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その剣、鬼を断つ

作者: ハクトウワシのモモちゃん



 近江国(おうみのくに)朽木庄(くつきのしょう)


 少年は野山を走る。

 鬱蒼とした木々が生い茂る中、少年は慣れた足取りで器用に草木を掻き分けて獣道を突き進んでいく。

 歳は十歳前後だ。きちんと髷を結わえ、青い小袖を着ていて脇差も差している。背は低いが、がっしりとした体格。目鼻もくっきりしていてなかなかに凛々しい。どこかの御曹司であろう風貌の少年は土に汚れることも気にせず、元気いっぱいに森の中を駆けて行く。

 前方が明るくなる。森が(ひら)けていて、暖かな日が差し込んでいるのだ。それに向かって少年はますます駆け足になる。

 そして、鬱蒼とした樹木は消え去り、視界は嘘のように開かれた。

 急な光源に少年は目を細めた。

 そこは、緑に輝く草原が広がっていた。

 少年は額に手をかざしながら今度はゆっくりと歩みを進める。

 空は青く透き通り、地上は緑色に輝いている。

 柔らかく吹く風は少年の前髪を揺らし、草木が香る新鮮な空気を運んできた。


 この丘の草原からは朽木谷(くつきだに)が一望できる。街道沿いには宿屋や酒屋など大小それぞれたくさんの家屋が立ち並び、街道から少し離れたところには大きな屋形がある。この地域一帯を治める武家の居館だ。その側には川が流れていて、下っていくと、青く瑞々しい水平線が広がっている。

 今日も、琵琶湖は美しかった。


 少年は笑った。

 少年の名は、菊童丸(きくどうまる)と言った。


 この場所は菊童丸のお気に入りの場所であった。親も配下も、誰も知らない場所。毎回配下から身を隠すのは骨を折るが、その苦労は賑やかな朽木谷と美しい琵琶湖の眺望で釣りがきた。ここはすごく落ち着くのだ。

 菊童丸はほっと息をき、左手に持った打刀を抜き放った。

 波打つ刃文が陽光にきらきらと美しく輝きを放つ。二尺ほどのそれを、菊童丸は正眼に構えた。

 時は乱世。日ノ本のあちこちで戦が起こり、土地や物、人を奪い合い、争いを繰り返していた。

 菊童丸も武家の男子だ。武士たる者、武芸の鍛錬は欠かせない。日々精進し修練を積む。いつ何時刃を向けられ、命の危険にさらされるかわからないからだ。故にこのような場所で、菊童丸のような少年がたったひとりでいるのは些か問題があるのだが、菊童丸は意にも介さなかった。

 己は強くならねばならない。

 いずれは、天下を背負っていく身なのだから。

 今はただ強くなるのみ。

 それだけを考え、菊童丸は剣を振った。

 さわり、と草木が鳴いた。

 菊童丸は何かを感じ取り、素振りをやめる。

 周囲に目を移すが、人影はひとつも見当たらなかった。狐や狸が通ったのだろうか。

 菊童丸は打刀を構えつつゆっくりと茂みへと向かった。これも鍛錬だと思った。神経を研ぎ澄まさせ、気配を探す。相手が獣であろうがなかろうが、戦に出ればこういった直感も役に立つはずだ。

 菊童丸は音を立てず摺り足でじわりじわりと近づいたその時。

 茂みの中から、ばさばさと音を立てて何かが落ちる音が聞こえた。

 大きな音にこれには菊童丸もびっくりして肩を震わせる。


「……いたた」


 声が聞こえた。

 打刀を握る手に力が籠もる。明らかに人間だ。まさか配下の者たちに場所がばれてしまったのか。いや、それならばとっくの昔に声を掛けられて捕まっているはずだ。その上、今の音は落下するものだった。声の主は、上から降って来たのだ。

