きゅう
ひんやりとした感触が唇に触れた。
いちおう柔らかいけれど、こんなに冷たいんじゃまるで彫像とキスしているみたいだ。
……キスしているみたい?
みたいっていうか、これ、キスじゃない?
え、ちょっと待って、これ、キスじゃない!?
理解すると同時に、魔王の唇が離れていく。
口が自由になった私は。
「ギャー!!」
完全なパニックに陥り、気が付いたら魔王の顎にグーパンチをお見舞いしていた。
「ぶっ」
私のグーパンチを受けた魔王は、のけぞり苦悶の声をあげた。
「だ、大丈夫ですか?」
「たいして痛くはないが、ちょっとびっくりした」
「ごめんなさい」
顎をさすりながら魔王は不服そうな顔をしている。
でも急に人の唇奪ったのはそっちなのだから、私の握りしめた右手が猛威を振るったとしても仕方のないことだと思うのだ。
「嫌だったか?」
「え、嫌ではなかったですけど」
とっさにそう答えて、ぶわっと汗が噴き出た。
嫌ではないって……嫌ではないって、それ、もうほとんど嬉しいと言ってるようなものではないだろうか……。
いや、でも、まだ嬉しかったとは言っていない。言っていないぞ!
「というかなんで急に、キ、キ……」
キスという言葉がなかなか言えず、キキキと変な鳴き声の鳥の真似をしてみたいになる。
ぐっ……こんな恥ずかしがって、これじゃ私がキスもしたことない小娘だってバレバレじゃないか!
私は息を目いっぱい吸い込んで、食いしばった歯の間からひねり出すように言う。
「キスなんかしたのか聞きたいんですけど!」
「なんでって、かわいかったから」
「か、かわ……!?」
魔王はいたって普通だった。
照れもしなければ、むしろこっちを照れさせてやろうとかいう様子もない。
ただただ事実を述べているという風で、そのせいで私はますます恥ずかしくなる。
最終的には耐えきれなくって、へなへなとその場にへたり込んでしまった。
「大丈夫か?」
へたり込んだ私に合わせて、魔王もその場にしゃがみ込む。そして私の顔を覗き込もうとした。
「近い!」
グーパンチ再び。
今度は左頬にいいストレートが入った。
「おい……」
「ひぇ、ごめんなさい」
怒ってはいないが、あきれ果てた顔で魔王は頬をさすった。
「俺は何かまずいことでもしたか?」
まずいことと言いますか。
魔王のしょんぼりした表情に一瞬負けそうになるが、唐突に奪われたファーストキスのことを思い出し私は拳を握りしめる。
「こういうことは双方の了承が必要なんです!」
「そうなの?」
「当たり前です!」
言ってから、でも魔王に当たり前も何もないんだよなぁと脱力した。
「え、じゃあ、キスしていい?」
「ちがーう!」
ほら、これだもん。
双方の了承が必要とは言ったけど、じゃあキスしていい?はないでしょ。
ない……ない、よね!?
ダメだ。
頭部、主に顔面に血が集まりすぎて、頭がぐるぐるするし、勝手に涙が出そうになる。
私は涙目で魔王をにらみつけた。
たぶんすごく弱々しいものだったのだろうけれども。
「いいですか。キスっていうのは想いが通じ合っている男女がするものなんです!」
「俺はアウレリアのこと好きだぞ」
「うぐっ」
心臓を抑えて私はその場に倒れ伏した。
だって、家族以外の男の人に好きなんて初めていわれたのだ。ユリウスにだって愛の告白なんてされたことなかったのに。
あれ、魔王って男なんだろうか。
というか好きって恋愛的な意味?それとも友情的な意味?でも、キスまでしておいて友達として好きなわけないよね。
ダメだ。
わからない。
呻いてるんだか泣いているんだかよくわからなくなりながら、なんとか体を起こした。
私のこと好きだなんて、そんなあっさり言いますけど、それってどういう意味なんですかとか、さっきのファーストキスだったんですけどとかいろいろ言いたいことはあった。
というかそんなそぶり全然なかったのに、どうして突然。
今朝も王女に会いに行っていたじゃないですかと心の中で抗議の声を上げる。
「王女様のことはいいんですか?」
ちょっと悔しい気持ちを隠して言うと、魔王はけろっとした顔でこんなことを言う。
「ちゃんと断ってきた」
あっさりー!
え、じゃあ、王女を振ったから、私にキスしたってこと?
