じゅうよん
自分にあてがわれた部屋の隅で、明かりもつけずに膝を抱えて私は泣いた。
父が無実で、私たち家族はカペル侯爵が率いる悪党たちの私利私欲のために、意図的にこの世から消されたのだということ。
ユリウスは父を嵌めたわけでもなかったが、父が断罪されるのを黙ってみていたこと。
そして魔王は生きているけれど、もうこの件からは手を引くつもりなのだということ。
何がなんだかわからなくなって、なぜ泣いているのかもわからないまま、泣き続けた。
部屋の隅はじっとりとした闇に覆われて心地よく、ひんやりしていた。
冷たく硬い壁に背をくっつけると、魔王に抱きしめられたときのことを思い出す。
彼に捨てられたことはひどくショックだったし、恨めしくも思うのだが、それでもやっぱり今この瞬間彼に抱きしめてほしいと願ってしまう。
体が少しずつ冷えていくのがわかって、このまま凍死してしまえればいいのに思った。
それか酷い風邪をひいて、儚くなってしまうとか。
そんななんの役にも立たない暗い妄想を繰り広げているうちに、泣きつかれて私はうとうとし始めた。
ふわふわと輪郭を失った意識の中、誰かが歌う声が聞こえた。
三つ子の子猫、手袋なくして泣いていた。
四本指の手袋なくして泣いていた。
二本脚の机、引き出し叩いて笑ってた。
四本指の手袋なくして泣いていた。
母さん猫に、大事なものから目を離しちゃいけないって言われてたのに。
てんでめちゃくちゃな音程だった。
よく言えば独創的、悪く言えば音痴。
でも声は低く落ち着いていて、私がずっと聞きたいと願っていた声だった。
「アウレリア」
声に誘われるように私は目を開ける。
部屋の隅で眠っていたはずの私の体はベッドの上に横たえられ、きっちりと首元まで毛布が掛けられていた。
「魔王様……?」
これは夢なのだろうか。
かすれた声で名を呼ぶと、私の枕元に腰かけた彼がわずかに身じろぐのがわかった。
途端冷たく湿った土の匂いと、鉄臭い腐臭が漂っていることに気が付いた。
違う、これは夢じゃない。
急激に意識がはっきりとして、私はそう確信した。そしてすぐさま体を起こそうとしたのだが。
「アウレリア、動くな」
グッと体が重くなる。いくら力を込めても、穴の開いたバケツに水を注ぐように全くもって手足に力が入らない。
指先すら動かせなくなって、一瞬パニックに陥りそうになって、左胸にチリチリとした痛みを感じで気が付いた。
おそらくこれは魔法だ。
奴隷は購入時に服従の魔法をかけられる。主人が意図的に名前を呼び命令したとき、奴隷は決して逆らえなくなる。
魔王が私を買ってから一度も使ったことのなかった魔法だ。
もっと嫌な気分になるかと思っていたが、そんなことはなかった。むしろ彼がようやく私に会いに来てくれたことが自分でも信じられないくらいに嬉しくて、もし服従の魔法がなければ魔王に飛びついていたかもしれない。
でもどうして動くな、なんて命令を?
もしかして私が不注意で大きな音を立てないように、だろうか。
この部屋に軟禁されていた時に比べれば随分と緩い扱いになってはいるものの、やはり逃げだしたりユリウスに襲い掛かったりしないように部屋の外には見張りがいるのだろう。
ではなぜすぐにでもここから連れ出そうとしてくれないのか。
だいたい、ユリウスは魔王と互いの情報を交換し合ったうえで、私の身の安全を約束して和解したというようなことを言っていたけれど、どこまでが本当のことなのか。
聞きたいことはたくさんある。
けれど一度に質問攻めにして、今度はしゃべるなと命令されてはたまらないと思いとどまりった。
なによりもまず私は、彼が無事でいてくれたことが嬉しかった。
「魔王様が無事でよかった」
顔も動かすことができなかったので、精一杯目をだけを動かして、枕元に腰かけた魔王の暗い背中を穴があくほどに見つめる。
一生懸命に眼球を動かしているからか、それともただただ安心したからか、目尻に涙がたまってじんわりと崩れた。
魔王は私に背を向けたまま、何も語らず、身じろぎ一つせずにしばらくの間そうしていた。
どうしたのだろう。
もしかして私が怒っているとでも思っているのだろうか。