 菊童丸は思わず、森を見上げた。


「……天狗?」


 呟くと、茂みが揺れて影が大きくなる。ついに正体が露わになるだろう。菊童丸はこくりと唾を飲み込み、打刀を構え直した。


「うう、ちょっと無茶し過ぎた……」


 現れたのは頭巾を被った山伏であった。首や腰に手を当てて苦悶の声を上げている。


「……」


 あまりに拍子が抜けて、菊童丸は一拍遅れて声を張り上げた。


「お、おぬし何者じゃ! 天狗か!!」

「はいっ?」


 頭巾から覗く漆黒の瞳が見開かれた。よく見ると色白で端正な顔立ちをしていた。菊童丸はますます眉をひそめた。彼は打刀を構えたまま、もう一度力強く問うた。


「名はなんと申す。答えよ」

「え、えっと……。天狗ではございませんよ? わたくしはこの通り、ただの山伏にございまする」

(われ)は名乗れと申した。名はなんとす」

「……」


 この丘は菊童丸以外誰も知らない。配下の者なら顔を見ればわかるはずだ。その上、あの綺麗な見目は明らかに修行僧のそれではないことは断言できた。

 睨みつけていると、山伏は観念したかように地面へ膝をついて頭を下げた。


「は。では恐れながら。わたくしは十文字(じゅうもんじ)(かえで)と申します」

「かえで……雅な名じゃ」


 偽山伏は楓と言った。菊童丸は打刀を引き下げ、呟いた。 


「して、かえでとやら。おぬしは修験者ではないな? かようなところで何をしておったのじゃ」

「あなた様のようなお方にお話するような価値のないことでございます。下らぬことです。わたくしのことなどお気にならず」


 言葉遣いが変わる。菊童丸の恰好を見て高貴な家柄と判断したのだろう。楓は淡々と地面に言葉をいて畏まった。

 菊童丸は気にいらなかった。


「くどい」

「はっ?」


 楓が大事を抱えているのは明白である。綺麗な顔をした者が山伏の格好までして、このような山の中を放浪しているのは、よほどの事件があるに違いないのだ。

 菊童丸は座す楓へ言い放った。


「我はいずれ日ノ本を統べる武士となる。おぬしの言う下らぬことすら解決できず何が日ノ本の武家の棟梁か。臣下の声は無論のこと、民草の声を聞いてこそ、真の武士であろう!」


 楓は驚きを隠せない様子であった。言葉を失くしたかのようにこちらを凝視して、固まっている。そして菊童丸は澄んだ漆黒の瞳に見つめられてたじろいだ。


「なるほど」


 やがて楓は噛み締めるように呟いた。


「ここは朽木庄だったね。噂はまことか」

「……!」


 しまった、と菊童丸は悟った。

 実は言うと、菊童丸と彼の父は京から追われて、ここ朽木庄に身を隠していた。菊童丸を追う者たちはその身柄が喉から出るほど欲しい存在だった。もし、楓が追手ならば不味いことをした。途端に菊童丸は恐ろしくなって、震えが止まらなくなった。


「そう焦らずとも、わたくしの目的は違いますよ。何かを探しているところは同じですけれど」


 と、楓は肩をすくめた。

 菊童丸の素性を知りえれば、何か行動に移そうものだが、楓は別段気にする様子も無い。素っ気ない答えに菊童丸はきょとんとして固まった。


「我に用は無いのか?」

「え? あぁはい、別段。むしろわたくしは関わりたくありませんよ。天下の行く末などに興味はありません」


 そして楓は、よっと声を上げて立ち上がった。そのとき頭巾が零れた。

 ふわっと長い黒髪が舞った。

 切れ長な目元は涼やかで、つんと立った鼻筋、ぷっくりとして艶めいた桃色の唇……。このときようやく、菊童丸は十文字楓の全身を見定め、目を剥いた。


「おっ、おおおぬしっ、女性(にょしょう)であったのかっ!?」

「はい。あっ、お気づきでなかったですか?」


 楓はずいっと身を寄せてきた。なんだか彼女からふわりと良い香りがした。菊童丸は顔を真っ赤にして一歩引き下がった。


「あらあら……」


 すると楓はぱちぱちと目を瞬いて、にんまりと笑った。


「我を侮辱するか!」

「これは、失礼致しました。いやぁ、あまりに可愛いもので……」

「かっ……」


 やはり侮辱しているではないか。

 絶句する菊童丸だが楓はお構いなしに、地面に落ちた頭巾や錫杖を拾っていた。山伏の恰好でわからなかったが楓の体付きはまさしく女性で間違いなかった。菊童丸よりも背が高く、年上に見える。ひとつひとつの仕草がしなやかでたおやかで、横顔も綺麗だった。

 釈然としないものの、菊童丸は腰の鞘を引き抜き、右手にあった打刀を収めた。


「そんなことよりですね」


 楓は籠を背負いながら、


「わたくしはお役目を承っておりますので、御曹司様とはお別れです」

「お役目? なんだそれは」

「あー、それはあなた様であろうとお教えはできません」

「我にすら言えぬこと?」


 菊童丸は再び眉間にしわを寄せた。それに気づいた楓は慌てた様子で付け加えた。


「わたくしは、あなた様やあなた様の大切な方々に危害を加えることは致しませぬ。これは……まぁ、信じていただくしかないと言いますか……」


 つまり根拠は無いということだ。朽木の者でもなく、もしかしたら京からの追手、敵方が手配した草の者かもしれない。しかし楓が嘘をいているように見えなくて、菊童丸は彼女を信じることにした。


