夏休み前はテストで精いっぱい
よく考えたら高校生のかるた大会って夏休みにあることを完全に忘れていたので、その部分を書き直します。
文化祭の前にはだかる嫌な壁。その名も期末考査。目前に控える全てを包み込む大波に、生徒たちは深海に潜む甲殻類のように静かに知識という名の生餌を貪り食う。授業中の彼らはいつになく穏やかで、教師の一言一句に食い下がるはえなわ漁の魚群のように。
対抗戦の話は一時お預けになったが、まりんの頭脳はフル回転で緑川の所属する部の出し物を考えつつ、発達障害の勉強もしてテスト勉強もこなしていた。といっても三つ同時にこなすことはいくらなんでも命とりだと思ったので、ウェイトは減らしているが。寝てる時間も自動思考で進めて行くような状況だったので夢に参考書とかるたと歴史イベントが出てくる。
地味な暗記をこなし教科書に線を引き、要点を脳に叩き込む。あまり勉強が得意な方でもないまりんだったが、副委員長を任されているので、低い点数は許されなかった。中の上をキープする作戦をいつも遂行しているつもりだが、その本音は見透かされているのか勉強の神様が味方をしてくれない。
ここんところ家でも勉強机にしがみついている時間が長くなってきている。スマホのアラームで小休止を取り、肩の筋肉を開放する。軽い腕立て伏せとストレッチ、関節が子気味いい音を立てて鳴った。そんな光景を回想しつつ意識を目の前の教科書に戻してスタンバイ。肉汁たっぷりのハンバーガーをパクつくような充実感を感じる。吸収した知識が一時記憶から離れて長期記憶に貯蔵される絵を描いていた。
「どうだい調子は」くぐもった声で溝手が訊いてきた。珍しいこともあるもんだとまりんは思った。
「ちょっとこの辺がわからないんだけど」緑川でないのが残念だったが、それでもクラスで首位を狙う頭脳がいるのだから利用しない手はなかった。
「あーそれはね。覚えればいいじゃん」
「え? 今なんていったの」
「全部覚えて応用していけばいいよ」
「ちょっと待ってよ二ページまるまるあるんだけど」
「え、覚えられないの? 僕、読んだだけで頭に入るぜ」
まりんは、溝手の特殊能力を垣間見た気がした。そうだった彼は全くの素人なのに数日で百人一首を丸暗記したのだった。暗記のテクニックがあれば教えてもらいたいぐらいだった。
「あれ、眼をカメラみたいにして全部写し取るのってできない?」
「それ、どういう超能力さ」
「みんなできると思っていたんだけどなあ」
いちいち溝手のいう事は癪に障るが、ここは丸く収めておくことにした。もしかしたら彼が競技かるた部で必要以上に浮いてしまったのも、このエリート意識によるものかもしれない。
まりんは教科書をたたんで、頭を空にした。溝手は拍子抜けをした顔をして自分の席に戻っていった。ご丁寧にもマジックが失敗したような西洋人風の身振りを加えて。
こうして、彼らは自分の学力を積み上げつつ、夏休み前の脅威に翻弄されていた。出題範囲が分かっているだけで、学力テストよりはマシなはずなのだが。逆に逃げられない縛りが発生していたので逃避は許されなかった。
*
試験が終わり、永遠に続く休憩時間を目の当たりにしたような安ど感に教室が包まれる。二組の天使が金色の羽根を動かしながら互いにラッパを吹き鳴らすような、精巧なミニチュアが心を癒し生徒たちをなだめる。そう私たちは解放されたのだ。心なしか担任の表情が穏やかにも見えた。
学び舎が元の雑多な輝きを取り戻し始めたように感じられ、まとう空気も伸びやかなすがすがしさに彩られ、息をひそめていた魚たちも潮流を気にせず自由に胸びれを動かして泳ぎ始めた。机から放たれた生徒たちは思い思いの場所で過ごす。
「まりんは、競技かるた部の合宿行くよね」みのりが恒例のように誘ってきた。読み手として去年は参加しているが、今年は緑川の出し物のプランニングで忙しいと断ろうとした。
「ああ、それね。対抗戦の関係で……」とまりんが言いかけると、朱理の声が狙いすましたダーツのように遮った。
「三年生のお姉さま方が、力を入れて案を練るから大丈夫よ」
「えっ。三年生って受験じゃないの」
「頭のいい頭脳集団が、本腰を入れて考案するってさ」
歴史研のスタッフに三年生の頭脳集団がいて、出し物を取り仕切っていたという噂は、最近耳にした。まりんは、もう三年生だから引退だろうと読んでいたのだが、彼女らは部活に協力しても余裕があるという。
「ということは、歴史研のフォローはできないってこと?」
「たぶん。そういうことになるわね」
「でも受験勉強大事じゃない。落ちたらどうするの?」
「お姉さま方は落ちても平気って考えているかもね」
まりんは、意気込んでいた心が井戸の底に落とされたような気分だった。水のない井戸に空の桶がひびくような音が聞こえた。しかしすぐに気持ちを切り替えようとした。
「早く案を考えて、中心にならなきゃ」
しかし残念なことに、まりんの思惑とは裏腹に競技かるた部に参加することで話は進んでいた。まりんは、三年生のお姉さま方にダメもとで直談判をしようと考えていた。
高校生のかるた大会は夏に開かれるが、念努高校の競技かるた部は地区予選で敗退していたので、その分、対抗戦に力を入れることができた。しかし、まりんはどうしても歴史研の方に力を貸したかった。




