最終話2
決闘場は中心が決闘をするための広場になっており、その周りを一段高くなった観覧席にぐるっと取り囲まれた円形の建物である。
すでに始まって幾ばくか経っているのか、観客はすっかり興奮した様子で立ったまま殺せだの死ねだのといった胴間声を張り上げ、異様な熱気に満ちていた。
夜の闇に備えて大量に設置された松明の熱気と油の匂いが、むっと押し寄せてくるようだった。
人の頭が壁になって、広場の様子がよく見えない。
私は一も二もなく人垣に飛び込んだ。
「ごめんなさい!通してください!」
ここまで走ってきたせいでほとんど出てない声で謝りながら、人を掻き分け進む。
自分に向けられる不満の声は無視して、もみくちゃになりながらなんとか観覧席の最前線までたどり着いたころには縛っていた髪の毛は半分ほどけかけていた。
腰の高さまである転落防止用の塀から身を乗り出して、私は広場の中央にいる人影に目を凝らした。
黒髪の大柄な人物が両膝をつき、懺悔するような態勢で俯いていた。
その胸を一本の銀色の槍が刺し貫いて、松明の光を受けてテラテラと光っている。
胸を貫通した穂先が地面に刺さって、そのおかげでその人物は態勢を保てているようだった。
地面は彼を中心にぐっしょりと血で湿っている。
その周りを例の光る矢をつがえた兵士たちが取り囲んでおり、正面にはユリウスが立っていた。
遅かった。
その一言が脳裏に浮かんで、足が震えた。
いやまだだ。
きっと生きている。
だって魔王は魔王なのだから。
ユリウスなんてデコピン一つで倒せてしまうんだから。
「魔王様!」
聞こえるはずないと分かっていても呼ばずにはいられなかった。
少しでも動いて、生きていると教えてほしい。
お願いだから、動いて!
私の祈りが通じたかのように、魔王の力なく俯かせていた頭がピクリと揺れた。
そして億劫そうに顔を上げると、彼はゆっくりと観覧席を見回した。
よかった!まだ生きている!
「魔王様!」
私は胸の高さまである塀によじ登り、再び呼びかけた。
今度はもっとしっかりと彼の耳にも届いたのか、こちらを見た。表情まではこの距離では見えないけれど、きっと凄く驚いた顔をしているに違いない。
「なにしてるんだあんた!」
今まさに魔物が処刑されようとする広場へ塀によじ登って乱入しようとするという奇行を繰り広げる女に周囲の人々がざわめき、止めようと手を伸ばす。
「私のことはお構いなく!」
むしろ触るなと、引き留める手を払いのけて、私は広場へと飛び降りた。
浮遊感は一瞬だけ。
すぐに着地の衝撃が襲ってくる。
幸い両足から着地できたものの特別鍛えていたわけでもないひ弱な足腰では踏ん張りがきかず、無様にゴロゴロと転がってしまう。
「いてて」
呻きつつも起き上がった私は、よろよろと魔王のもとへ歩を進めた。
「誰かその女を止めろ!」
魔王を取り囲んでいた兵士のうち、進行方向にいた数名が振り返り私に鏃を向けた。
「止まれ!」
ビリビリと腹の底が震えるような制止の声と、殺気の籠った視線に本能的な恐怖で足が竦みかける。
どうしよう。考えなしに出てきてしまった。
とにかく傍に行かなきゃということしか考えていなかったけど、これから、ど、どうすればいい!?
「娘!射られたくなければいますぐ下がれ!」
引き絞った弦がキリキリと音を立てる。
脅しだろうか。それとも本当に射るつもりだろうか。
「アウレリア……!?」
視界の端でユリウスが動揺しているのが見えた。
「なぜこんなところに来たんだ!死にたいのか!?」
死にたいわけないでしょうが!