それじゃまるで。
「本当に私のことが好きって言ってるようなものじゃないですか」
「だからそうだってば」
真っ赤になって、変なのと魔王は無邪気に笑った。
「そんな、どうして私なんか」
「私なんかじゃないよ、お前だから好きだと思ったんだ」
じっと目をそらさずに魔王は言う。
私は少しだけ彼のことが怖くなって、床に視線を落とした。
「でも……私は人間でしかも奴隷で、全然他の女の子よりすごいところなんかなくって」
むしろ頭はあまりよくないし、時々ドジをしてしまうことだってある。
すぐ現実逃避しようとする悪い癖だってある。
というようなことをぽろぽろ言っていたら、いつの間にか私は泣いていた。
魔王の冷たい指が私の頬を撫でて、涙をすくいとる。
「それでもいいよ」
魔王はとろんと甘えた目で私を見ていた。
金色の瞳が溶けそうな色をしていて、ぐらぐらと体が揺れる。
何もかも投げ捨てて彼に縋り付きたくなった。
彼がどういう気持ちで私のことを好きと言ってくれているのか、私は彼のことが本当に好きなのか、そういう面倒な事全部ほったらかしにして、それでもいいと全部を許されたかった。
けれどぐっと思いとどまる。
私を思いとどまらせたのは恐怖だった。
私を捉えてとろかそうとする金の瞳に、本能が警鐘をならしていた。
『あなたのそばに魔の物がいます。彼は決してあなたの味方ではない』
流麗な文字で書かれた警告文が脳裏によぎる。
体が固まり、心臓が嫌な音を立て始める。
その手紙はいつの間にか私の枕元に置かれていた。
乳白色の分厚い封筒には、宛先も送り主の名前もなかった。
『あなたはきっと悪しき者たちを憎んでいることでしょう。私はあなたの力になることができます。もしも彼らの破滅を導く力を持っているのなら、もしくは私に協力してくれるのなら、門先に白いユリを飾ってください』
手紙の内容は、暗に私たち以外に父の事件を追っている人間がいることを示していた。そして私に協力しようと提案していた。
魔王に教えなければと思って、裏に何か書いてあることに気が付く。
『追伸。あなたのそばに魔の物がいます。彼は決してあなたの味方ではない』
動揺のあまり手紙を取り落としてしまう。
この手紙の送り主は、勇者の中身が魔王だと知っているのか。
だとしたらなおのこと魔王に知らせなければと思う。
思うのに、彼は決して味方ではないという最後の文章にどきりと心臓がはねた。
「そんなことない」
手紙に向かって否定の言葉を吐いても、返事はない。
私はどんどん不安になって、もう一度そんなことないと言った。
なら魔王に手紙を見せて相談すればよいのだ。
だというのに、私は王宮へ行く魔王を見送り、いつもどおり屋敷の仕事にとりかかった。
もしかしたらただのいたずらで、適当に書いた内容が当たっていただけなのかもなんてあり得ない楽観的なことも考えた。
『彼は決してあなたの味方ではない』
その言葉が何度も頭の中で繰り返された。
そんなことない。
そんなことない。
そんなことない!
……本当に?だって彼は人間じゃないのよ?
化け物と本当に分かり合えるとでも思っているの?
「ずっと考えていた。アウレリアのことを特別だと思うこの感情はなんだろうって。恋なんじゃないかって言われた時は、そんなわけあるかって思ったんだけど、でも俺が恋をするかしないかなんて誰にも、俺自身にだってわからないことだろう」
魔王は上機嫌に語りながら、私の頭を撫でた。
「そうだ。せっかくだから何か望みをかなえてやろうか?なにがいい?」
「望み?」
何も思い付かなくてオウム返しする私に、魔王はそうだなと目をぐるりと回す。
「お前を酷い目に合わせた奴ら全員の首を城門に並べてみようか。誰の首が見たいか言ってごらん?」
まるで花でも買ってくるよ。そんな軽い調子だった。
ぞっと寒気がして、頭の芯がすうっと冷えていくような感覚。
『彼は決してあなたの味方ではない』
またあの言葉が蘇ってくる。
あなたはそうやって気まぐれに命を摘み取ってしまえる。
いまは私に温情をかけてくれているのかもしれないけれど、それは永遠のものなのだろか。飽きてしまえば、私のことも簡単に殺してしまえるのではないの?
