ごのに
自分の足元さえおぼつかない暗い路地で、私はナイフを手にしたカールと向かい合っていた。
灰色がかった埃っぽい闇の中でも、ナイフはわずかな光を反射してギラギラと輝いている。
「じょ、冗談ですよね」
そう言った声は無様に震えていた。
いや声だけではなく、体全体ががくがくと震えている。
人通りのない路地で、刃物を持った男と二人っきりとか、本当にたちの悪い冗談だ。
「冗談じゃないさ」
カールの声は落ち着き払っていて、いつもと何も変わらなかった。
だからこそ、相手が本気であるとわかってしまい、私の体から冷や汗がどっと噴き出す。
じりじりと後ずさりして距離を取りつつ、横目で路地の先を確認する。
しかし路地の先はより濃い闇に包まれていて、そちらへ行くことが賢明ではないということだけはわかった。
どうする?
どうすればいい?
路地をふさいでいるカールを突き飛ばして、大声で助けを呼びながら大通りまで逃げるしかない。
けれどよしんば火事場の馬鹿力で突き飛ばしたとしても、大通りまで逃げ切れるだろうか。
せめて何か武器になりそうなものは……ない!この路地、何もないじゃないか!
ダメだ、持っているバックを振り回す以外に何も思いつかない。
……この期に及んであり得ないとはわかっているが、実はどっきりでしたって、ナイフは実はおもちゃでしたなんてことは……ない、ですよね……。
万事休す。
それでも私は最後の望み、もとい悪あがきをする。
「あの、お金ならあげますから」
あと考えたくないけど、体を要求された腹をくくるしかない。
もうなんでもいい。
命さえ助かるなら。
どうせ最底辺まで落ちた身だ。
なんでもする。
だから。
「命だけは」
口の中が干上がって、からからだった。
飲み込むつばもないのに、ひりつく喉がごくりと動く。
「悪いな。あんたを殺せって依頼されたんだ」
平淡な声で残酷にそう告げられ、すっと全身の血が抜かれたみたいになった。
依頼されたって、どういうこと?どうしてわざわざ私なんかを?
その問いをぶつける間もなく、カールが大股に踏み込んでくる。
もうダメだ。
私ここで死んじゃうんだ。
振り上げられたナイフの切っ先が鈍い光の弧を描く。
私はとっさに両腕で頭をガードし、やってくる痛みに身をすくませた。
「そうか、では俺も悪いなと言うしかないな。それは俺の奴隷なのでね」
その声とともに路地は完全な闇に包まれた。
何か巨大なものが路地の入口に現れて、脇道からの光を遮ったのだ。
この声……魔王様?
助けに来てくれたんだ!
喜びと安堵が沸き上がった瞬間、鋭い風が吹き抜けて、何かが飛んだ。
細長くて、ちょうと人の肘から先くらいのもの。
いや、ちょうどというか、まさしく腕だった。
ナイフを握ったカールの肘から先の腕が、彼の体を離れて宙に浮いて、ごとんと地面に落ちる。
「は?」
自分の腕が飛んだ事実を受け止められずに、彼は一瞬間抜けな顔をした。
そして遅れてやってきた痛みに悲鳴をあげそうになって、その口が背後から伸びてきた手に塞がれる。
カールの背後、真っ黒な闇の塊は金色の瞳だけが爛々と光っている。まるで瞳自体が発光しているかのように。
「雇い主を教えれば、命だけは助けてやろう」
魔王の声はどこか楽しげですらあった。
自分以外のものをいたぶることに慣れ切ったものの声だった。
「名前は知らない」
「本当にそうか?それともお前は自分の体が生きたまま切り刻まれるところが見たいのか?」
闇の中で何かがするすると動く気配がした。
凍えそうなほど冷たい風が吹く。
「……名乗らなかったが、ヘルマン子爵家の執事だった、と思う」
「嘘ではないな?」
「本当だ!なぁ、しゃべったからもういいだろう?」
「ああ、ご苦労」
背後の金色の瞳が消えた。
しかし私には見えていた。
ほっと息をついたカールの頭上で、何かがぐうっと伸び上がったのを。
そしてそれに三つの光る金色の目があることを。
「逃げ……!」
ばくん。
逃げてと言おうとしたが遅かった。
頭上から降りてきたそれは瞬く間に、カールを丸のみにしてしまったのだ。
三つ目の何かが溶けるように小さくなって、路地にほんのりとした明かりが戻るころ、そこには魔王が立っていた。
コートのポケットに手を突っ込んで、いつもと何も変わらない様子で漫然としている。
ただその目はピカピカと不思議な光を放っていた。
「た……た……」
足の感覚がなくなってしまって、私はその場にへたり込んだ。
自分のはっはっという浅い呼吸がうるさい。
心臓がバクバクとずっと嫌な音をたてて、手足が氷漬けにされてしまったかのようだった。
魔王はにっこり機嫌よさそうに笑いかけてくる。
「危なかったね」
「た、食べ……」
食べた。
その言葉をうわ言のように繰り返す私に、魔王はふくろうのように首をかしげる。
「食べたけど?」
なにか問題でもというような言い方だった。
食べたけどって、そんな軽く言うこと!?