だからと言って、ここまで来て下がるのはもっとありえない。
私は挑むように、矢を向けてくる兵士たちをにらみつけた。
「武器も持たない小娘がそんなに怖い?なら、その弓を引けばいいわ!」
先ほど感じた恐怖はすっかり消え失せ、かわりに無敵にでもなったかのようだった。
「弓をおろせ!」
じりじりと少しずつ近づく私とユリウスの命令とのはざまで戸惑う兵士たちは互いに顔を見合わせる。
その時、コツンと石つぶてが私の後頭部を打った。
「魔女だ!」
再び石が降ってくる。
「あの娘も魔物だ!殺してしまえ!」
魔女だと、魔物だと言われたのが自分だと一瞬信じられなくて私は呆然と観覧席を見た。
たぶん兵士たちから目をそらしてしまったのがいけなかったのだろう。
魔物め……!と憎々し気な声。
「やめろ!彼女は人間だ!」
すっかり頭に血の上った一人の兵士が、ユリウスの制止を聞かずに限界まで弓を引く。
ギラギラと血走った目には殺意が満ち満ちて、その指先が矢から離れようとした瞬間。
「その娘に手を出すなぁああ!」
比喩ではなく、地が震えた。
もはや死に態だと思われた魔王の怒号に、地面が、空気が、震えて、兵士たちの持つ弓の弦が次々と弾け切れた。
弾けた弦で手が切れたのか、野太いうめき声があちこちから上がる。
観衆が降らせる石の雨も止まっていた。
邪魔するものがなくなりこれ幸いと私は走り寄り、ついに彼のもとへたどり着いた。
酷いありさまだった。
右腕は肩の付け根からなく、左目には血で汚れた布がまかれている。
あの谷で退魔の矢で射られた場所は肩と左目だった。退魔の矢というだけあって、やはり魔王は傷を癒すことができなかったのだ。
さらによく見れば背中や腿には、真新しい数本の光る矢が刺さっている。
むっと胸の悪くなるような血の匂いが押し寄せて、思わずむせてしまった。
「お前にだけは、こんな情けない姿を見せたくなかったんだがな……」
先ほどの怒号とは打って変わって力なく呟く魔王の左手を両手で握りしめる。
相変わらず石のように冷たく硬い死人の手だった。
けれどその手をまた掴めたことが嬉しくて、勝手に涙が流れた。
「ええ、本当に情けないです。でも間に合ってよかった」
「……馬鹿者。お前は本当に、どうしようもない馬鹿者だ」
馬鹿者と罵るわりにはなんとも優しい声だった。
「魔王様、私、もう全部わかっていますから」
一つだけになった金色の瞳がわずかに揺れた。
「全部わかったうえで、私はここに来たんです。あなたが好きだから」
自然と笑みがこぼれた。
魔王はとぼけたように目と口を見開いて私を見ていた。
ゆるゆると驚愕に喜色をにじませて、彼は目を細める。
「それでいいんだな?俺はもう一度逃がしてやるほど優しくはないぞ」
「私、あなたから逃げたいなんて一度も言ったことありません。それに大切なものは目の届くところに置いておくべきなんです。だから私を大切に思ってくださるのなら、ちゃんと目の届くところに置いてください」
まさか逆に目の届くところに置いてくれと言われるなんて思っていなかったのだろう。
魔王はぱちぱちと目を瞬かせて、笑おうとして槍に貫かれているためかゲホゲホとせき込んだ。
「魔王様……!」
びしゃびしゃと口から黒い油のような血を吐いた魔王の喉からはひゅーひゅーと苦しそうな音がしている。
「槍を……」
「槍?槍を抜けばいいんですか?」
こくこくと魔王が頷くのを確認して、私は彼の胸を貫く槍の柄に手をかけようとした。
その時、ひゅっと鋭い風が耳元を通り過ぎ、矢が私の手元すれすれを通って地面に刺さる。
「やめるんだ、アウレリア。今ならまだ君の命だけは救える」
ユリウスは新たな矢をつがえながら、冷たく私を見下ろす。
私が槍に手をかければ、容赦なく射殺すつもりなのだ。
しかし私はそのことに対して怒りを感じるわけでもなく、むしろ至極当然のことだと思った。ユリウスたちにとって勇者の体を使って国に潜り込んでいた魔王は脅威でしかなく、その脅威から民を守ることが彼の使命なのだから。
「ここに私の父が残した証拠があります」
よく聞こえるように声を張り上げ立ち上がった私は、ここまで大切に抱えてきた布を高く掲げた。
「これを渡す代わりに、この人を見逃してください」
