六話 匿名
レイ視点です。
かちゃ、という音がして開いたドアから夕日が差し込む。紙袋をいくつか抱えたソウとリョウ君が姿を現した。
「ただいま」
「ただい、ま」
「ん、お帰り」
二人が出かけてからしばらく布団に潜ったままでいたが、きっとそろそろ帰ってくるだろうと思って一階に降り、椅子に座ってぼーっとしていたのだ。
私は強くいなければならない。うずくまって布団を被っていてはいけないのだ。それは彼らの知る『レイ』ではない。
「結構買ってきたねえ。重かったでしょ」
「いや、そんなでも……なかったです」
「まあ服はかさばるしね。リョウ君の部屋どこ?置いてくるよ」
階段上って左、と教える。ソウは持ってきた袋のうち二つだけ持って軽やかに階段を上っていった。
私は手持ち無沙汰にしているリョウ君に声をかける。
「どうだった?街」
「ああ、えっと、人間……の街と、あんまり、変わり……ませんね」
「そうね」
「あ、あと、マスター、さん?に会い、ました」
マスターって誰だろう、と思うと降りてきたソウが教えてくれる。
「あの、レストランの人。誰だっけ、あの人」
「ああ、リイ?」
「そうそう、それ。リイさん」
リイというのは街で結構人気のあるレストランの店主だ。だからソウは彼女のことをマスターと呼ぶ。
十五歳にして店主。死んでからは五年。それだけの実力があるという事だろう。彼女はすごい。
「人の名前くらい覚えなさいよ」
「まあまあ。それよりさ。レイは、本当にリョウのこと覚えてないの」
「それリョウにも聞かれたんだけど、覚えて」
ない、と言うのを遮って唐突にソウが言う。
「じゃ、俺そろそろ帰るわ!」
「え?ああ」
「あの、今日……、ありがとう、ございました。いろいろ、買って……いただいた、り」
「いーのいーの。んじゃね!」
ドアを開けてやはり軽やかに出ていく。きっと白い翼ですぐに遠くへ飛んでいけるのだろう。今日はせっかくの休みで、ソウは社交的だからまた街へ遊びに行ったりもするのかもしれない。
「なんか、ソウさんって……最初と、最後が……にぎやかな、人、ですね……」
「ん?」
「あ、えっと……なんか、ただただ……にぎやかな、人かなって、思って、たら……」
リョウはそこで言葉を区切り、襟をいじる。きっとリョウの癖なのだろう。
「たら?」
「えっと、えっと……いろいろ、考えてる人、なんだなあって。周りをよく、見てる……のかなって」
確かにソウはそういうところがあるかもしれない。いろいろ考えてるかどうかは怪しいところだが。
会って間もないリョウがそれに気付けたのは意外だった。
「まあ、ね。あいつリョウになにか言ったの?」
「あ、いえ」
リョウはぶんぶんと首を振る。なにかあったな、これは。言わないのなら無理に追求はしないけど。
「そういえばリョウ、リイと会ったんだよね?」
「あ、はい」
「また出かけたとき、なんか困ったらリイのとこに行けばいいよ。ソウよりよっぽどちゃんとしてるし」
「……はい。あの、二つ……聞いてもいい、ですか」
いいわよ、とカーテンを閉めに行きながら答える。もう夕方だし。
「リイさんって、何者……なんですか……?翼、が、生えてませんでした……けど」
「ああ。リイはね、何者でもないのよ」
「何者でも、ない……?」
リョウは首を傾げた。
私は再び椅子に座ってから口を開く。
「そう。ソウから聞いてない?どういう人が天使や悪魔になるか」
「あ、それは、聞きました」
なのにそれ以外の存在については触れなかったのか。ソウらしい手の抜き方だ。
リョウの手がテーブルの上を、キーボードを叩くようになぞる。いや、キーボードじゃなくてピアノか。
「天使と悪魔の他に、もう一つ種類があって。unknownとか、anonymousって呼ばれてる。anonymousって呼ばれることのほうが一般的かな。まあとにかく、リイはそれなのよ」
「……あのにます」
「そう。意味は知ってるわよね?」
「え……匿名の、みたいな……感じです、よね」
言葉に合わせて指の動きが止まる。
私は正解、と頷いた。リョウは学生っぽいし、このぐらい知ってるか。そういえば私、リョウの年齢知らない気がする。
