じゅういち
やや過激な暴力描写があるのでご注意ください。
砦への行程はおおむね順調に進み、二日目に入っていた。
砦までの街道を行くと少し遠回りになってしまうので、予定通り街道を外れ、馬を駆って近道を行くことにした。
山を切り開いた道は途中崖が続き、砦まではすぐに行けるが、隊列を組んで通れる道ではない。そのため火急の要がある者が通る道であった。
右手にゴツゴツした岩肌の急斜面が、左手は深い谷になっており、黒々とした濁流がゴーゴーと音を立てている。
久々の馬にもだいぶ慣れてきて、私は頭上を仰ぎ見た。
二羽の大きな鳥が甲高い鳴き声をあげながら旋回している。薄青い空には雲がほとんどなく、どこまでも透き通った底のない湖を見上げているみたいだった。
「綺麗な空」
その言葉につられて、前方を行く魔王もまた空を見上げる。真っ黒な髪が青い空を背景にふわふわと揺れていてちょっと可愛い。
「お前は空を見てばかりだな」
「そんなことないと思いますけど」
「出会った時も空を見てた」
魔王と出会った日。私が拾われた日。
確かにあの時も私は空を見ていた。現実から逃げ出したくて、少しでも楽になりたかった。
あの時、見た空は絶対に手の届かない遠い存在だったけれど、今見上げる空はあの時よりもずっと近くに感じられる。きっといろいろなことが解決したら、もっと近くに、もっと綺麗に見えるのかもしれない。
「今日の空のほうが好きです」
魔王は振り返って、目元を和らげる。
まるで愛おしいものを見るみたいに。
心臓がけりつけられたように痛む。けれど決して嫌な痛みではなかった。
「この面倒ごとが解決すればもっと好きになれるな」
似たようなことを考えていたので、一瞬ぽかんとしてしまう。
不思議だ。どうして私が考えていたことがわかったのだろう。
まさか魔法かなにかで心を読んだのだろうか。なんて馬鹿げたことを考えてしまうくらいには驚いたのだ。
出会ってからまだ二ヶ月も経っていないのに、もうずっと長い時間一緒にいるような感じがした。十七年間一緒にいたはずの家族よりも、ユリウスよりも、ずっと一緒にいるような感じ。
「ねぇ、魔王様」
「ん?」
馬に乗っているので顔は前に向けたまま、魔王は耳を心なしかこちらに見せる。
青白い首筋が昼間の太陽の下、眩しい。
「魔王様だけは私のこと裏切らないでいてくれますか?」
思ったよりも掠れた小さな声になってしまった。
それでもきっと魔王には聞こえたことだろう。
自分から尋ねたくせに返事が怖くて、湿った手で手綱をきつく握りしめた。
「裏切るつもりはない。だが俺が良かれと思ってやったことで、お前が裏切られたと感じることはあるかもしれないな」
「そういう話は、今はいいです」
煮え切らない答えにむすっとして答えると、魔王は私の顔が見えているかのようなタイミングで笑い声をあげた。
「心配するな。俺は約束を守る魔王だ」
片手を手綱から離し、その大きな手をひらひらと振る。
魔王なら約束をなかったことにしたって誰も責められやしないだろうに。
でも。
「はい。信じてます」
人間を食べるし、時々残酷だし、肝心なことは話してくれなかったりするけれど、魔王が私をだましたことはなかった。私をまともな人間に戻してくれた。私を好きだと言ってくれた。
だから怖くても、理解できないところがあっても、この人のことを信じよう。
いや多分、ずっと前から私はこの人のことを信じたかったのだと思う。それができなかったのはひとえに私が億秒で意気地がなかったからだ。
心地よい風が吹いている。
胸いっぱいに吸い込むと、乾いた土の匂いがした。
そうしてようやく決心がついた。
あの匿名の手紙のことを話そう。
何かの役に立つかはわからないが、隠していてもたぶん良いことはないと思うし、私が自分一人で調べられるとも思えない。
本当に言っていいのかという迷いよりも、隠していたという負い目から重たい唇を開いて息を吸った。
「魔王様。私、実は隠していたことがあって……」
「待て!」
鋭く叫ぶように言って、魔王は手綱を引いて馬の歩みを止めた。
足踏みする馬の上で、彼は息をつめて耳を澄ませる。
「どうしたんですか?」
「アウレリア、馬から降りて俺の後ろに隠れろ」
「え?」
「面倒事がやってきたらしい」
早くしろと急かされ、よたよたと私は馬から降りた。
魔王の張り詰めた空気に、冷や汗がじわっと噴き出してくる。
馬を崖側に誘導し、私は魔王の背中と岩肌に挟まれる形になった。
一体、何が起こっているの?
