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はち


塔の上は遮るものがないために、地上よりもずっと強い風が吹いていた。耳元を吹き抜ける風がゴーゴーとうなり声のような音を立てて、コートの裾がバタバタと脚に絡みついてくる。

魔王は街郊外にある高い塔の上に立って、ぼんやりと光る金色の目でまだ夜明け前の薄暗い街を見下ろしていた。

眼下の街は灰色の水の中に沈んでいるみたいに輪郭があやふやで、静まり返っている。まるで湖に沈んだ巨大な生き物の死骸のようだ。

『魔王様ぁ』

右手から情けない声があがった。

ここに来る途中に適当につかまえてきた蛇だ。藪の中でまどろんでいたところを引っこ抜いてきた。

蛇としては大迷惑だっただろうが、相手が魔王となれば逆らえるわけがなかった。

けれど結局は蛇なので上下関係などという概念はあいまいである。なのでこんなことも割と平気で言ったりもする。

『特に用がないなら帰っていいですか?』

やる気のない店員みたいなことを言うのでギロリとにらみつけると、蛇は縮み上がって自らの頭を守るようにぐねぐねととぐろを巻いた。

魔王はすぐに蛇のことなどどうでもよくなって、物憂げにため息をついてぼんやりと街を見た。

そして人差し指で家を端から一つ一つ数えていこうとして、すぐにやめた。

「この街の、あの家の一つ一つに、人間が家族とやらと一緒に暮らしているということは、考えれば考えるほどに大変なことだな」

『はぁ』

蛇は魔王の言っていることをいまいち理解できていないらしく、気の抜けた返事をする。

『それはつまり番とその子供が巣で暮らしているようなものでしょう』

「そう、それが大変なことなんだ」

魔王には生殖のための機能がない。

生まれてから死ぬまでこの世界に唯一一体しか存在しない種だ。

ゆえに魔王にはまず番を得るという概念がないし、番を求める気持ちが理解できない。子供などというものの存在に関しては、まったくもって未知としか言いようがない。だって自分にはどうあがいても作ることのできないものなのだ。

だから恋人などという関係はもっと理解できなかった。

魔王はあのリーゼとかいう女が流した涙を思い出した。

そして彼女が去った後にアウレリアが見せた悲しそうな顔も思い出した。

その二つの意味をずっと考えているのに、どうしてもわからない。

ただ自分が原因で、アウレリアに悲しい思いをさせてしまったことだけははっきりわかっていた。

魔王はアウレリアを困らせてばかりいるような気がする。


「お前たち蛇も特定の番は持たず、子育てもしないだろう」

『まぁそうですね。でも人間の子供は特に脆弱な生き物だから、親が面倒を見なければ死んでしまうでしょう』

なるほどと思った。

番を持ち、子供が大きくなるまで一緒に暮らすのが人間にとって最も効率の良い繁殖方法なのだろう。一度に生まれる子供の数や、かかる年数を考えると、ひどく非効率な気もしたが、人間がここまで繁栄したことを鑑みるにやはりそれが最適解だということになる。