「うむ。我は何も見なかった、それでよいな」

「恐れ入ります御曹司様。ご理解いただけて嬉しく思います」


 楓は花が(ほころ)びるように微笑んだ。どきりと胸が高鳴る。また頬に熱を持ち始めて菊童丸はそっと視線を外した。

 そんなことに楓は気がつかず、彼女の目は違う方向を見ていた。視線の先には朽木谷が広がっていた。


「町へ行くのか?」

「はい。方角は合っていると思うので、ここでも聞き込みをします」


 駄目ならもっと北へ、と彼女は答えた。

 そう言えばさきほど、楓は探していると言っていた。探し物は物だろうか人だろうか。菊童丸のような身分の者にも明かせない代物とはいったいなんだと言うのだろうか。

 好奇心が掻き立てられると同時に、菊童丸は十文字楓の綺麗な横顔を見つめた。

 菊童丸は、ぐっと左手の打刀を握り締めて声を上げた。


「かえでよ」

「なんでしょうか」

(われ)が朽木谷を案内(あない)してやろうっ」

「はいっ?」


 楓は弾かれたように振り返り、切れ長の目をまん丸にした。


「そなたが内密に動いているならば骨が要ろう。ゆえに案内役が要るのではないかと思うたのじゃ。我なら朽木の隅から隅まで知っておる。頼ってくれて構わぬぞ」

「……お、お待ちください御曹司」

如何(いかが)したのだ?」


 胸を張って申し出たが、楓は菊童丸に掌を向けて制する。首を傾げれば彼女は眉尻を下げながら、菊童丸を見下ろして続けた。


「あなた様は、ご自分の立場が理解されていますか。あなた様はいずれ日ノ本の大黒柱となるのですよ? そのようなお方がわたくしなどに力を貸すなど以ての外です」

「む……。確かに、我が身は大事である」

「だったら、」

「が、我は申したぞ。そなたが何であれ、この日ノ本の民であるのは変わらぬ。民を助け守るのが我のなすべきことなのだと思うのだ」


 楓の言うことは至極当然である。しかし菊童丸にも菊童丸なりの道理、日ノ本の大黒柱たりうる者へとならねばなるまい。楓を助けることも、強い武士へとなる鍛錬であろうに違いないのだ。

 楓は口を閉ざした。その澄んだ漆黒の瞳は逡巡を露わにしている。

 それでも菊童丸の意志は変わらなかった。楓を真っ直ぐと見つめる眼差しは力強く、曇ることを知らない。どんなことが起ころうとも、恐れることなく突き進もうとしているのだった。


「あなた様のようなお方をお役目に巻き込んだと上役に届けば、わたくしの首が飛ぶかもしれませんね」


 やがて、楓がため息をく。

 駄目か、と菊童丸も小さく肩を落とした。彼女の首を懸けてまでつきまとうことはできなかった。


「そうですね。土地勘もありませんし、優秀な案内役がいれば頼もしいことありません」

「え」


 驚きに顔を上げる。楓は笑っていた。


「あなた様のようなお方に案内役をさせるなど無礼極まりませんが、あなた様がよろしいと申していただけるのなら……」

「う、うむ! そなたの勤めを邪魔はしない! 約束する!!」

「はい。……では、参りましょう」

「かえで! こっちだ、早う参れ!!」


 菊童丸は輝かしい笑顔を浮かべて駆け出した。

 まだ齢十の男子である。

 小さくあどけない少年を、十文字楓はほほえましく思った。



 ◇◆ ◇◆ ◇◆ 



 近江国朽木庄は、若狭国(わかさのくに)小浜(おばま)から京まで鯖を運ぶ――いわゆる鯖街道の通り道であるため、宿場として町は活気に溢れていた。

 賑わいを見せる朽木谷を菊童丸は軽やかな足取りで往来を行く。


「どうじゃ。京のようにはいかぬが、朽木も面白いであろう」

「はぁ……」

「む、我の案内はつまらぬか?」

「そ、そんなことありませんよ?」


 後ろを振り仰げば、十文字楓はぼんやりとした様子で菊童丸の話を聞いていたのだった。彼女は慌てて首を横に振るも、菊童丸は訝しげに見つめている。そういう視線に弱いのか、はたまた、嘘を吐くのが苦手なのか、楓は小さく肩をすくめた。