その答えは魔王の口から聞くまでもなく、すぐにわかった。
たくさんの蹄の音が聞こえてきて、道の両側から複数の男たちがやってくるのが見えた。
全員なめした革の鎧を身に着けていて、道をふさぐように広がった隊形で前からも後ろからもやってくる。
「待ち伏せされていたみたいだな」
「ま、待ち伏せ!?」
男たちは数メートル離れたところで馬を降り、道いっぱいに広がった。
舞い上がる土煙。
たくさんの人間と馬の荒い呼吸の音。
ひりつくような緊張に、口の中がカラカラになっていた。
男たちは誰も何も言葉を発さず、腰に下げた剣に手をかけ、眼光鋭く私たちをにらみつけた。装備が同じところを見るに、全員が一つの集団に属していることはあきらかだ。
二十人はいるだろう。
私たちが逃げられないように、半々に分かれて道をふさいでいる。
「金が欲しいならくれてやる」
魔王の朗々とした声に答えは帰ってこなかった。
一人の男が歩み出て剣を引き抜く。すると残りの男たちもそれに続く。
「欲しいのは俺の首か。図体のでかい男たちが雁首揃えてご苦労なことだ」
挑発に男たちがピリつくのが肌でわかった。
「盗賊ですか?」
「違うな。統率が取れているし、剣の構えも綺麗すぎる」
確かに全員、盗賊にしては小ぎれいだ。
ということは誰かに雇われたか、誰かの抱える私兵か。
「もしかしてユリウスの……」
魔王は私の問いには答えず、確認するように手を握ったり開いたりした。
戦うつもりなのだ。
無意識に私は自分を庇うように立つ魔王の服の裾を掴んで、引き留めようとした。しかしその手は彼の手にやんわりと引き離されてしまう。
「頭を抱えてじっとしていろ」
「でも……」
「大丈夫。殺さないから」
違う。そうじゃない。
確かに殺さないに越したことはないが、これだけの人数を相手にして自分たちが無事でいられるかのほうが心配というか。
というか殺さないとなると、あの触手みたいなやつも出せないのではないだろうか。じゃあ魔王は剣を持った二十人以上の男と、人間の体のままで戦うってこと?
それって大丈夫なの!?
魔王が強いのは知っているけれど、それはあくまで本当の姿でのことだ。今の彼はあくまで人間の体に入っていて、人間としての戦い方なんて知らないはず。
魔王が一歩踏み出す。
同時に男たちもまた剣を振り上げ切りかかってくる。
「待って……!」
引き留めたからってどうなるわけでも、何かができるわけでもないのに、私は手を伸ばしていた。
嫌な予感が胃のあたりでぐるぐるしていたからだ。
しかしそれは杞憂というのもだったのだろう。
すでに魔王の周りには、六人の男が地面に倒れ伏している。全員死んではおらず、呻いたり、手足を痙攣させたりしている。
彼の戦い方は、まさしく力任せという感じだった。
切りかかってくる腕を掴んでは体ごとぶん投げ、後方から襲い掛かってくる敵の顔面に蹴りを放つ。
鼻血が宙を舞い、うめき声の重奏が奏でられる。
魔王は容赦なく腕を捩じりあげる。どこからどう見ても可動域を大きく超えた肩からゴキンと嫌な音が聞こえてきそうだ。肩が外れた男は身も世もなく悲鳴を上げている。
「殺さないように力加減するのも難しいなぁ」
戦いの最中だというのにのんびりとした調子でそう言って、魔王は無慈悲に他の襲い掛かろうとしてくる男たちにむかって肩の外れた男を放り投げた。立てた瓶が崩れるように数人の男が巻き込まれて、悲鳴をあげる。
力の差は歴然だった。
それでもハラハラするのには変わりなく、胸の前で握りしめた手のひらはじっとりと汗をかいているし、足には正直言って力が入らない。なんだってこんな恐ろしい目に合わなければならないのか。
奴隷になったり、路地裏で殺されかけたり、ここずっとロクな目にあってない。
と思ったものの、現時点で恐ろしい目に合っているのは襲ってきた男たちなのかもしれないと思うと、やや複雑な気持ちになる。