だとしてもだ。

「人間は恋人というものを作るだろう?あれこそ不思議だ。気に入った相手がいて、相手もその気なら、すぐに番えばいいのに」

そうすればリーゼは勇者を自分のもとに引き留めておくことができただろう。

少なくとも番になっておけば、子供を作ることができる。勇者がやはり魔王を倒しに行って死んでしまったとしても、彼女のもとには子供が残ったことだろう。

どうしてリーゼとこの体は、勇者は、恋人などというなぁなぁな関係を選んだのだろう。

考えれば考えるほどに、深い霧の中へ迷い込んでいくようで、けれど霧の中にもぐるほどに答えが見え隠れしているような変な感覚だった。

魔王が答えを掴もうと苦心していると、蛇がははぁんと訳知り顔で鼻を鳴らした。

『魔王様は恋がお分かりにならない』

「なんだって?」

『だから、恋です。池でばちゃばちゃ跳ねている黒っぽくて、バカっぽいあの魚のほうじゃありませんよ』

この蛇は鯉のことがあまり好きではないらしい。ものすごくどうでもいい情報を得てしまった。

蛇は魔王の腕に絡みつき、得意げに細長い舌を出したり引っ込めたりする。

『人間は恋というものをするんです。番になるならないではなく、好きという感情だけで一緒に過ごしたいと願い、相手を独占したいと望む』

「随分と詳しいじゃないか」

『恋があるから、嫉妬が生まれる。そして我々蛇は嫉妬をつかさどる生き物』

あなたならわかるはずだと黒い真珠のような眼で蛇は魔王を見上げた。

魔王は否定も肯定もせず、だいぶん明るくなった東の空を見やる。

太陽の光が山の稜線からこぼれ出て、街の端にたつ家々の屋根がうろこのようにピカピカと光っていた。

潮が満ちては引くように、夜は追いやられて朝になる。

それはまるで生き物が新たな命を育んでは死んでいく様にも似ていた。

魔王はこの時初めて、自身が生き物の営みの輪から外れた存在であることを寂しいと思った。

その瞬間、孤独感がどっと押し寄せてきた。

吹き付ける強烈な風の中で揺るぎもしなかった足元が、急に頼りなくなってしまう。


「アウレリア……」

無意識にそう呟いていた。

するとそれまで寂しさと孤独感に飲み込まれそうになっていたというのに、心にぽっと明かりがともったような気がした。

そうだ。早く帰ろう。

そしてアウレリアが起きるまでその顔を見つめていよう。

そして彼女が起きて、おはようございますと笑いかけてくれればきっともう寂しくない。

また蛇が私はなんでもわかっているんですよとでも言いたげな調子で、ははぁんと声を上げた。

『魔王様は恋がお分かりにならないのではなく、恋だとお気づきになっていない』

「気づいていない?」

『魔王様はその娘に恋してらっしゃる』

「馬鹿なことを言うな」

魔王は憮然たる面持ちで蛇をにらみつけた。

しかし蛇はひるむことなく、むしろからかうようにもたげた首を左右に振る。

『照れなくたっていいじゃないですかぁ。魔王様が恋をしてはいけないなどという決まりはないのだし』

「だからそんなんじゃない」

『またまたぁ。心あるものは皆なにかに惹かれてしまう運命。それが魔王様にとってはたまたまその娘だったというだけの話』

右へ左へ、蛇の頭がゆらゆら揺れる。

酷く腹が立ったので、魔王は腕を大きく振るって、絡みついた蛇を眼下の街へ投げ落とした。

ぎゃー!と叫ぶ声が木霊して、冷たい朝の空気に消えていく。

カッとなってつい投げ捨ててしまったことを反省して、魔王は蛇が地面に落ちきる寸前に魔法でちょっと浮かせてやった。そして死なない程度の高さからまた落とす。

命を取り留めた蛇は、一目散に建物の陰へ逃げ込んでいった。

その行方を何とはなしに見送っていると、強烈な朝日が目に飛び込んできて魔王はとっさに顔をそむけた。

手でひさしを作って眩しさから逃れた魔王は、光の洪水に飲み込まれようとする街の中から自分の屋敷を探した。

そしてアウレリアの眠る部屋にも朝日がさしこむ様子を思い浮かべた。

彼女のくすんだ癖の強い金髪はきっとオレンジ色の朝日の中、燃えるような色になるのだろうな。

そんなことを考えていると、どういうわけかドキドキしてくる。

なんだ。

なんなんだ。

衝動的に蛇をぶん投げてしまったが、もう少し詳しく聞いておけばよかったかもしれない。

魔王はもやもやを発散するように、うああと変なうなり声をあげながら激しく頭を掻きまわしたのだった。


あの後こっそり屋敷に戻った魔王はけっきょくアウレリアの寝顔を見ることはなかった。

いやドアの前まで行って、ちょこっとドアを開けもしたのだが、急激に恥ずかしくなってやめてしまったのだ。今思い返しても、なぜあんなに恥ずかしくなったのか理解不能である。

自分でも自分のことがわからないなんてこと初めてだ。

魔王にとって初めてというものは、それが良いことでも悪いことでも、とにかく面白くてワクワクできるものだった。けれどこの初めてはあまり面白くない。そう、ちっとも面白くない。

もだもだしているうちに屋敷の者たちが起きだして、それでもまだもだもだしていると今度は王宮に行く時間になった。

なんだか行く気がおきないなぁとだらける魔王にアウレリアはちゃきちゃきよそ行きの服を着せて、自分だけすっきりした顔でこんなことを言う。

「では私は父が隠したかもしれない証拠を探してみますね」

そうだった。

そういえばそんなものがあるかもしれないなんて話をしたのだった。

「心当たりでも思い出したか?」

「いいえ。でも何もしないよりずっと気持ちが楽ですから」

アウレリアは吹っ切れたように苦笑してみせる。

なんだか健気で、かわいいなと思った。

「行ってくる」

「行ってらっしゃいませ」


アウレリアに見送られ、今日も魔王は王女のもとへ向かった。

アウレリアが襲われたことや、先日のユリウスの訪問から、あちらが作戦通り魔王を危険視しだしたことはわかっている。ユリウスとの敵対はもはや避けようのない事態であろう。

