳。
セドリックは自分が言った「大好き」の言葉に含まれている愛情は家族愛的なものだけだと、その時はそう信じていた。
それが間違いだったことに気付いたのは、セドリックが十五歳の時だった。
セドリックは夜這いされてしまった。
相手は二つ年下の、普段から仲良くしている獣人の娘だった。
獣人はそれまでの気持ちに関係なく最初に肉体関係を結んだ相手が番になってしまう。以降はその相手だけを特別な存在として愛するようになる。
どこから手に入れてきたのか知らないが、セドリックが寝ているうちに、力の強い獣人でも壊せない対獣人用の強力な拘束具で絶対に逃げられないようにされてしまい、気付いた時には自分ではもうどうしようもない状態だった。
セドリックは追い込まれた状態になって初めて自分の気持ちを自覚した。
好きだった。ナディアが。妹としてじゃなくて、一生そばにいてほしい大切な相手として。
気付く機会はあった。
例えば、四人兄弟の下に妹が産まれた時。
同じ妹なのだから大事にしなければと思いながら、ナディアと実妹にそれぞれ向ける気持ちがどことなく違っているような気はしていた。
でも無意識に抑え込んでいた。
だってあの子は小さい。まだ九歳だ。
無理矢理身体を暴くなんて、そんなことできるわけないじゃないか。
セドリックは泣いた。もっと早く自覚さえしていれば、こんなことにはならなかったんじゃないか。
(もうこんな、どうしようもない土壇場で気付くなんて、俺は馬鹿だ)
気付いたばかりの恋心は変質していく。
ナディアへの思いは、遠い遠い手の届かない所へ行ってしまって、もう戻らない。
セドリックはナディアのどこに惹かれていたのか、もうわからなくなっていた。
ナディアのことを考えると、大切だったはずの自分の気持ちの一部分が欠けたように感じた。その気持ちがどんなものだったのか思い出そうとしても、思い出せない。
その違和感も、次第に気にならなくなってくる。
セドリックはナディアへの愛を忘れた。
残ったのは、皮肉にも彼が長年そうだと信じ続けていた「家族愛」の部分だけ。
ナディアを異性として愛していた気持ちが戻ることは二度と無かった。
セドリックとナディアが共に歩む道は断たれた。
翌朝、セドリックは家族に番が出来たことを報告した。
元々、番になった相手とは仲が良かったこともあって、無理矢理だったことを軽く責められてはいたが、家族は皆概ね祝福してくれた。
ナディアも喜んでくれた。
自分の家族にも報告してほしいとはしゃぐ番に腕を引かれ、ナディアに背を向けたセドリックは、自分を見つめるナディアの目に、うっすらと涙が滲んでいたことには気付かなかった。
******
「たっだいまー!」
瞬間移動の魔法で実家のリビングに姿を見せると、すぐそばのキッチンで料理をしていた、すぐ下の弟ノエルがこちらを向いた。
「……その声は、シー兄さんですか?」
「正解」
シリウスは自身にかけていた姿替えの魔法を解いた。黒髪黒眼の少女の姿だったものが、白金髪に灰色の瞳をした十代前半の美しい少年のものに変わる。
魔法で変えていた声音は元に戻していたが、実家に戻る途中に本当の姿を周囲に見られてはまずいので、シリウスは安全地帯に来るまでは姿替えの魔法は解かずにいたのだ。
「おかえりなさい、シー兄さん。元気そうで良かったです」
シリウスの真の姿を確認して、ノエルは安心したような微笑みを見せる。
敵地に潜入していた兄が無事に帰宅したのだから、弟としてはホッとしたのだ。
白金髪と灰色の瞳のシリウスとは違い、弟のノエルは、灰色の髪と澄んだ青い瞳をしている。
ノエルとは三学年離れているが、誕生日が十二月末なのでまだ八歳だ。
品行方正なよく出来た弟で、妊娠中で具合の悪い母に変わって本日の夕食を作ってくれていた。
シリウスが任務中の獣人の里から実家のブラッドレイ家に戻ってきたのも、その母の具合が悪いのが原因だった。
母は十二歳のシリウスがたった一人で獣人王シドの支配する危険な場所に潜入して、諜報活動をすることにかなり反対していた。
けれど最終的には本人の強い希望もあって認めざるを得なかったが、第六子の妊娠がわかって以降、シリウスが心配だと塞ぎ込むようになってしまった。
今回の帰省は姿を見せて母を安心させるためでもある。
「いい匂いだな、今日は何だ?」
「シー兄さんが帰ってくるので、今日は兄さんの好物の七面鳥です。からあげもありますよ」
「ヤッター!」
ノエルがオーブンを開けると、焼き上がった七面鳥の香ばしい匂いが濃くなってくる。
「シー兄、お帰りー」
「兄ちゃ!」
廊下に繋がる扉が開いて、別の弟二人がやってきた。ノエルの下の弟セシルと、さらにその下の弟カインだ。
「セシるん! カイちゃん! ただいま!」
セシルは長兄ジュリアスと同じ母譲りの白金髪と碧眼の色彩をしている。セシルは六歳だが色々と年齢不相応というか、少し大人びている所がある。
対するカインは父と同じ灰色の髪と瞳をしているが、顔付きは父ではなく母似であり、二歳児であろうと他のブラッドレイ兄弟たちと同様に類稀なる美貌を誇っている。背中から白い翼が生えたらそのまま小さな天使になれそうだった。