なんてのんきなことを一瞬考えていたせいか、私は自分に向かってくる剣先に気づかなかった。
「アウレリア!」
珍しく焦った声に意識が引き戻され、私は自分に向かってくる剣の閃きに体を硬直させた。
彼は私と自分の間に立ちはだかる敵の鼻っ面に拳を叩きこんで吹き飛ばすと、驚くほどの素早さで私の手首を掴んだ。
力加減ができないほどに焦っているのか、手首がキリキリと痛む。
グッと体を引っ張られて、気が付けば魔王の胸の中に私はすっぽり収まっていた。
魔王は私の腰をしっかり抱いて、まるでダンスでも踊っているかのようなステップでくるっと半回転する。
するとその背後で剣先が鈍い光の筋を描いて、次の瞬間彼の背中からどす黒い血が噴きだした。
「魔王様!」
パニックになって叫ぶ私を右腕だけできつく抱きしめ、魔王は固く握りしめた左の拳で、自身の背中を切りつけた男の顎に遠心力ののった裏拳をお見舞いする。
カヒュッと変な声を上げて、男は昏倒した。
「血が」
「気にするな。どうせすぐ治る」
その言葉通り、腰が抜けた私を座らせて再び応戦し始めた魔王の背中の傷は、見た目こそ派手だが血はあまり流れていなかった。
だからといってじゃあ大丈夫ですねなんて言える人間がいるだろうか。
だけど私にできることは、また狙われないように小さくなっていることだけなのだ。
魔王の力は明らかに相手を上回っていたが、それでも数の多さと触手を出せないという制限のせいで苦戦しているようだった。
脇に剣を構えて突進してきた男の首を絞めあげている後ろから、また別の男が忍び寄る。
「危ない!後ろ!」
「ぐっ」
側頭部を殴られ、魔王の口から声が漏れた。
しかし彼はすぐに態勢を立て直すと相手の襟首をひっつかんで強烈な頭突きをくらわせる。さらにふらつく敵のこめかみを殴って、邪魔だと言わんばかりにぶん投げた。
つうっと耳の横を血が一筋流れていくのが見えた。
「埒が明かない」
吐き捨てるように言い、魔王はぐっと姿勢を低く落とした。
上体を捻り、高々と振り上げられた拳が、目にもとまらぬ勢いで地面にめり込む。
地響きのような衝撃。
地面が大きくへこみ、ひび割れが走る。
ワンテンポ遅れて、崖側の道がボロボロと砕けたクッキーみたいに崩れ始めた。
その崩落に巻き込まれて、運の悪い男が三人崖下に落ちていった。残りの男たちは剣を放り出して、雲の子を散らすように崩れ行く地面から逃げ出す。
「アウレリア!」
「きゃっ」
魔王は私を軽々と抱き上げ、崩した地面とは反対方向へ駆け出した。
「すまん。殺さないつもりだったが、思ったより面倒くさかった!」
だからって普通地面を崩します!?
と言いたかったのが、舌をかまないようにするので精一杯だった。
道幅の三分の一ほどで崩落は治まったが、ひび割れはもっと広い範囲に広がっていて、見るからに危険だ。
魔王は乱暴に私を馬に乗せ、というより馬の上に放り投げた。
「この機に乗じて道を開く。お前は馬で逃げろ」
「でも!」
あなたを置いて一人で逃げるなんてできない!
自分に何ができるとか、いても邪魔になるとはわかっていたのに、心が一人で逃げるなんて嫌だと叫んでいた。
「大丈夫」
魔王は私を安心させようとして、柔らかく微笑んだ。こんな状況でもまだ余裕があるのか、その笑みはいつもと変りない。
「すぐに」
追いつくと続けようとして、魔王ははっと顔を上げた。その瞳は驚いたように見開かれている。
急いでその視線の先を追うと、崖と反対側の急斜面の上、逆光の中、複数の人影が見えた。
そのうちの一人は弓を構えている。
なぜ逆光なのに弓を構えているのがわかるのかというと、その男が構えている弓矢が自らぼんやりとした青い光を放っていたからだった。
そしてその鏃は明らかに私たちに向いていた。
ここにきて新手!?嘘でしょう!?