確かにすぐに助けに来てくれなかったことや、ユリウスと話し合って勝手に私の今後の身の振り方を決めたことに対して、何も思わなかったわけではない。事実ついさっきまで恨めしい気持ちを抱えてしくしく泣いていた。
けれど魔王は来てくれた。
魔王は何も話してくれないけれど、決して無事などではなかったのだろう。いくら魔王と言っても魔性であることには変わりない。退魔の矢で受けた傷を癒すのに時間がかかったのかもしれないし、もしかしたらまだ私の知らない何かを解決するために時間を食ったのかもしれない。
それならば私は怒ったりなんかしないし、今まで鬱々とため込んでいた恨めしい気持ちだってなかったことにできる。
「魔王様、私、怒ってなんかいません。少しだけあなたに捨てられたんじゃないかと思って落ち込んだりもしましたけれど、こうしてちゃんと無事な姿で来てくださったから。だからこっちを向いてくれませんか?」
あの深い金色の瞳で、いつものように優しく見つめてもらいたくて、私は必死に呼びかけた。
しかし魔王は弱り切ったようにか細く息を吐きだしたきり、全く姿勢を変えようとしない。
「お前に別れを告げに来たんだ」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
わかりたくなどなかった。
けれど黙って受け入れることが悪手なのだと気がつき、私はなんとか言葉を絞り出す。
「それはつまり、私を、捨てるんですか?」
「そうじゃない」
「じゃあ、どういうことですか」
ついつい詰問するような調子になってしまう。
魔王の大きな背は、少しだけ丸まっているように見えた。
「ユリウスから聞いたはずだ。俺はもう手を引こうと思う。安心しろ。お前が幸福に生きていけるようにちゃんと面倒を見るとユリウスには約束させた」
「そんなことはどうだっていいんです!」
思わず声を荒げてしまったが、魔王はそれを咎めたりしなかった。
私は震える体で一度深呼吸して、感情の波を一度やり過ごしてから再び口を開く。
「私が知りたいのは、どうして私をお捨てになるのかということです」
「だからそうじゃないと言っている。俺は、お前を解放してやると言っているんだ」
「解放?」
「奴隷の身からも、人間同士の醜い争いからも解放してやりたいだけだ」
「私がそれを望んでいなかったとしても?」
「なんだ?一生奴隷でいたいとでも?」
そんなわけないだろうと言外に滲ませて、魔王は冷たく言い放つ。
もちろん一生奴隷でいるのは嫌だ。
「あなたが主人なら一生奴隷でいても構いません」
「軽率なことを言うもんじゃない」
すげなくそう言って、魔王は右腕を上げかけて、腕が思うように上がらなかったのかやめた。頭でもかこうとしたのだろう。
「魔王様は私の望みをかなえてやると言いました」
「言ったかな?」
「言いました!」
動かないとはわかっていたが、グッと体に力を込めてみる。
やっぱり指の一本も持ち上げられそうにない。
「私の望みは」
「父の無実を証明することだろう。喜べ。ユリウスは近いうちに証拠をそろえて、侯爵とその仲間を追い落とすつもりだぞ。仲間だと思わせて身の内から食い破るとは、恐ろしいことをする」
「ユリウスが?」
「本人はそうは言わなかったが、それが狙いだろう。だから奴はお前を保護したがり、誰の味方かわからない俺を疎んだ。俺が魔物だと確信してからは、俺という魔物から人間を守ることを第一に考え行動していたようだが。……まぁそんなことはいいか。とにかく、ユリウスに任せておけ。そこそこにあくどい人間だが、悪いようにはしないはずだ。お前は幸福な人間になれる」
「だから手を引くと?」
「……お前のために何かしてやりたかったけれど、俺はしょせん魔物だ。人間のことは人間が片付けるのが一番だろう」
「でも彼はあなたを弓で射ました」
「些細な誤解だ。あれは俺を邪悪な魔物だと思って、お前を守るためにそうした。でもその誤解ももう解けた」
「言葉で納得したというのですか?」
「目の前で不可侵の誓いを立てた。誓いを破れば心臓が破れる。逆にお前を害せば、ユリウスの心臓が破れるだろうさ」
「そんなことのために自分の命をかけるなんて!」
「……それこそ些細なことだ」
心臓が破れるって、心臓が破れたら死んでしまうではないか。
全然些細なことなんかじゃないじゃない!