とはいえ王女の婚約者の座を狙っているふりはもうしばらく続ける必要があった。

なのであまり気乗りはしないが、途中で花を買って王宮まで馬車に乗っていく。

そういえばアウレリアには随分前にワンピースを買ってやったきりで、花なんて贈ったこともないななんてふと思った。

王女は魔王をいつも通り快く出迎えてくれた。

相変わらず巨大な綿埃みたいに白くてふわふわしている。

魔王にも王女が美しい容姿をしているということはいちおうわかってはいたのだが、だからなんだという感じであった。

魔王は王女に乞われるまま、温室で紅茶を飲み、彼女の他愛無い話に適当な相槌を打ち続けた。

だけど本当はずっと頭の中では、どうやってユリウスの罪を証明しようか、ということを考えていた。ちなみに残念なことに、いい考えはいまだ浮かんでいない。


「リーンハルトは本を読むのが好きでしょう?だからわたくしも最近本を読み始めたの」

寡黙な男を演じ続ける魔王に対して、王女は得意げな顔で一冊の本を取り出した。

華麗な装丁には見覚えなかったが、タイトルは魔王も読んだことがある小説だった。

アウレリアが好きだと言っていたロマンス小説だ。

そういえば王女に好かれるために、ロマンス小説を読み漁ったこともあったなと少し前のことなのに随分懐かしい感覚に襲われる。

魔王は微笑んで、王女から本を受け取った。

そして何の気なしにぱらぱらとページをめくっていく。

魔王がアウレリアから借りた本にはなかったのだが、王女の持っている本には挿絵が多く挟まれていた。

いがみ合い、長らく争い合っている二つの国に、それぞれ生まれた騎士と姫。

姫は政治の争いに巻き込まれ、国を追われることとなり窮地に陥る。

そこに敵情視察のために国境まできていた騎士が現れて姫を救い、二人はお互いの正体を知らないまま恋に落ちる。

そんな話だ。

騎士は国で一番強い騎士という設定らしいのだが、女ったらしでもあり、魔王はあまり好きではなかった。

アウレリアに言わせれば、女ったらしの騎士が姫に出会い、真実の愛を知るところがいいらしい。

「騎士が本当の愛に気づくところがとても素敵なのよ」

王女も全く同じことを言うので、思わず苦笑してしまった。

その時、一枚の挿絵が目に留まり、魔王はページをめくる手を止めた。

騎士が姫を抱きしめ、彼女の顔に自らの顔を寄せている。

口づけのシーンだ。


魔王がその挿絵をじっと見ていることに気が付いた王女は、ぽっと顔を赤くした。

そして期待するようなうるんだ瞳でちらちらとこちらを見てくる。

いくら鈍い魔王でもさすがに察しがついた。

王女はきっとこの絵のように魔王が自分に口づけてくれることを期待しているのだ。

人間は好意を抱いた相手に、口づけをしたい、もしくはしてほしいと思うものなのだろう。

魔王は気が付かないふりをして、王女のことを考えた。

彼女はおそらく魔王ではなく、勇者に恋をしているのだ。

「わたくし、強い男性にあこがれていたのです。おとぎ話に出てくるような、強い王子様に」

魔王と初めて二人っきりで庭を散歩したとき、王女はそう言って恥ずかしそうに顔を俯けたものだ。

そして魔王もまた王女を丁重に扱った。

それは決して王女のことを好きになったからではなく、周囲に二人がうまくいっていると思わせるためのものだったのだが、よくよく考えてみると少し残酷なことを自分はしているのかもしれない、なんて思った。

