涙をからして再スタート
まりんの中で今回の恋の立ち位置がなんとなくつかめてきて、生木の傷の上に固い皮が傷口をふさぐかのように、やがて心の痛みが癒えていく。一か月間をなんとかやり過ごして、緑川への思いを断ち切ろうとしていた。
二人の関係は、前よりも他人行儀になり、お互いの会話は、必要最低限なものだけが残されている。表情は平たんなまま日々の業務をこなすだけの関係。普通の委員長と副委員長。同じ課に配属されたただの顔見知りていどの関係性まで落ちていく。
緑川は、何か言いたそうな振りを見せていたが、こちらもそれを受け入れるだけの準備ができていないので、なんとはなしに避けるようになってしまった。
時々まりんの本音が心に囁く「奪っちゃいなよ希沙から」それを蓋のある容器に押し込むような形で心の中から消し去る。苦労して日常に戻す。
いつもの様に、委員会で決まった事項をまとめてレジュメを作成してると、緑川の方からふいに話しかけてきた。
「あの時の、女の子さ、押しかけなんだよね」
「えっ」
「過激な所みせてごめん。俺さ、身動き取れないし、なすがままにされるしか……」
「そうなの……」
一応、状況は分かったけど、あんなシーンを見せつけられて、関係はないと言われても信じることができなかった。歴史研究会では凛としている緑川が、ファン一人あしらえなくてどうするんだと憤りを感じてしまった。
自分の中で水晶のように結実していた緑川の像が脆くも崩れ、それはまりんが恋に恋をしていたことを知らしめる証明になってしまった。もしかすると彼の中身は優柔不断な男なのかもしれない。そう決めつけることで、自分の中に存在している緑川を薄皮をはぐように少しずつ消していこうと努力しているのだった。
失恋の痛手から、徐々に自分を取り戻しつつあったまりんは、みのりから意外なニュースを聞いた。
「あの溝手君が百人一首を全部一日で覚えたって」
「頭良さそうだもんね。口は悪いけどさ」
「うちの部に来ないかな。いい戦力になると思う」
「私、説得してみようか」
「うん。お願いする。私も頼んでみたけど、なかなか、うんと言ってくれなくて」
まりんは、休み時間だというのに雑談にも参加せず、教科書を読みながら、要点をまとめている溝手を眺めてみた。別に予習を忘れたというのではなく、最終チェックのつもりなのだろう。
「ご熱心ね。調子はどう」
「あ、副委員長、おはようございます」
「ちょっと頼みがあるんだけど、競技かるたに興味ない」
「またその話ですか。お断りします」
溝手は不機嫌そうな声を出すと、教科書を綴じて席を立ち足早に廊下に出ていく。
「どうしたの、溝手君。記憶力が凄くいいっていうじゃない」
「確かに暗記は得意だが。大会には出たくない」
「覚えていたなら、決まり手の判別も楽じゃない」
「暗記だけじゃ勝てないだろう。わかるんだ」
溝手は男子トイレに逃げ込み、その日の説得は終わったかに見えた。
「帰宅部なんだし、少しは協力してくれたっていいじゃない」
と叫んだとたん。まりんは男子トイレの中にいた。また、生霊が飛んでしまった。運よく溝手は用を足した後だったので、変な物は見なくて済んだ。
「わかったよ。出てやるけど期待するなよ。それから生霊飛んでるよ」
「どうもありがとう。活躍期待してるよ」
「あんまり期待しないでくれ。自信がないんだ」
まりんは説得が済んで、すこしほころんだ気分になったが、溝手の自信のなさに隠されたものに、まだ気づけるまりんではなかった。しつこい謙遜ぐらいに考えていた。
「溝手君、承諾してくれた」
「ありがとう。さすが副委員長ね」
「でも、彼自信なさそうだった」
「私も、それ感じた。なんでだろうね」
「男子に訊いてみるか」
まりんの心当たりのある男子といえば、委員長の緑川ぐらいで、あとは隣の席の臼杵しか思いつかなかった。とりあえず臼杵に、溝手の評判を訪ねてみた。
「ああ、あいつ。運動が苦手でさ。体育の時間は変な動きばかりしていたな」
「反射神経とかどうだった?」
「ないんじゃないかなって思う位鈍かった」
「それか」
さっそくまりんは、みのりに状況を説明してみる。反射神経は勝敗にどのくらい影響するか。
「そりゃ、強い方が有利だけど。決まり手の判別も重要だし、早とちりしてお手つきしてもダメなのね」
「もしかして、発達障害を気にしてるのかな」
「だけど、頭はいいんでしょう」
「そういえば私、発達障害についてあまり良く知らない」
「『空気が読めない』障害だって聞いたことはあるけど」
溝手の自信のなさが、発達障害にあるとしたら、そこを埋めていくしかないと思った。とりあえず部活内の練習試合で、能力を見極めることだと、みのりは主張した。