「それが本物だという証拠は?」
証拠の証拠とは変な話だが、むこうだって偽物を掴ませられるわけにはいかないだろう。
「ここには私の父、オットマー・デッセル子爵とその他複数の貴族たちが犯した横領の証拠が残されています」
王女の婚約者であった公爵の殺害に関して父は全く関与していなかった。
しかし全くの無実というわけでもなかった。
父もまたカペル侯爵の手下であり、横領に手を染めていたのだ。
父が隠していた証拠は、その裏帳簿と横領した物資を仲間内でどう分け合ったのかを記録したものだった。
裏帳簿をざっと見たところ、我が家は私が思うよりもずっと財政的にひっ迫していたらしい。生活していく分にはなんとかなっていたが、何か大きな出費があればギリギリのところで保っている生活も崩れてしまう。例えば、私が結婚して持参金を用意しなければならない、などといったようなことがあれば。
父が私のことを思ってくれていたのか、それともただ貴族としての対面を保つためだったのかは今となってはわからない。
確かなのは父もまた悪人であり、彼が即座に死刑に処された理由は、私がユリウスの婚約者であったことと、横領の口封じであったということ。
魔王はこの事実に気が付いていたのだろう。
彼がいつそれに気づいたのかはわからないが、あの崖で私とはぐれた後、きっと様々なことを考え、様々な未来を予想して、ユリウスと取引をすることにした。
最後まで父は無実であったと、私が信じていられるように。私の家族を、プライドを守ろうとしてくれた。
私が人間として生きていくうえで、一番正解だと思われる道を用意してくれた。
その代償がこの自身の処刑であったとしても、彼はそうすることを選んだ。
ユリウスは悲しそうに目を伏せたが、特別私を慰めるようなことは言わなかった。
「わかった。ひとまず彼を殺すのはいったん取りやめる。だから……」
証拠を渡せと手を伸ばして歩み寄ってくる。
しかしここで、はいどうぞと渡すほど私だって間抜けではない。
欲しいならくれてやろう。
手渡しじゃないけどね。
私は足を縦に大きく開いて、布で包まれた証拠類を下手投げで放り投げた。
貴重品も一緒に入っていたのだが、おまけの大盤振る舞いだ。もってけ泥棒!
ユリウスや兵士たちの意識が宙を舞う証拠に向けられた隙に、私は槍を力任せに引っ掴む。乱暴に掴んだため魔王がうめき声をあげるが、優しくしている余裕がない。
「ごめんなさい!」
槍の持ち手は装飾の少ないシンプルな作りだったので、穂先のついた方を握って引き抜く方が早いと判断し引き抜こうとした瞬間、槍が急激に熱くなった。
「つっ!?」
反射で手を放してしまいそうになるが、奥歯をかみしめて前よりもずっと強い力で握りこんだ。
この機を逃せば、もうチャンスはない!
熱すぎると逆に冷たく感じるらしい。突き刺すような痛みに生理的な涙がぼろぼろこぼれて、私は獣みたいなうなり声をあげながら後ろに倒れこみながら力任せに槍を引き抜いた。
人々の声にならない悲鳴が、息を飲み込む音が聞こえた気がした。
痛いくらいの緊張の中。誰もがこの後起こることに恐怖し、体をこわばらせる。
赤い夕陽が地平線に沈み、反対側の空に月が姿を現す。
まったくの無風上になった決闘場はじっとりとした闇に覆われ始めていた。
夜が来ると誰かが囁くのが聞こえた。
そしてそれは唐突に始まった。
槍が抜けてぽっかり空いた穴から、ゴポリと黒い泥が溢れ出したのだ。
泥は濁流のように流れ出て、勇者の体を飲みこみ、滝が地上から天へ落ちるように上へ上へと伸びた。
泥はある程度の高さまで行くと、捩じれて、一本の柱のようになった。
ボコボコと膨らんだり、縮んだりしながら、あるべき形へ戻ろうとしている。
そのうち頂上が扁平に広がり、その重さに耐えきれなかったかのようにぐにゃんと折れる。地上では細長い体がとぐろを巻いていた。
蛇だった。
巨大な蛇。
扁平な頭には黄金の三つの目があり、それぞれが太陽のように燃えている。しかし左の眼は完全に開かれておらず、目の淵からは黒い泥、おそらく血がだらだらと流れだしていた。
胴回りは大人の男が十人集まって腕を広げても囲めそうにない。
