第一話〈始まりの在庫処分品》
――はっ。
「いやぁーお客さん、目の付け所がよろしい」
神近は目を覚ます。朝寝坊をしたときのように頭の中に薄靄がかかり、体は鉛のように重い。そんな神近の視界に移る世界は今まで生まれ育った日本とは似ても似つかなかった。神近は不安に焦り、加えて妙な嬉しさのような胸騒ぎがする。
彼にとってこの街並みは消えて嶋たか子を取り戻すようなノスタルジーを感じさせた。
立ち並ぶ建物はみな明々としたレンガで形作られ、それは現実に見たこともない幻想世界の中世ヨーロッパを思わせる。
道脇には活気に満ちた露店や屋台が並び、小さな市あるいは商店街のように見えた。
そこを人間や少し変わった人――例えば耳がついていたり耳が尖っていたり、妙に身長の低いおじさんだったり。人ではないが大きな鳥が台車を牽いていたり――が歩いている。
簡潔に述べるとすればそれはファンタスティックであり、そして彼が創作の中で幾度となく眼にしたような世界だった。幻想世界に抱かれ神近の衰え凝り固まった初老の心は不思議と少年時代のように円滑に動き出す。
直ぐ側には胡散臭い商人らしき太った人物がしきりに手をすり合わせていた。その服装は中世風なこの街に似合わずアラビアンな雰囲気、旅の行商人と判断するのが妥当。営業スマイルはよくまみれでどこか醜い。
その横ではこれまた怪しい仮面を着けた小柄な少女が、顎に手を添えながら何かを眺めていた。今いる店らしきの前の道を一台の馬車の鳥版みたいなものが木製の車輪を唸らせ通り過ぎていき神近の目の前の時間は進み出す。この店の周囲に人は少女以外にいない。
「こちらは三〇年前に、かの有名な蒼竜アンダインの襲撃で滅びたアリシタリア帝国の貴族が使っていたとされる陶器でしてね。値段を付けるとすれば金貨三〇枚はくだらないですよ」
無駄に深く考えられそうに無いので簡潔に判断する。
これは……異世界来ちゃった的な感じなのかと。異世界来ちゃった的なといえば浦島太郎の進化系である。人間そう簡単には非現実的なことを簡単には受け入れない。だが、そういった創作物はいくつか読んでいたから耐性は幾分かあった。
加えると少年時代からファンタジー異世界とはずっと一種の憧れでもあった。ここもそういった中世風なザ・ファンタジーといった様子。神近は喜びと驚きの入り混じった複雑な心境だったものの、ひとまず何が起こったか簡単に把握した。
しかし具体的に目前としたやり取りは全くもって謎に包まれている。あるものはこちらを不審そうな目で見つめ、またあるものは人混みへ溶け込んでいった。
「こっちのは?」
仮面の人物、仮面の少女は神近の方をもののように指さした。
少女は小柄で金髪、セミショートを後で束ねており、表情は黒に赤い線と不気味な仮面に隠れその表情は更々不明。古びたマントに身を包んでおり彼女から読み取れる事は限られていた。
人相手に普通なら憤慨の一つ起こしても良い対応だったが神近は器の広さには自身がある。何より体の重さもあってそんな気は全く起きなかった。
「こちらは何でも百年前に魔王と相打ちになったとされ、以後行方不明のミチカを模った石像でして、祈りを捧げるとただの棒切れを生み出すといった魔法が込められた代物でございます。こちらの石像は在庫処分品でして、銅貨三〇枚よりお売り致しましょう」
商人はこちらを見て幽霊でも見たかのような青白い表情を浮かべたかと思うと、脂混じりの冷や汗を流しながら口早に語った。何か気味の悪いものでもあるのだろうか。しかし妙な吐き気と気分の悪さが後味悪くまとわりつきあまり頭が回らない。
「さっきのよりめっちゃ安いな」
神近が今いる屋台は屋根を持たず、赤地に金色で刺繍された高級感漂う一枚の布の上に陶器や像を中心とした骨董品らしきものが並べられている。少女が先程見ていた陶器はなめらかに黄味がかり、縁は本当に花畑があるかのように華やかに彩られている。見るからに高価そうな様子。頭の中の靄がだんだん薄らいできてやっとのこと血の巡りがいいような感覚を取り戻した。
勇者ミチカの名からして、この世界はあのRPGといったところか。とすると今話しているのは自分のことだろうか、というのが神近の現段階の考察。体は考えに影響されて容易に動くことはなく、自然とただ硬直していた。いくつか引っかかる点があったが何よりも引っかかるのは自分のことを正面の二人が石像と呼んでいる点であった。
「面白そうじゃんか。それ貰う」
「承りました」
気前が良さそうに商人はまた揉み手をし、欲深い瞳を細める。わざとらしい笑みを浮かべながら商人は少女の返答を待った。