「人間を食べるなんて……!」
「なんだ?せっかく助けてやったのに」
魔王は不満そうな顔で地面にへたり込んだままの私に手を差し出した。
けれど私がその手をつかむことはなかった。
いや、恐ろしくてつかめなかった。
カールを飲み込んだ三つ目の何かが、きっと魔王の正体なのだろう。
だとするとこの人は今、私の目の前で人間を食べたのだ。
魔王はいつまでも動かない私に業を煮やしたようだった。
「食べたと言っても、お前を殺そうとした人間だろう?前に殺した盗賊たちと何が違う」
「殺すのと食べるのは全然違います!」
「そうか?だが殺して放置するよりも、食べて消化したほうがよくないか?」
「しょ、しょうかって……」
吐き気がこみあげてきて、慌てて口を押える。
ゆっくりと深呼吸を繰り返して吐き気をやり過ごす私の様子をうかがおうとして、魔王もその場にしゃがみ込む。
「どうした?大丈夫か?」
大丈夫かって?ふざけないでよ。
「……大丈夫なわけないでしょ」
だって人間を食べるなんて、そんなの。
そんなの、化け物じゃないか。
「どこか怪我でもしたのか?」
魔王の手が伸びてきて、私の肩に触れようとした。
「ひっ」
思わず悲鳴が漏れて、私はその手から逃げようと上体を縮める。
「……そんなに嫌だったか」
魔王は大きなため息をついて、ぽりぽりと頭を掻いた。
「仕方ない。吐き出すか?ちょっと溶けてるかもしれないが……」
ずるずると魔王の背後に黒い影が沸き上がってくるのが見える。
「ぎゃー!いいです!吐かなくていいです!」
ちょっと溶けてるところを想像してしまって、再び吐き気に襲われる。
うぅ……もう無理。
正直、もう無理と何回も思ったけど、今度こそもう無理!
どうしてこんな目に合わなきゃいけないんだろう。
私、何か悪いことした?
体に力が入らなくて、座っているのもつらくなった私は地面に亀のようにうずくまる。
「もうやだ……」
そう誰にともなくつぶやくと、本当になにもかもが嫌になった。
これまであってきた理不尽な仕打ちが脳裏によみがえる。
父が有罪になり、屋敷を着の身着のまま追い出されたこと。
お金がなくて雇ってほしいと頭を下げても、どこも雇ってくれなかったこと。
もう死ぬしかないと思い詰めて川辺をあてどもなく歩いたこと。
やっと雇ってくれるところを見つけたと思ったら、騙されて奴隷として売られてしまったこと。
魔王に拾われて、やっとまともな人間らしい生活を取り戻したと思ったら、こんな路地で殺されかけて、そのカールは魔王が食べてしまったわけで。
確かにのこのここんなところまでついてきた私も悪いかもしれないけれど、まさか殺させそうになるなんて思わないじゃないですか!
ぐわー!
もう無理!