「カイちゃんしばらく見ないうちに大きくなったな!」
シリウスはカインを空中に掲げるようにして抱き上げて、それから天井にぶつからない程度に上方向に投げて受け止めるのを繰り返した。カインは楽しそうにキャッキャッと笑っている。
ノエルはシリウスとカインを見て微笑んでから、食器棚に目をやった。
手を触れていないのに、食器棚の扉と引き出しが勝手に開いて、中から食器やカップ、ナイフやフォークなどが飛び出してくる。食器類はテーブルまで飛んで行って、人数分のセットが綺麗にテーブルに揃えられた。
他にも出来上がった料理が大皿に盛られるなどして、ノエルが直接手を下さなくとも準備が進み、見えざる力でテーブルまで運ばれていく。
全てはノエルの魔法によるものだ。
ブラッドレイ家は母を除く全員に魔法使いの素養がある。カインはまだ能力が発現していないが、魔力が体内にあるのは間違いないので、そのうちに力が覚醒するだろう。
そんな中、セシルがシリウスに近付き、カインとじゃれるシリウスの上着のポケットから、一枚の写真を抜き取った。
「…………ふーん、シー兄も結構悪どいことするんだね」
シリウスは変わらず微笑んだままだ。シリウスはカインを片手に抱いているのとは逆の手をセシルに差し出して、写真を返すようにと促す。
「うん。だって俺のだから。他の奴が彼女の番になろうとするとか、絶対に許せないじゃないか」
セシルも魔法使いである。セシルが得意なのは『過去視』だ。
実物ではなくて写真でもいいのだが、目にした人物や物の過去を見通すことができる。セシルは『過去視』の力が強すぎて、時々見ようと意識しなくても勝手に見えてしまうことがある。
セシルは、シリウスがこの写真に写っている少女とその義兄に何をしたのかを、正確に把握していた。
「この子には一生言わない方がいいと思うよ」
セシルは写真をシリウスに返した。
「セシ、母さんを呼んできてくれますか?」
「はーい」
ノエルに言われて返事をしたセシルの姿が一瞬でその場から消える。セシルは瞬間移動で母の部屋まで飛んだ。
「父さんは今日は戻れないそうなので、母さんが来たら食事にしましょう」
長兄ジュリアスは、現在シリウスの代わりに獣人の里に潜入している為に不在だ。
「それは何の写真ですか?」
ノエルがシリウスに近付いてきて手元の写真を覗き込む。
そこには写っているのは、茶色の髪と瞳を持つ少女――――ナディアだ。
シリウスは嬉しそうな笑顔のままで写真をノエルに差し出した。
「見てよノエ、可愛いでしょ? この子は俺の嫁だよ」
里に潜入しているシリウスは姿替えの魔法で本来の姿とは別人に成り代わっている。ナディアに近付いた所で彼女が彼を「シリウス」だと認識するはずもないし、そもそも現状ナディアにとってシリウスは全く知らない相手なのだが、シリウスは嫁だと言い切った。
「俺、この子と結婚するんだ」
夕食を終えたシリウスは久しぶりに自分の部屋に戻った。
夕食の席に現れた母はシリウスが戻ったことをとても喜んでくれて、しばらく実家に滞在したらいいと言ってくれた。
しかしシリウスとしては、母の元気そうな姿を見ることができて安心したし、早々にナディアのいる獣人の里に戻りたくてたまらなかった。
自室に戻ってから、兄のジュリアスに早めに任務に戻りたいと魔法で連絡を飛ばしてしまうほどには、ナディアに会うのが待ちきれない。
一分一秒でも、ナディアと隔たった場所にいるのが耐え難い。
ずっとずっと、毎日毎日毎日そばにいたい。
シリウスはナディアの写真を写真立てに飾り、何度もキスをした。
(愛している。心から。この思いが彼女に届けばいいのに)
本当は正体をばらしてすぐにでも求婚したいくらい好きなのだが、彼女と番になったら、嗅覚の鋭すぎる獣人王シドは確実に気付くだろうし、まあ色々とまずいのだ。
例えばナディアが里を出るなどしてシドの嗅覚の領域外に出ることがあれば、襲うなり攫うなりできるのになあ、などとシリウスは危険なことを考えていた。
獣人という種族の特性上、一番最初に肉体関係を結ぶことができれば番になれるし、ナディアを自分のものにすることができる。
けれど九歳のナディアは獣人の里でもまだ子供扱いだし、里や、里の周囲に広がる魔の森からも出るような気配は微塵もなかった。
シリウスは夜空を見上げながらため息を吐いた。胸に燻りまくるこの思いをどうしてくれよう。
ナディアを初めて見てその声を聞いた時に、身体に走った衝撃は一生忘れられないだろう。一目惚れ、そう、圧倒的超絶的破壊的一目惚れだった。その瞬間彼女に近付いて抱きしめて口付けたい衝動をなんとか抑え込んだ自分を褒めてやりたい。
番になりたいと思った。
(彼女の番になるのは、この俺だ)
決して、ずっと近くにいながら自分の気持ちにも彼女の気持ちにも全く気付かなかったあの義兄ではない。
ナディアも今回のことできっと目が覚めただろう。
彼女の運命の相手はセドリックではないということに。
「必ず捕まえるから、待っててね、ナディアちゃん」
部屋の窓から見える夜空には数多の星々が煌めいている。
愛しい人の名を呼びながら、早く彼女と番になれますようにと、シリウスは見つけた流れ星に祈った。