魔王は本来の姿に戻ったことを喜ぶかのように、天に吠えた。まるでガラスを擦り合わせたように不快で、雷が落ちたように恐ろしい声だった。
魔王の雄叫びが王都中にこだまして、遠くの山々へと消えていく。
一瞬の静寂。
絹を裂くような悲鳴があがった。それを皮切りに、決闘場は恐慌状態に陥る。
観客と一部の兵士は我先にと逃げ、一部の勇猛果敢な兵士は矢を魔王の巨躯に放ちながら、陣形を整えようとしている。
陣形の指揮を執るユリウスのその顔は強張り、決死の覚悟のようなものが見て取れた。
ぐぐぐと巨躯をまげて、魔王の頭が私めがけて下りてくる。
彼は黒曜石でできた彫像のような鼻先で感謝するように私の額に軽く触れた。
「アウレリア」
巨大な洞から響くような恐ろしい声だった。
けれど私の名前の呼び方が、その発音が、いつもの魔王と同じだったので私はそれだけでひどく安心してしまった。
「俺はお前の望みをかなえてやりたい。この国を滅ぼすか?それとも俺に去れと願うか?」
三つの燃える瞳が私を静かに見下ろしている。
魔王の体には勇者の体の時に受けた傷が反映されているのか、よく見ると大小さまざまな傷がついており血が滴っていた。
痛々しいそれが自分のためなのだと思うと愛おしいと思う私はおかしいだろうか。
「放て!」
魔王の姿に心奪われていた私がはっと我に返って見たものは、魔王に向かって降り注ぐ眩い矢と槍だった。
「魔王様!」
私一人の体では何も守れやしないと分かってはいたが、彼の鼻先にしがみついてぎゅっと目を閉じた。
しかし矢も槍もその一つとして私たちに触れることはなかった。
魔王が尻尾を一振りしただけで、全て吹き飛んでしまったのだ。しかも振りぬかれた尻尾によって観覧席の一部が吹き飛ばされ、まるでかじり取られたようにえぐれてしまった。
幸いというかほとんどの観衆は逃げていたので、誰も瓦礫の下敷きにはなっていないようだ。
「心配せずとも、誰もお前を傷つけたりできないよ」
私が心配したのは魔王のことだったのだが。
もはや人間の体を捨てた魔王にとっては、自分を害せるものなどないということなのかもしれない。
「さぁ、アウレリア、望みを」
望みをと促されるたびに、沼に沈んでいくような恐ろしいような心地よいような不思議な感覚だった。
ずるずると這う音がして、魔王の尻尾がすっかりと私を取り囲んでいる。
「魔王様、私のために死ぬつもりだったんですか?」
「たいしたことじゃない」
死ぬことがたいしたことじゃないなんて、嘘に決まっている。
「私は何をすればあなたの気持ちに報いることができますか?」
「そんなこと気にしなくていい。助けに来てくれただけで俺は嬉しかったよ」
「……こんな国、滅んでしまってもいいと思います。ユリウスも、もういいんです。彼はきっと自分の目的のためにも父の冤罪を証明してくれるはずですから。だから私が望むことはありません。……ああ、でも、魔王様に無事に逃げてほしいから、きっとそれが私の願いです」
「俺に去れと願うか?」
それでお前はどうすると尋ねられている気がした。
私……私は……。
唐突に思い出した。
いつか彼が私を食べてしまいたいとこぼしていたことを。
ああ、それがいい。
そうすればずっと一緒だ。
もう何も悩まなくていい。恐れなくていい。嘆かなくていい。
たとえそれは逃げだと非難されたとしても、私にはもうこの命くらいしか残っていなくて、それくらいしかあげられるものもないのだ。
三つの黄金の瞳が頭の中でグルグルと渦巻いて、足元がふわふわとしてくる。
なんだか心が軽い。
魔王に食べてもらえば、もう何も怖くなくなる。
裏切られる恐怖も、捨てられる恐怖も、ない。
だってずっと一緒なんだから。
だから、
「魔王様、私を食べてください」
ドキドキと心臓が高鳴っていた。
まるで愛の告白でもしたみたいに。
「それがお前の望み?」
言葉で答えるかわりに、私は魔王の鼻先を抱きしめてキスをした。
魔王の体はつるつるとして少し湿っていて、夜霧に濡れた壁みたいに冷たい。
ぞろりと蠢く気配がした。
巨大な頭が私の腕から離れていく。
「……いいよ」
頭上に巨大な穴が空いた。
魔王が口を開いたのだ。
私は幸福なような寂しいような気持ちで、ぼんやりと彼の口が迫ってくる様子を見上げている。