王女がいくら好意を寄せてくれても、魔王はそれに応える気などない。なのに自分の目的のために気を持たせるようなことをして。

それはきっと、故郷で待つ恋人がいた勇者を殺してしまったことと同じように、残酷なことなのだろう。


「シルヴィア様、申し訳ありません」

魔王は静かに本を閉じ、目を伏せた。

「……どうして謝るの」

王女はどうしてと聞きながら、本当は魔王の言おうとすることが分かっていたのだろう。いつもは砂糖のように甘く、かわいらしく響く声は、か細く震えていた。

もう終わらせよう。

そう決めて魔王が口を開くのを遮るように、王女は急に明るい声でそうだわ!と手を打つ。

「ずっと考えていたのだけれど、リーンハルトのところにアウレリアという子がいるでしょう?その子を王宮で働かせてあげるのはどうかしら。父親が罪を犯したのであって、本人は少しも悪くはないのだから、一生懸命に働いていることをお父様が知ったら、良いように取り計らってくれるかも。そうよ、わたくしからも頼めばきっと」

「シルヴィア様」

魔王にぴしゃりと名前を呼ばれ、王女はぐっと言葉を飲み込んだ。

そして震える手で顔を覆って、絞り出すように言った。

「……あの奴隷のことが好きなのね」

魔王はそれにたいして肯定も否定もしなかった。

だって魔王には恋というものがわからない。理解できない。

けれど蛇はこう言っていなかったか。

心あるものは皆なにかに惹かれてしまう運命なのだと。

だとすれば、魔王が面白いものや、未知のものに惹かれるのも心があるからなのだ。

心があるのならば、アウレリアに惹かれたとしてもおかしくはないのではないか。

狭まっていた世界が隅々まで広がっていくようで、どこまでも走っていけるような気がした。

瞼を閉じると、自然とアウレリアの姿が浮かび上がってくる。

とうもろこしの穂みたいなふわふわした髪が乱れるままに、アウレリアは物憂げに空を見上げていた。

何もかもあきらめた横顔はつまらないのに、どこか美しい。

ふと虚ろな瞳が魔王を認める。

次の瞬間には、彼女は屋敷の中を走り回っていた。

リスみたいにすばしっこくて、一生懸命で、その姿を目で追っていると彼女がぱっと振り返る。

「魔王様!」

誰かがが自分を見て、名前を呼んで、笑いかけてくれることが、自分のことを恐れながらも、そばにいてくれることが、魔王はきっとうれしかったのだ。

本当に、うれしかったのだ。


「あの娘は罪人の娘なのよ。それも敵国と通じていた罪人よ。……ねぇわたくしではいけないの?王女のわたくしではいけないの?」

顔を覆っていた手をばっと伸ばして、王女は魔王に縋りつこうとした。

けれどその手は体に触れる前に、魔王の手に捕まえられてしまう。

両手を取り合った姿で、二人は見つめあった。

こんなに王女は自分に恋しているというのに、魔王は彼女にたいして何も感じることができなかった。

それはもしかしたら王女が、自分の勇者という外側を愛しているのだということに気づいていたからかもしれないし、ただ単に彼女には惹かれるところがないだけの話だったのかもしれない。

「ごめんね」

だから魔王は心からの謝罪を彼女に送った。

勇者としてではなく、魔王としての謝罪だった。

王女の心境を思うと複雑だったが、魔王の心の中は晴れ晴れとしていた。

霧の中の答えは、もうずっと前から自分の中にあったのだ。





「アウレリア!」

王女と別れ、帰ってきた魔王はアウレリアの名前を呼びながら屋敷中を走り回った。

いち早く試したいことがあったのだ。

「アウレリア!」

書斎の扉を力任せに勢いよく開くと、本棚に叩きをかけていたアウレリアは飛び上がって目を白黒させる。

「な、なんですか!?」

いつになく上機嫌な様子をいぶかしむ彼女などお構いなしに、魔王はつかつかと歩み寄った。

「え、ちょ、ちょ」

魔王があまりにぐいぐい来るので、アウレリアは本棚に背をつけたまま横方向に逃げようとする。

「おい、なんで逃げる」

アウレリアが逃げないように彼女の顔の横に左手をついた。

「いや、だって、なんか近くありませんか!?」

今度は逆方向にじりじりと逃げようとするので、残っていた右手も同様に本棚につく。

魔王の両腕の間でアウレリアはかわいそうなくらい真っ赤になって、あわあわしていた。

うーん、かわいい。

いままでちゃんと考えたことなかったけれど、こいつすごくかわいいのでは?

魔王は気が付いていなかったが、この時彼は相当はしゃいでいたし、脳内はちょっとしたお花畑であった。

だから相手に了承を取るとか、せめて予告するとかいう配慮は全く思いつかなかったのである。

「魔王様……」

アウレリアは何か言いかけたのだけれど、最後まで言うことはできなかった。

魔王が彼女の唇を自分の唇で塞いでしまったからである。



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