いち
狭い檻の中から空を見上げ、どうしてこんなことになってしまったのだろうと、もう何回目になるのかわからない問いを浮かべる。
埃っぽくて暗い市場には、獣を閉じ込めるためのような檻がいくつも並べられていた。
しかしその中にいるのは獣ではない。
ぼろきれをまとった人間たちだ。
彼らは体を縮こませて、誰もが無気力に項垂れていた。
彼らは奴隷だった。
そして私もまた、そのうちの一人。金で売り買いされる商品の一つに過ぎなかった。
転落の始まりは、国境の砦が襲撃されたことだった。
領土をめぐる数百年にわたる小競り合いの一つに過ぎなかったが、運悪くその日、砦には王女の婚約者である公爵が視察に訪れていた。
なんとか侵略は防いだが、公爵は隣国の敵兵の矢をうけ死に、そのほかにも多くの砦の兵士たちが死んだ。
王女の婚約者が死んでしまったのは残念だが、運の悪い出来事だった。
それで済むものと、当時の私はたいした心配すらしていなかった。
しかしあの日、隣国が砦を襲撃したのは、王女の婚約者である公爵が視察に来ることを知ってのことだったのだと一人の貴族が声を上げた。
そして砦に敵国の兵士を引き入れた者がいると、その貴族は罪人を告発した。
その罪人は、私の父だった。
そしてさらに不幸なことに、父を告発したのは私の婚約者である男だった。
私の婚約者は父が敵と内通していた証拠を議会に提出し、正義の青年貴族として名をあげ、私の父は重罪人として処刑された。
もちろん我が子爵家も取り潰され、私たちは罪人の家族として生きていくことになった。
母は父が処刑された日に後を追って自殺した。
兄は罪人の息子と罵られまともな職にもつけず、酒場に入り浸ったあげく、くだらない喧嘩のすえ刺し殺された。
そして頼る相手を失った私は進退窮まり、困り果て、父を告発した婚約者だった男を頼ることにした。
私の婚約者で、父を告発した男の名はユリウスといった。
伯爵家の長男で、文武に秀で、容姿もまるでおとぎ話にでてくる王子様のように整った非の打ちどころのない人だった。
そんな彼と私が婚約できたのは、先々代同士の約束があったからで、私はよくユリウス様と結婚できるなんて羨ましいと言われたものだった。
ユリウスは子爵家の冴えない娘である私にも優しくて、よく贈り物だってしてくれる素敵な婚約者だったのだ。
……父を告発し、我が家を破滅させるまでは、本当に素敵な婚約者だったのだ。
だが悪いのは父だ。
敵国と通じていたことはかばいようのない重罪。
ユリウスだってきっと苦しんだ結果、国のために、正義のために父を告発したのだろう。
だからきっと助けを求めれば、元婚約者のよしみで私がなんとか生きていけるよう助けてくれるかもしれない。
どこかの屋敷で女中でもなんでもしよう。
とにかく明日を乗り切るためのお金が必要だった。
けれどユリウスの屋敷の門は固く閉ざされ、私を中に招き入れてくれることはなかった。
そして天涯孤独になった私は流れ流れて、奴隷という最底辺の身分へと落ちることになった。
奴隷になってから、私は檻の中からただただ空を見上げ続けた。
もう、何もかもがどうでもよかった。
死んでいるのか、生きているのか、その区別すらあいまいで、すべてが薄い膜で隔てられたように遠い。
物として値踏みする視線にさらされながら、どうしてこうなってしまったのだろうと誰にともなく問い続ける。
私はこの先どうなってしまうのだろう。
そう考えるたびに頭にモヤがかかって、上手く考えられなくなる。
私の最悪な人生とは反対に、見上げる空はただただ広く美しいので、私は空を見上げることでつらい現実から逃げ続けた。
彼と出会った時も、私は空を見ていた。
その日の空は、いつもより深い青色で、まるでどこまでも透き通った底のない湖のようだった。
「何を見ている?」
フードを目深にかぶった長身の男は、私の檻の前にしゃがみ込みそう尋ねた。
私は最初、その質問が自分に向けられたものだということすらわからなかった。だって奴隷になってからこのかた、まともな人間扱いなど受けていなかったので、自分が人間で会話の相手になるということすら忘れかけていたのだ。
「何を、見ている?」
