病室で見たものは
緑川が搬送された翌日、教室内では怪我の状況を皆が案じていて、締め切った西日の当たるアパートのような暑く重だるい空気に全体が押し下げられていた。時折、よそのクラスの生徒や上級生が、容態を訊きに来る。乾いた高い声が、笹の葉をこすり合わせる時に立つ妖精の声のように響いては消える。
担任の野島が、雨上がりの道路を照らす油膜のような空気を押し広げて入室し、教壇に立つ。クラスメイト達は一字一句も逃さぬように、視線を集中した。数十名の照準が一つになった。
「膝蓋骨の横骨折で手術が必要だそうだ。ワイヤーを入れてから数日間入院し、あとはリハビリをかねて学校に戻ることになるが、激しい運動は禁物になる」
野島は、まりんに責任を託すような目で見つめて話し終わると、ホームルーム後彼女を呼んだ。
「少し負担になるだろうが、委員長の代わり頼んだぞ」
野島は、両手でまりんの肩甲骨の後ろを軽く叩いて伝える。背筋がひっと気張る。
「はい。頑張ります」
まりんは軽く会釈をして、教師の期待に沿った。緊張と緩和が同時に来て髪の中を汗が伝わって額に降りてきた。委員会の重さを胸で支えながら、緑川へのお見舞いの段取りを考えていた。
委員会も、競技かるた部もない暇な日は一日しかなかった。手術が終わりすぐ歩けるとはいえ、細菌感染を防ぐために入院は必要だった。まりんは、一人での委員会で気を入れて、連絡事項をまとめてレジュメを作る。緑川に頼り切っていた部分が自分に迫ってくる。この数か月間で処理能力はつくような気がした。
*
バス停を降りて、しばらく裏通りを抜けると、苔むしたブロック塀の向こうに古い病院が見えてきた。モルタルの壁は色あせ、薄い水色の外観はお世辞にも新しさを感じさせない。自動扉の反応も遅く、もう少しいい病院に連れていけなかったのかと不満げに思う。空調の音はやかましく、古びたエレベーターは、いない人を待っているかの如くゆっくりと戸を開けた。
緑川の病室は個室だった。先客がいるのか、ドア越しに黄色い声が聞こえる。なにやら恋人同士が戯れていると思えなくもない明るさだった。気になったと同時に、まりんは壁を抜けてベッドの前にいた。
またやってしまった。見ると足に添え木をした緑川がベージュ色の病衣を着て横になっていた。横には金髪のツインテールが目立つ、小柄な女子高生がカスタードプティングを与えていた。彼女はまりんに気づくと睨みつけて「ちょっとあんた誰!」と叫ぶ。かわいい顔が一瞬にして夜叉に変化した。
「失礼しました。緑川さんのクラスメイトの高津まりんといいます」
扉を開いたのち、自分の生霊を招き寄せて合体してから、首を垂れた。
「あーあなたが有名な生霊娘ね」
というなり、その少女は笑い声を漏らす。しばらくくすくす笑いをした後、背筋を伸ばし、まりんの眼を見据えて高らかに宣言した。
「あたしは、市来希沙和馬のファインセよ」
希沙は勝ち誇ったように言い放つと「ねー和馬」と寄り添って見せた。そして、事もあろうに希沙は口移しでプティングを和馬に食べさせたのだ。
「あたしたち、こんなこともできるのよねー」
「こら、希沙。ちょっとやりすぎ」
まりんの中で緑川に抱いていたほのかな恋心が崩れ落ちていった。まりんは手元に持っていたお菓子の箱を落としてしまった。すぐにほこりを払い落すと枕元に置いて去って行った。後ろで緑川の呼び止めるような声が聞こえたが、無視をして元来た道を引き返す。下瞼にあふれんばかりの涙をためて……。
自宅に帰ると、着替えてラフな格好になりベッドに寝転ぶ。母親の「帰ってきたのー」という言葉に返事もできない。自分の今までの多幸な気分が溶けた綿あめのようにかすんで消えていった。寝室を占領する一番大きい猫のぬいぐるみに抱き着いて振り回した。あの頃の自分、彼女がいるのに浮かれていた自分に対してマジックの太いのでバッテンをつけたい気分になった。
「私、彼のどこにひかれていたんだろうか。ただ格好良さにあこがれていたんだろうか」
悲しさで満たされている心に問いかけてみる。二度、三度。返事はなく、胸に穴が開き、後頭部が締め付けられた自分を見下ろしているような気分になった。そのまま、全てを忘れたくなって横を向いて胎児のように丸まった。涙がとめどもなくしたたり落ちてきて、意地悪なしずくは口の中に入り、塩辛さが人生の辛さのように感じた。
緑川が隣にいた時の高揚感や、心の温かさを一人の恋人が冷凍魔法で消し去ったみたいだ。明日の競技かるた部の練習には出れるだろうか、いや出たくない。冷静と悲嘆のはざまで心が揺れ動く。