魔王は人間界に行くことにした
退屈だった。
十年ぶりに来た勇者とやらは威勢こそよかったが、こちらが少し本気を出せばあっけなく死んでしまった。
最初は仲間も数匹いたような気がするが、鬱陶しくて一薙ぎしたら静かになったので、たぶんそいつらも死んだのだと思う。
というかここ百年の勇者はみな弱い。弱すぎる。
なんか思い出したころに来るからわざわざ出迎えて相手をしてやっているというのに、毎回質が下がっていっているような気がする。
魔物たちが献上する生贄のほうがまだ質の向上がみられるというのに、人間ときたら!まったく魔王を何だと思っているのだろう!
ムカついたので勇者の死体を突いてみた。
もちろん死んでいるので反応などなく、されるがままごろんとあお向けになる。
戦っているときは気が付かなかったが、そこそこに美しい顔立ちをしている。
まっすぐな黒髪からのぞく緑色の瞳は生気を失い、空虚に宙を見つめている。
その虚ろな瞳を見ていると少し寂しいような気持ちになって、たわむれに回復魔法をかけてみた。
もし生き返ったら、もう一度おもちゃにしてやろうと思ったのだ。
しかし失われた命が戻ることはなかった。
『そりゃそうだ』
いくら魔王でも命を蘇らせるのは無理だ。それは神の業だ。
けれど魔王は神になることには興味がなかったので、基本的に破壊と殺戮の術のみを身に着けてきた。ゆえに命を蘇らせることは、ちょっと難しかった。
けれども生物としての強さのみで言えば、魔王はその頂点に最も近い存在であった。
魔王的感覚での少し前からちょっと突いただけで大概のものは死んでしまうので、なんか貢物とかされるようになり、中には崇拝とかはた迷惑なことをしてくる連中がいたので、気が付いたら魔王は魔王になっていた。
その時から魔王は、ただの怪物から魔王になった。
魔王の世界は広いようで狭い。
壊して、殺して、食べて、眠って。
また壊して、殺して、食べて、眠って。
世界は退屈そのものだった。
ふと、この勇者とやらはどうだったのだろう、と思った。
いつか魔王を自分が倒すのだと夢と希望を抱いて、研鑽し、厳しい旅を乗り越えここへやってきた。その過程にはきっと退屈などという言葉は存在しないのだろう。
それは、なかなかに。
『羨ましいね』
そう呟いて魔王は思考する。
羨ましい、というのは面白い感情だ。
妬み、嫉み、とは少し違う。自分の羨ましいという感情の根本にあるのは好奇心だ。退屈を紛らわせてくれる未知のものへの期待だ。
魔王は妬みや嫉みといった感情にはわりと聡いほうだが、それ以外の感情はあまりよく知らないのだ。
だがいくら羨んだところで魔王のままでは、未知のものへ触れることは難しいだろう。力加減を間違えれば、何もかもが壊れ、死に絶える。
死体ではだめだ。面白くない。だって反応しないのだから。腐る過程を観察してもいいが、汚いし臭いがあまり好きではない。
この姿では、この体では、だめだ。
他の生き物を殺さず、群れの中になじむことのできる体が必要だ。
そして思考は目の前の死体に収束する。
程よく頑丈で、脆弱で、群れの中に入っていける体。
そう、勇者の死体だ。
『なんだ、ちょうどいい入れ物があるじゃないか』
ならば善は急げと、魔王の体がどろりと溶けた。
不定形の泥になった魔王は死体の口から体の中にもぐりこんでいく。
もう動かないはずの勇者の体がガクガクと激しい痙攣をおこす。
関節が限界まできしみ、筋肉が緊張と弛緩を繰り返す。
瞳の奥から黄金が湧き出て、明るい緑が濁って、飲み込まれて、完全に金色に支配される。
泥が全て体の中へ消えると、再び死体に戻ったかのように体はピタリと動きを止めた。そしてむっくりと起き上がる。
口を何度か開け閉めして、試しに「あ」と言ってみた。低くてかすれた声が、死体だらけの城に響く。
何度か同じように発声の練習をして、魔王は肩を回したり、屈伸をしたりして自身の入れ物の体の挙動を確認する。
そして驚いたようにあたりを見回して、感嘆の声をあげる。
「世界が広い!」
魔王の巨体から人間の体に入ったので、そりゃなにもかも大きく見えるだろう。そんなことを言ってくれる相手はいなかった。魔王は孤高の存在なので。
かくして魔王は訳アリ勇者になって、魔王の時よりもずいぶんと広くなった世界へ出かけることにした。