喉から悲鳴に似た喘鳴がした。
「クソッ」
悪態をついて魔王は、弓矢から守るためか私の頭を抱きかかえようとする。
その時、ひゅうっと空を裂く音が耳元を掠めた。
青白く光る矢が私の顔の横を激しい風を巻き起こしながら通り過ぎていったのだ。
「がぁっ!?」
上がった苦痛の声にはっとして声のしたほうを見ると、魔王の肩に深々と光る矢が刺さっていた。
魔王の顔には困惑と苦痛がありありと浮かんでいる。
剣で切りつけられても、頭を殴られても平気な顔をしていたのに、どうして!?
魔王は刺さった矢を抜こうとしてそれを掴んだ。
ジュッと肉の焼けるような音。矢を掴んだ魔王の手のひらが焼けただれていた。
「退魔の矢か!」
食いしばった歯の間から、ほとんど呻くように言う。
「放て!」
勇ましい号令。
間髪入れず、頭上から矢の雨が降り注ぐ。
頭を抱えて悲鳴を上げるが、その雨は私たちではなく、私たちを襲ってきた男たちへ向けられていた。
まだ生き残っていた者、地面に伏している者、ことごとく矢に貫かれて絶命していく。
高所から矢に降られてはどうしようもない。
ここは馬で一目散に逃げるのが一番だろう。幸い行く手を邪魔していた男たちは、どういうわけか新手によって一掃されているわけだし。
「魔王様!」
馬上から魔王へ手を伸ばす。
彼は即座に私の意図を把握したのか、私の手を掴もうと同様に手を伸ばす。
握りあった手を引っ張って、馬上に引き上げようとした時だった。
再びの空を裂く嫌な音。
光のように飛んできた矢が、魔王の左目に深々と沈む。
「魔王様!!」
ほとんど悲鳴のような声が喉からほとばしった。
強く握りあったはずの手が、あっけなくほどけた。
左目に矢を受けた魔王の体が、衝撃に耐えきれず後方へ倒れていく。
バランスを取ろうとして、彼は後ろへたたらを踏む。
しかしその先には崩れかけた崖があった。
「ダメッ!」
馬上から半分ずり落ちながらも、私は必死に腕を伸ばす。
魔王の残った金色の目はまるで夢を見ているかのように、私を見つめていた。
地面がガラガラと崩れる嫌な音がした。
「ダメ!ダメ!!」
いくらダメと叫んでも、すでに彼は崩れいく地面に足を踏み外した後だった。
限界まで伸ばした手の、指の隙間から、彼がすり抜けていく。
落ちていってしまう。
崖下に消えてしまう寸前、魔王の唇がアウレリアと動いたように見えた。
必死に腕を伸ばしたために姿勢を崩していた私は、気が付いたら地面に倒れ伏していた。
馬上から落ちたのに、全く痛みを感じない。
それよりも魔王が矢を受けて、崖下に落ちていったことが信じられなくて、体がわなわなと震えた。
「嘘……」
嘘でしょう。
だって、そんな。
左目に矢が突き刺さった魔王が、崖下に落ちていった光景が何度もフラッシュバックする。
現実が信じられなくて呆然としていると、斜面を何者かがざざざと滑り降りてくる音がした。
「しっかりしろ、アウレリア」
肩を揺さぶられ、私はようやく我に返ってその誰かを仰ぎ見る。
肩に流した金髪の髪。中性的な美貌が冷たく私を見下ろしている。
ユリウスはその手に何やら年代物の装飾が施された光る弓矢を握りしめていた。
けれど私はユリウスがどうしてここにいるのかとか、彼が矢を放ったのかとか、そういうことには一切頭が回らなくて、ただただ目の前で起こったことが信じられなくて。
「嘘……嘘よ……!」
ただただ訳も分からず涙を流して、現実を嘘だと否定することしかできなかった。