「人は人の世界で、人らしく幸福に生きていくべきだ」
手ですくった水が指の隙間からこぼれていくのを見ているようだった。
「魔王様は私を好きだと言ってくださいました」
「ああ」
「あの時言えなかったけれど、私、嬉しかったんです。私はあなたが私を好きでいてくれるだけで、幸せになれます……!」
どうしてこんな時にならないと言えないのだろう。
私は魔王の好意に甘えてばかりで、はっきりと自分の気持ちを決めることができなかったから、だからこんなことになってしまったのだろうか。
「そうか。……うん。俺もその言葉だけで嬉しいよ。だからこそ、俺はお前を解放してやりたい。谷底へ落ちて、川を流れていきながら、すぐにでもお前を助けに行きたかった。けれどお前を助けて、それからどうする?正体がばれてしまったからにはこの国を出ていかなければならないだろう。よその国に行っても同じことが起こるだろう。結局俺はアウレリアに何もしてやることもできずに、ただただ振り回して、あたら短い命を散らしてしまうかもしれない。そんな考えが浮かんだら、恐ろしくて仕方なくなった。俺は永遠にそうやって生きていくのだと。……だからせめてお前の望みをかなえてやりたい」
私の望みは父の無実を証明することだった。
その望みが嘘だったわけではない。もちろん本心だ。
けれどそのために私を好きだと言ってくれる魔王と別れることになるのだと知っていたのなら、私は違う望みを彼に伝えたのかもしれない。
……いやきっと、魔王と別れるのだと知っていたのなら、私は彼を好きにならないように心掛けただろう。
私はいつだってそうだ。
自分が苦しまないように、楽な方へと逃げて、決断を人任せにしてばかり。
そしてどうしてこんなことになってしまったのだろうと嘆くのだ。
魔王はまるで私など存在しないかのように、ぽろぽろと言葉をこぼしていった。
遠い。
すぐそこにいて、私たちは短い時間の中ではあったけれど心を通わせたはずなのに、彼がとても、とても遠く感じた。
「魔王様っ」
私はここにいます。
私を見てください。
涙が勝手に次から次へと流れていく。
この人はもう、私を置いていくと決めてしまったのだ。そう悟ってしまった。
「もうしゃべるな、アウレリア」
胸に刻まれた魔法がチリチリと痛んで、口が縫い合わされたように開かなくなる。
視界がぼやけないように何度も瞬きを繰り返しながら、私は魔王を見つめた。
重たそうに体を引きずって立ち上がった彼は、私を見下ろし微笑んだらしかった。
青い闇の中で、魔王の右目だけが金色に輝いている。
その目は神様が人間を見つめるような、優しい無機質さを湛えている。
彼は枕元に何か置き、私の目の上に手のひらをかざした。
ぐっと鉄臭い、嫌な匂いが濃くなる。
「さようなら、アウレリア。俺が出会った中で、一等かわいそうで愛しい命」
必死に起きていようとするのだけれど、枝を離れた林檎が地に落ちていくように抗いがたい眠気が襲ってくる。
最後にごめんねと魔王がささやいた気がした。
強制的に眠らされたからだろうか。
私が浅い眠りから覚めたのは、夜すら明けきっていない頃合いだった。
私には魔法の適性がないので確証はなかったが、それでも感覚として服従の魔法が消えていることに気が付いた。
この魔法が消えているということは、私は少なくとも魔王の奴隷ではなくなったということだ。
ゆえに私は激怒した。
かの自分勝手自己中魔王に平手の一発でもくらわしてやらねばと思った。
枕元にはリボンでくくった小さな青い花が置かれていた。一つ一つの花は爪ほどの大きさで、少し紫がかったものも混じってる。
「わざとこの花を選んだのなら、絶対に許さないんだから」
私を忘れないで、なんて健気な名前の花なんて似合わないにもほどがある。ぜんっぜん、似合ってない!
毛布を蹴飛ばすように跳ね起きて、ぐちゃぐちゃな髪の毛を乱暴に梳かして一つに縛り上げた。
「自分の幸せは自分で決めなきゃ」
そのためにも、まずは王都の屋敷に戻らなければ。
たとえ間違っていたとしても、そのせいでひどい目にあったとしても、私はもう誰にも私の人生を決められたくなかった。
私のことは私が決める。
魔王が私のためを思って、私のことをユリウスに任せて自分は消えるつもりならば、私は私で勝手に彼を追いかけるだけだ。
そして横っ面を叩いて、臆病者!と言ってやるのだ。
たかが小娘一人の命におびえるなんて、魔王の名が泣くぞと。
私は彼がくれた花を抱きしめて、地平線から顔をのぞかせ始めた太陽をにらみつけた。