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しばし心をいやす時期

 「心が折れる」いつごろ使われて人々に広まった言葉なんだろうか。心は木の棒のように硬く、横から力を入れるとへし折れてしまう物なのか。ベッドから中々起き上がれず、回り灯篭に映える画像のように同じ事ばかりを考えていた。


 気合を入れて、上半身を起こす。瞼の下は乾いていたが、何かの拍子に打ちひしがれた心に火がついて、悲しみの灯がともり、胸を冷たく照らすのではないか。なるべく考えないようにしようと努めれば務めるほど、あのシーンが、水面に小石を投じた後の波紋のように心の隅々まで広がってくる。


 まりんは、なるべく気をやらないようにして、着替えて髪をとかし鏡の前で笑顔を作る。気持ちと表層筋が必死に抗い続けている。心理が打ち勝ち、うかない表情のまま部屋を出る。母親に力のないおはようを伝え、父親にも同じことを繰り返す。両親は気を使っているのか、こちらのおかしさを指摘しようともしない。むしろ、その心配りがありがたかった。魂が食堂から上の方に広がって、食物をせき止めようとしている。まりんは、親に心配をかけまいと、無理に押し込んで嚥下した。重い食物がゆっくりと喉を通る。味も匂いも感じない粘土細工を、栄養だと思って口に入れている作業だと感じた。


 普段は、時の流れを感じさせないバスの運行でさえ、のろのろとした歩みに感じられてしまう。まりんの心はそれほどまでに沈んでいた。バスの中は学生でいっぱいになる。昨日の事は、誰も知らないのだろう。知られては困るとまりんは思う。市来希沙は、自分の学校でまりんのことを言いふらさないだろうか。

「あの女、生霊飛ばしてきたんだよね。私がいるのに。キャハハ」

 彼女の言いそうなセリフをアテレコ付きで想像して、心の芯がささくれだったように感じた。


 高校の玄関でよそ行きの自分に作り替える、みのりや朱理に出会っていつものように挨拶を交わす。演劇部だと思って普段の自分を装うんだと心に圧を加える。

「緑川君のお見舞いに行ったの?」

 何気なくみのりが訊いてきた。少したってから、まりんの反応が鈍いことに気づいたようだ。

「まあ、手術直後だし、まだ早いかもね」

 みのりは前言を引っ込めて取り繕ったような笑顔になり引っ込む。ナイスフォローといいたいところだけれど、ちょっと記憶の倉庫の扉が開いた。


「ごめんね。ちょっと気分がすぐれなくて」

 みのりに断ると、席を立ちトイレに向かう。洗面所の鏡の前では、泣く準備をしようとしている女子高生が私を見ている。頬を軽くたたいて気合を入れ、何気ない風を装って、教室に戻る。


「ちょっと、練習には参加できないんだ。ごめんね」

 まりんはみのりに告げて、心の重荷を軽くした。今日は一日、なるべく静かに過ごして、平穏な気持ちのまま家までこらえなきゃならない。ふとしたきっかけで、決壊したダムのように涙があふれ出るような失態は避けなければならなかった。


「わかってるわ。委員長も一人だから大変よね」

 みのりは、ことさら探る様子もなく、淡々と受け入れて流してくれた。あとは、今日一日、あの日の事は考えずに過ごそう。まりんは腹に力を入れて、落ち込んだ気持ちを飲み込んだ。


 無理はできないのかな。休憩時間に自分の眼の下をハンカチでぬぐうと、しっとりと濡れていた。泣き出したりはしないものの、心は確実にダメージを受け、反応を小出しにしていた。特に回りが触れてはいないが、少し変なのは伝わっていると感じていた。


 「どうしたの泣いたりして」

 高めの声が、膨れ上がった海綿のようなまりんの心をノックした。溝手の発言だった。彼は思ったことを口に出しただけかもしれない。発達障害者にはよくある反応だが、今日は相手が悪かった。


 まりんは、氷の下の海の中に引きずり込まれたような気がした。閉じられた口からは、くぐもった高い声が漏れて、涙が下瞼の縁を越え、まつげを押し開いて頬の上にしずくを垂らし始めた。


「え、何か悪いことした?」

 溝手は、国外でルール違反をした観光客のように挙動不審になっている。無理もない、他者への共感はもっとも苦手とすることだからだろう。すすり泣き始めるまりんに対して、ただひたすら謝っていた。


(なんでこの人はいつも酷いことを言うのだろう)

 溝手と初めて会った時のことを連鎖反応的に思い出し、悲しさを上塗りしてしまった。絶えることなくあふれる涙。声にならない声が口から洩れる。


 ふいに予鈴のチャイムが鳴り、悲しい心は遮断された。授業の迷惑にならないように、感傷に浸る心を押しとどめて、授業に専念しようとした。

(届かなければ、奪えばいい)

 ふとこんな気持ちが、頭をすり抜けていった。希沙から緑川をうばえばいいかも。今は実現不可能でも、とりあえず気を紛らわすしかなかった。



 


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