男は私が言葉の意味を理解していないと思ったのか、わざと言葉を区切るように質問を繰り返した。
「……空を」
短くそう返すと、男は空を?と聞き返した。
「空を見て、何か面白いの?」
「……わかりません」
「わからないのに、見上げるのか?」
あまりにしつこいので、私はそこで初めてまともに男の顔を見ようとした。
フードのせいで顔はよく見えなかったが、鼻や口元は美しい形をしている。
「空には永遠に手が届かないから。見ていてもつらくならないから」
だから見上げていました。
そう呟くと、もう流し切ったと思っていた涙が一粒こぼれた。
温かな家も、好きなドレスを着ることも、優しい婚約者に抱きしめられることも、何もかもがこの手からすり抜けてしまった。
けれど空は最初からこの手の届くものではないから、見ていてもつらくはならない。
空のかなたに心を飛ばせば、このつらい現実も、これからどうなってしまうのかという恐怖も少しの間だけ忘れていられる。
男は何か思うところがあったのか、私の真似をして空を見上げた。
当然顔を上に向けるので、かぶっていたフードがずり落ち顔があらわになる。
私は彼の顔を見て息をのんだ。
まっすぐな黒髪に、黄金のような瞳。人懐っこそうな顔をしているので、大きな体のわりに幼く見える。けれどどこか油断できないような、隙のなさがある。
けれど私が彼の顔をみて驚いたのは、彼が思いのほか整った顔をしていたからではない。
私は彼を知っていた。
いや、この国の民なら誰もが、彼の顔をしっているはずだ。
どうして、あなたがこんなところに?
どうして、私の前に?
だって、この人は、
「勇者様……?」
三年前、魔王を討伐するために旅立ったはずの勇者リーンハルトだった。
勇者と言葉を交わしたことはなかったが、国を挙げた華々しい見送りを背に旅立っていった彼の顔を忘れるはずもない。
「この体のことを知っているのか?」
「え、あ、はい」
この体なんて、変な言い方をするものだと思いながらも、私はうなずいた。
「名前は?」
「リーンハルト様、ですよね?」
リーンハルトはふーんと興味なさそうな返事をして、少し考えこむそぶりを見せた。
「お前、教養はあるか?」
「教養、ですか?……あると思います」
これでも奴隷になる前はいっぱしの貴族の娘だったのだ。
そう何不自由ない、幸福な、一人の娘だったのだ。
「空には永遠に手が届かないと言ったね」
「……はい」
リーンハルトはにやりと微笑み、ぴんと立てた人差し指で空をさす。
「俺と一緒に来れば、いつか空に手が届くかもよ」
その瞬間、私を覆っていた透明な膜がパツンと弾けた。
市場にあふれる人の話し声。商人が奴隷をぶつ音。荷を運ぶ馬車の車輪が回るカラカラいう音。汗と砂ぼこりの匂い。そよ風に勇者の黒い艶やかな髪がさらさらとなびいて、金色の瞳が跳ね返す太陽の光に目がチカチカと痛んだ。
「私を買ってください!」
気が付くと私は檻に縋り付いて、そう叫んでいた。
とっくに尽きたと思っていた、生きたいという気持ちが燃え上がる炎のように全身を駆け巡っていく。
「どこへでもついていきます。なんでもします。だから、私を……私をここから連れ出して!」
「本当になんでもする?」
「します!」
「俺が恐ろしい化け物だとしても?」
化け物?
いまさら何を恐れるというのだろう。
変態に買われてちょっと口に出したくないあれやこれやされたあげく殺されるくらいなら、美しい顔をした自称化け物の勇者のほうがまだマシだ。
……マシなはずだ!
藁にも縋る思いとは言うが、化け物でもなんでも縋ってやろうではないか。
「絶対お役に立って見せます!」
耳の裏で大きな川が流れるような、ゴォーゴォーという低い音がしていた。いままでひっそりと死んだようだった心臓が、早鐘のようにろっ骨をたたいている。
お願い。
お願い。
お願い!
「うん。いいよ」
リーンハルトは哀れな生き物を見るような眼をして、檻越しに私の頭を撫でた。
その大きな手は思ったよりもゴツゴツしていて、そして鳥肌がたつほどに冷たかった。
「今日からお前は俺の奴隷だ。よく働き、俺の望みを満たすなら、いつか空をその手につかませてやってもいい」
かくして私は不思議な勇者の奴隷になった。