「なんでこんな目に合わなきゃならないのよー!」
気が付けば地面に向かってそう叫んでいた。
たまらないほどに悔しくて、つらくて、涙が勝手にあふれてくる。
私はうわーんと大声を上げ、地面を握りしめたこぶしで何度もたたいた。
その姿は三歳児もかくや、十七にもなる女が見せるべき姿ではなかったことだろう。
「お、おい、アウレリア」
「触んないでよぉ!」
背中に乗せられた魔王の手を弾き飛ばして、私は夜空を見上げる格好で泣き続けた。
ずっと抱えて閉じ込めていた感情がすべて涙になって次から次へと溢れてくる。なんなら鼻水もちょっと出ていたかもしれない。
大声で泣きわめく私の傍らで、魔王はどうしたらいいのかわからずおろおろしていた。
それでもかまわず私は泣き続けた。
あまりに私の泣き声が大きかったせいか、路地の入口から酔っぱらいが何人か覗き込んでくる。
「おいおい、兄ちゃんこんなところで女泣かせちゃダメだろ」
「あーあ、かわいそうに」
彼らが口々に責めてくるので、魔王は目を白黒させた。
「アウレリア頼む、もう泣くな」
あなたの指図なんか受けません!と言いたかったけれど泣くのに忙しくて言えなかった。
代わりに私の泣き声はちょっと大きくなった。
「意気地のねぇやつだなぁ。女が泣いてたら胸くらい貸してやれや」
「だが触るなとさっき怒られた」
「馬鹿野郎。こういう時、女は天邪鬼なんだよ」
何勝手なこと言ってんだ、この酔っ払いめ。
この人、魔王なんですよ!
さっき人食べたんですよ!
さすがにそんなことを喚き散らすのはまずいという理性がギリギリ働いて、私の泣き声はちょっとだけ小さくなった。
それを好機と見たのか、魔王の中途半端に広げられた腕が恐る恐る伸びてくる。
そしておっかなびっくりといった様子で抱きしめられた。
魔王の体は服越しでも分かるほどに冷たく、硬かった。
その時私は、ユリウスに抱きしめられた時のことを思い出した。
彼は並みの人間らしく温かくて、細身の体は少しだけ頼りなくて、父とは全然違うと感じたのだった。
それに比べて魔王の体は温度も硬さも石みたいで、ゴツゴツしていて、なのになぜか父を思い出す。
魔王の手がぽんぽんと背中をたたく。
そのリズムが心地よくて、体の中で爆発しそうだった感情がゆっくりと小さくなっていく。
すっかり勢いを失ってしまった私は、彼の肩に顔をうずめて今度はシクシクと泣いた。
「よしよし。それでいいんだよ」
酔っ払いたちは勝手なことを言うだけ言って、どこかへ行ってしまった。
そして泣きつかれた私が静かになるまで、魔王は私を抱きしめ、背中をぽんぽんたたき続けたのだった。
日差しが眩しさに呻いて、私は目覚めた。
ショックなことばかりだった夜を超え、憎たらしいほどの朝日が私を照らしている。
昨日泣いたせいかノリでくっついたようになっている瞼をこじ開け、見慣れた自分の部屋の天井をぼんやりと眺めた。
何回も瞬きをするが、目元の腫れたようなヒリヒリする違和感は取れない。
のろのろと体を起こすと、枕元に花が置いてあることに気が付く。
ピンクの小ぶりな花が鈴なりについた枝を引きちぎってきたのだろうか。
見たことのある花だ。
たしか屋敷の庭に植えてある木に、こんな花が咲いていた気がする。
誰が枝を折ってここに置いたのかは、すぐにわかった。けれど手に取る気が起きなくて、そのままにしてベッドから降りる。
身支度をして部屋を出ると、いつもならとっくに仕事をしている時間だった。
動くと少し頭痛がする。こめかみのあたりが締め付けられるような痛みだ。
とりあえずダイニングに行くと、あの几帳面なメイドがつかつかとやってきて椅子に座らせられる。
「朝食を持ってまいります」
「いえ、お水だけで……」
いいですと言い切る前に、メイドはしゃかしゃ台所のほうへ歩いていく。
追いかける気力もなかったので、私はそのままぐったり椅子に腰かけていた。
するといつもより豪華な朝食が次々に運ばれてくる。
「どうして……」