「ねえ、リョウ何歳? 前にも訊いたっけ?」
「え? あ、いや、訊かれて……ない、です。十六です」
「十六……え、じゃあ高校生? ごめん、てっきり中学生かと」
「……それ、リイさん、達にも……言われ、ました」
気のせいかもしれないが、いささか声がむくれたような。でもリョウを見て高校生とわかる人はそんなに多くないだろう。
ごめんごめん、とまた謝ってから話を戻す。
「で、その匿名のリイは、さっきも言った通り何者でもないの。匿名のリイ、っていうとなんか変な感じだけど。何者でもないっていうか、何者かわからないっていうか」
「わか、らないって……そんなことが……?」
「ええ。リイは自分のことを話さないだけで、もしかしたら本人は知ってるのかもしれないけどね。少なくとも天使でも悪魔でもない者、として知られてるわ。どうしてそういう人が出るのかは知られていない。
ほら、天使とか悪魔は、地獄にも天国にも行けなかった人じゃない? だけどanonymousは、その辺も全く知られていない。どういう人がなったのかわからない」
リョウはわかったようなわからないような顔で頷く。
「その、anonymous……って。リイさん、以外にも、いるん……ですか?」
「いるけど、私は一人しか知らない。多分その人とリイ以外はいないはず」
誰ですか? とリョウが訊く。
昨日の初仕事もちゃんとできてたし、こっちの世界のことも知ろうとしてるし、予定より早く悪魔になってもらってもいいかも、と思いつつ返事をする。
「『おじいさん』よ」
「『おじいさん』って、古参の……悪魔、ですか?」
「古参の悪魔? いいえ、違う。──ああでも、そう言っていたわね。自分は古参だから、羽がないんだって。昔はみんな羽がなかった──そういうことにしといてくれって、言われた。
あの人がanonymousだって知ってるの私くらいかもしれない」
リョウに『おじいさん』が古参の悪魔だと言ったのはおそらくソウだろう。ソウは彼がanonymousだということを知らない。
「『おじいさん』は、今」
「消えたわよ」
リョウを遮っていう。あの人は、消えた。
「私が悪魔になって、割とすぐ」
おじいさんは私に、悪魔として知っていなくちゃいけないことや、ここでの常識──anonymousのこととか──を私に教えて、最後に自分はanonymousだということを明かしてこの小屋を去った。
私がまだ街へ行っていた頃もそれ以降会ったことはないし、街へ行かなくなってからは会えるかもしれないと思うこともなくなった。
私が呪われた悪魔だと言って、呪いのことを教えて、そして去った。
「そう、ですか」
「そ。で、もう一つは? なんか、二つ聞きたいことがあるって言ってなかったっけ」
「あ、はい……えっと、リイさんのことを、レイさんが紹介……すると、したら、anonymous──それだけ、ですか」
言いたいことがよくわからない。
「つまり、他に何か違う言葉でリイのことをいえばいいの?」
「まあ……そうです、ね」
「そりゃ、レストランの店主とか、私のことを嫌ってないとか。まあいろいろあるよね」
彼女が数少ないanonymousなのに街に溶け込めているのは、その料理の腕と人懐っこさからくるものだと私は思っているから、そういうことも言うかもしれない。
「……他、には? もっと大事なこと、ない……ですか?」
「いや、どういうこと?」
「リイ、さんのことを──覚えて、ない、ですか?」
リイさんのことを覚えていないですか。リイさんのことを覚えていないですか。リイさんのことを覚えていないですか。
言葉がぐるぐると頭を回る。
覚えてないですか、って、つまり、
「私が生きてたころの知り合いじゃないかってこと?」
「はい」
「知り合いじゃないと思うけど」
「そう、ですか……。僕、のことも、覚えて……ない、んですよね……?」
リョウはもうほとんど泣きそうだ。だけど覚えてないものは覚えてない。だから正直に答える。
「ええ。覚えてないわ」
anonymousってカタカナ表記の方がいいのかな……?