「……」
少女は腕を組んだままその場に立ち尽くす。しばし訪れるここだけ空間が切り取られたかのような張り詰めた静寂。それは鳥車が駆け抜ける音を発端にして弾けた。商人はもとから短そうな気を切らして、
「あのーお客様。代金の方は基本前払いとなっていまして」
「ツケって出来ないのか?」
少女は仮面の下に隠れた表情を一切顕にすることなく、とぼけたような様子で言い放った。小太りの商人は迷惑そうに汗をかきながら困り顔を浮かべる。市場のようなこの通りの相変わらずのガヤの中、一つの小さな取引を見て神近は思う。やっぱほんと俺、今どういう状況なんだ? と。
「ツケといいますか、金貨十枚以上のお買い上げでなければ後日支払いはご利用いただけないのです」
「じゃあどうすりゃいんだ? あたし、金持ってないけど」
少女は何でも無いかのように商売というものを全否定する発言を成した。
少女の言葉を聞いた途端商人は様変わりし、
「なんだい冷やかしなら他でやってくれ! うちは骨董屋だぞ。貧民はとっと失せろ」
と罵言を言い放った。まさしく今までのものが演技であることを証明する態度。――その言葉は少女の刃の引き金となった。
彼女は腰に据えたらしき短剣を逆手に持ってすばやく引き抜くと、マントからそれをのぞかせる。剣は彼女の手の内から商人を睨みつけていた。
刀身は両刃だが湾曲しており、太陽光を跳ね返す姿は鋭さを示す。黒い柄から刀身にまで続くいかづちのような模様はまさにファンタジー世界を物語っていた。金が無い、という者の所持品には見えぬ精巧な装飾が刻まれている。
「誰が冷やかししてるなんて言った? こんな目立つ仮面してんだから商人なら、大抵見てすぐに何かしら捧げてくれんだけどな。お前ちゃんとここに来るまで張り紙とか見てきたか?」
少女は声のトーンを落とす。仮面の下にいるのが人ならざる化物であるかのごとく言葉の終わりはヒステリックに響いた。
「あ、あんた! まさか強盗か……。わかったこの在庫処分品はやるから」
強盗にすんなり商品をやっているが、この国の治安維持はちゃんとされているのかと神近は危惧する。そんでやっぱりこの状況が理解できない。俺は商品なのか?
「さいしょっからそうしろってーの。まあ、こいつが牙剥く前に言うこと聞くとは素直でよろしい」
少女は意外にもあっさりと、短剣を慣れた手付きで腰に据え直し、
「金貨なんて必要な陶器、要求しないだけ優しいと思えよ」
少女は行商人に上から目線を向ける。
商人は指を咥えて黙り込んでいた。
「そこまでだ!」
定型文を吐き捨てて、物言わせ、我が物顔で民衆の間の塊を分断したのは三人の兵士らしき男たちだった。
光こそ反射するものの、像が映る程の輝きを持たない平凡な金属製な鎧が彼らのみを包んでいる。彼らは鞘からゆっくりと安価っぽい作りとひと目で分かる片手剣を引き抜いていく。
商人は駆け足で彼らの後に隠れこんだ。
「手配犯フォルナ、強盗が堂々と商店街をうろつけるな?」
兵士は三人組、その一人が朗々とした真っ直ぐな声を上げる。三体一なうえ、少女一人に対し体格の良い男が三人これは危機的状況。
しかしながら、これは俺の異世界物語の発端イベントなのかもしれない、と神近は無駄に期待を抱く。だとしたらここはこの兵士たちを倒すべき。つまりは俺の異世界物語は国とは対峙するタイプのやつか? 年に似合わぬ子供っぽい考え、まるでRPGに没頭する少年時代の自分ように神近は胸を躍らせた。
「捕まえられもしねーで、貧民街へも追ってこないお前らみたいなのがよく言うな」
と思いきや少女も案外強気である。ミステリアスな雰囲気からは想像できない、明るく子供っぽい調子だった。
マントの中で彼女が短剣に手を触れたかのように肘のあたりの布が持ち上がり、シワが寄る。ここは止めに入るのが正解、そう神近の感は言った。神近は重い体に力を込め、
「まあまあ、どっちも落ち着けって……」
腕を前に伸ばし、一歩踏み出す。
神近は自分の声に多大な違和感を感じた。少なくともそれはおっさん声ではなかった。あえて言うならば少年らしくもあり少女らしくもある若々しい声であった。仮面少女の声よりは少しばかり落ち着いた印象がある。
その上、目に映る自分の腕もなんだか灰色で、なめらかな表面は石のように見える。
一方の周りの人達は無言で一斉にこちらを向いていた。
「魔物がなんで街に?」
「まさか魔物がこんな街の中まで入ってくることが……」
石の次は魔物扱いと来て、さらに神近の頭の中は混沌とした。