「ご主人様から具合が悪いので、本日はいたわるよう言付かっております」
それだけ言い残して彼女はまたしゃかしゃかとダイニングから出ていった。
その背中を見送っていると、ドアの陰から黒い頭の一部がわずかにのぞいていることに気が付く。
私はふうと小さくため息をついて、目の前の朝食と見え隠れする黒い頭を交互に見た。
「魔王様」
できるだけ優しく呼びかけたつもりだが、出てくる気配がない。
だからといってこちらから行くのもなんだかなぁと思っていると、にゅっと右目が現れる。
金色の瞳は昨夜みたいに光っていなかったし、むしろ所在なさげにあちこちをさまよっている。
「……具合はどう?」
「頭も痛いし、目元が腫れてヒリヒリします。ひどい顔になってるでしょう?」
自虐気味にそう言ってみると、そんなことないよとぎこちない返事が返ってくる。
そして、しばしの沈黙。
私が朝食に手を付けようか悩んでいると、いつのまにか鼻まで出した魔王がこう尋ねてきた。
「……まだ怒ってる?」
魔王にとって昨夜のことで何よりも大事なのは、私がまだ怒っているかどうかであるらしかった。
ということはあの枕元においてあった花も、この豪華な朝食もお詫びのつもりなのだろうか。
「……怒ってはいません」
本当はまだ昨日のことを完全に受け入れられたわけではなかった。
けれど隠れて私の様子をうかがっている魔王の姿に、近寄るな化け物!と言えるほど私は彼が嫌いではなかった。
というか魔王が化け物であることなど、私は最初から知っていたのだ。
それが一緒に過ごすうちに自分たちと友好的な存在だとこちらが勝手に思ってしまっただけのこと。
だって魔王は好奇心に満ちていて、素直で、私を傷つけるようなことはしなかったから。
だけどやっぱり魔王は魔王なのだ。
人間の敵になるつもりはなくとも、私たち人間とは相いれない存在なのだ。
昨夜はそのことを改めて認識させられた。
だいたい私みたいな小娘が、魔王みたいなめちゃくちゃな存在を最初から理解できるわけがなかったのだ。
それに昨夜、魔王がいなければ私は死んでいたのも事実だ。
「昨夜は言いそびれてしまいましたが、助けてくださってありがとうございました」
私がそう言って微笑むと、すごすごとドアの陰から魔王が現れた。
彼はまるで私を脅かすまいとするようにゆっくり近づいて、私からだいぶ離れた席に座る。
私は慎重に言葉を選んで、口を開く。
「私、あなたのことが怖いです」
魔王は静かに、何かを探るように私の目を見ていた。
だから私もそらさずにその目を見つめ返す。
「でもあなたのことが嫌いなわけではありません」
魔王は答えを得たのか、そっと目を伏せた。そしてその口に淡い微笑みをのせる。
それから彼はゆっくり瞼を閉じて、観念したようにこう言った。
「俺も昨日、ちょっと怖くなってしまったよ」
「どうして?」
魔王が何を恐れるというのだろう。
きっと何よりも強くて、彼を脅かすものなどこの世界にないだろうに。
「お前も人間だと思い出したから」
そう言って魔王は寂しそうに笑った。
その言葉の意味を彼は教えてくれなかったけれど、どことなく迷子の子供のようだと思った。
「朝食が冷える」
仲直りしよう。
そう言われているような気がした。
誰も逆らうことなんてできないくらい強くて、恐ろしい存在なのに、彼はとても人間らしく見えた。
けれど決して人間ではないのだ。
これから先、再び魔王を恐ろしく思う時がきても、私はやっぱり彼のことを嫌いにはなれないのだろうなと思った。
「そうですね。魔王様は朝食はもうお取りになりましたか?」
「いや」
「では一緒に食べましょう。そして全部教えてください。父のこと、昨夜のこと。全部」
カットされた果物ののった皿をずいっと勧めると、彼は立ち上がり皿に手が届く席に座る。
そしてリンゴを手に取り、私に手渡した。
「お望みの通りに」
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