「……魔王様は私をどうしたいんですか」
「どうしたいって、喜んでほしいだけ」
ああ、いつもそうだ。
近づいたと思ったら、この人の化け物らしいところが現れて、私を突き放す。
彼は私を試しているのだろうか。
私が受け入れられなくなったら、それで興味を失うだろうか。
魔王に捨てられる。
そのことを考えると、彼の化け物としての面に触れた時よりもずっと恐ろしい心地になる。
捨てられるのは怖い。
頼るものがなくなってしまう恐怖は骨身にしみていた。
私は魔王に拾われた時、私を必要としてくれるのならそれが化け物だってかまないと思った。けれどその感情に身を任せて、取り返しのつかない事態を招いてしまうことはもっともっと恐ろしい。
何より私は魔王のことを心の底から信じていいのか、わからなくなっていた。
だから私はひとまず逃げることにした。
「父の名誉を回復させてやってください」
逃げではあったが、正真正銘の願いでもあった。
これなら魔王だって首を並べるなんて物騒なことはしないだろう。だってユリウスたちを殺してしまえばそれまで、証言を引き出して名誉の回復をすることなんて一生できなくなってしまう。
「本当にそれでいいの?」
そんなこと頼まれなくてもやってあげるのにと、魔王はふくろうのように首を傾げた。
「いいんです。そうじゃないと、私どこにも進めません」
事実そうであった。
父の事件が解決しないかぎり私は罪人の娘のままで、死んでしまった両親と兄の汚名もそのままなのだ。
最近進展がないようだし、これで魔王がやる気になってくれるなら何でもいいと思った。
これが一種の逃げであることもわかってはいたが、一つの出口であると信じることにしたのだ。
父の事件を追っていれば、また匿名の手紙の主から接触があるかもしれない。
そうすれば相手がどこまで父の事件のことを、魔王のことを知っているのかわかるはずだ。本当に協力的な相手ならきっと魔王がいい人だってわかってくれるかもしれない。
そうすれば私は魔王を信じることができるし、ユリウスたちの罪を暴くことだってできる。
きっと、そうだ。
「わかった。いいよ」
魔王は少しつまらなさそうにそう言って、私を抱きしめた。
そしてむふむふ笑う。
私は嬉しいような、怖いような、複雑な気持ちを抱きながらほっと息をついたのだった。
「お前の父親残したという証拠が見つからないならば、ユリウスたちにもっとプレッシャーをかけて、あちらが実力行使に出たところを抑えるしかないだろうな」
紅茶の取っ手をこつこつと爪先ではじきながら、魔王は物憂げに遠くを見ていた。
黙って思案している様子を見ると、さっきまでのはしゃぎっぷりが嘘だったかのように思える。というか自分に都合のいい夢を見ていたような気すらしてくる。
「そうなると人目があって、言い逃れのできない場所である必要がある」
魔王はぶつぶつ呟いて、うーんとうなった。
「もしくはわざと罠にはまってみるか?」
「それで死んでしまったらどうするんです」
「勇者は死なないさ。俺がこの体を保っている限りね」
何の気なしに言った言葉だったのだろうが、私はひるんだ。
魔王は勇者の死体に入っているにすぎないのだ。
彼は魔王で、化け物なのだ。
なんだかとても彼との距離が開いてしまったような心地になった。
勝手に疑って、距離を置こうとしているのは自分のくせに。
そうだ。いっそのこと切り込んでみるのはどうだろう。
いままではデリケートなところだと思って触れないようにしていたが、そのせいで不信感が生まれてしまっていたのかもしれない。虎穴に入らずんば虎子を得ず。
「魔王様って本当はどんな姿なんですか?」
思い切って聞いてみることにした。
背中から一部をにょろんと出しているところや、暗闇の中で光る三つの瞳を見たことはあっても、魔王の本当の姿を私は見たことがなかったからだ。
「俺に興味が出た?」
嬉しそうに魔王はにやつく。
「興味はいつだってあります」
ただ君主危うきに近寄らず、好奇心は猫をも殺す、そういった教訓があることを知っていただけだ。
またにやつくかと思われた魔王はなぜか黙りこくって、むしろ少し怖い顔をしている。
さっきまで嬉しそうにしていたのに、どうしたのだろう。
「どうしたんですか?」
魔王はちらっと感情の見えない目で私を見た。そこにはどこか試すような色がある。
「アウレリア、蛇は好きか?」
「蛇はちょっと苦手ですけど」
「苦手かぁ」
魔王は骨が抜けたみたいに机に突っ伏す。
なんなんだ。
「ちょっとはしゃぎすぎてたな……」
魔王がそう反省して呟くのが聞こえた。
私はキスも、告白も、本当は嬉しいと感じたのだということを言おうか迷って、匿名の手紙のことを隠している自分がそんなことを言えた身ではないと思いなおした。
いたたまれなくなって、私は手紙の山を整理することにした。
毎日毎日、勇者との交友関係を求めて多くの招待状が届くのだ。
ほとんどが夜会への招待状だ。そういうのにはお断りの返事を出すようにしている。
そうしなければキリがない。
どうしてもあの匿名の手紙の内容を考えてしまいそうになるのを抑えながら、宛先を見て、爵位や社交界での地位に基づいて手早く仕分けること少し。
書斎には沈黙が流れて、かなりの時間が経った頃。
「失礼します」
書斎の扉をノックして、メイドが入ってくる。
相変わらず背筋に定規でも入れているかのように姿勢正しい。
「王宮からの使者様がいらしています」
心当たりがなくて魔王を見ると、彼は何かを感じ取ったかのように無表情だった。
「通せ」
硬い声でそう命じる。
使者は国王殿下からの書状を届けに来たと言った。
そして書状を渡すと、さっさと帰って行った。
魔王は難しい顔をしてそれを読んでいる。
なんだか嫌な予感がした。
書状を読み終わったのか、はぁと魔王は珍しく重たい溜息をつく。
「国王様はなんと?」
「一週間後、決闘をせよとの命だ」
「け、決闘!?」
魔王は困惑する私など放置して、面倒なことになったなぁとぼやいて椅子に座ったまま伸びをする。
「決闘って、魔王様がですよね?相手は……」
ふっと魔王の口の端が吊り上がり、不敵な笑みを形作る。
まさか。
「ユリウス・フォルトナーだ」