「……恐れながら申し訳上げますが、あなた様がこのように出歩かれて良いのですか。朽木の方々は今えらく騒いでおいででしょう?」

「なんじゃ。そんなことを気にしておったのか、かえでは」

「大事だと思いますが」


 呆れた顔で言われるが菊童丸は気にしない。菊童丸は前を向いて答えた。


「寺に籠もってばかりは退屈じゃぞ」

「ですから、山を登りに?」

「うむ。我は強くならねばならぬからな」


 菊童丸は左手にあるぎゅっと打刀の鞘を握り締める。


「剣の師匠は筋が良いと褒めてくれる」

「師匠……」

「師匠は身も心も強いお方なのだ。今は京へ上がっておらぬが、日々の鍛錬を忘れては師匠に申し訳が立たぬ。師匠が帰ってきたらまた、強くなった我を見せねばな」

「……そうですね。お師匠様もお喜びになるでしょう」

「うむ! あっ。疲れたであろう、かえで。あそこのみたらしは美味いのだ」


 菊童丸は楓を茶屋へ連れて行こうと手を引く。楓が少し寂しそうな顔つきをしていたが、菊童丸は気がつかなかった。


 ***


 香ばしい香りが鼻孔をくすぐった。卓にある木皿には白い団子にとろりと甘辛いたれがかかっている。菊童丸おすすめのみたらしを、楓は団子を一つ口にして美味しそうに顔を綻ばした。その笑顔を見て菊童丸は、ほっとした。

 すると楓が言う。


「ひとつよいでしょうか、御曹司様」

「また小言か?」

「いえ、わたくしのお役目のことでお聞きしたことがございます」


 お役目の言葉を聞いて、菊童丸は団子を食べる手を止めた。せっかく案内役を引き受けたのだから、もう少し楓の力になりたいと菊童丸は思っていた。楓が自分を必要とくれたと思うと、菊童丸は嬉しくて目を輝かせて頷いた。


「我にできることがあるなら答えるぞっ」

「ありがとうございます。……では、ここ最近何か変わったことはありませんでしたか」

「変わったこと……とな」

「はい。あなた様はよく町を歩いてらっしゃるのでしょう? 朽木の家来衆や町人の方が何か言ってはいませんでした?」

「ふむ……」


 考える。

 が、あいにく食い歩きや剣の修行ばかりしていたため噂には鈍感であった。眉間にしわを寄せていると楓がにこやかに付け加えた。


「些細なことで構いません。流れ者が来た、野菜が盗まれた、人が神隠しにあった、誰かが亡くなった、なんでも構いませんよ?」


 最後のほうは些細なことではなかろう、と菊童丸は心の中でぼやきつつ、思い出した。


「……そう言えば、朽木の家来の馬が三頭ほど死んだと聞いたぞ」

「三頭? 病ですか?」

「いや食い殺された。野犬か何か襲われたとか言っていたような……」

「野犬……」


 楓はすっきりとした輪郭を描く顎に手を当てた。

 恐ろしい獣もいるものだと菊童丸は他人事に思う。野山に出かけるが、肉食で凶暴な獣は見たことがなかった。いつか相対する時、自分は剣ひとつで追い返せることができるだろうか。いや勝たねばなるまい、己の信念を曲げることは菊童丸にはできないのだから。

 物思いにふけっていると、黙っていた楓が口を開いた。


「遺骸はどのようなものでした?」

「そこまで知らぬ。死んだと聞いただけじゃ」

「では、確かめに参りましょうか」


 楓は決断した。残った団子をあっさりと食べてしまい、出立の準備を始める。菊童丸も慌てて団子を頬張る。


「そなたの勤めと関わりがあるのか?」

「手掛かりを掴めるかもしれません。行くだけ行ってみましょう、御曹司様」


 楓は、菊童丸に向けて柔らかく微笑んだ。



 ◇◆ ◇◆ ◇◆



「……貴様ら、我が主の屋敷の前で何をこそこそやっている」


 家来の屋敷へ向かえば、門番の男が菊童丸と楓を睨みつけてきた。当然だ。ふたりはどこからどうみても怪しい。楓は頭巾を被った山伏、菊童丸は身なりは良いが連れ添っている相手がおかしい。つまり、概ね楓が悪い。

 どうするのだ、と菊童丸は楓を見上げた。すると彼女には秘策があるらしく得意げに微笑み、門番へ近づいた。にこにこと笑顔を振りまいて、楓は門番の手に何かをぎゅっと握らせた。菊童丸は見逃さなかった。

 銭、つまり賄賂というやつだ。菊童丸は小さく眉間にしわを作ったが、楓はいたずらっぽく笑って人差し指を唇へ当てるだけだった。

 多くの小遣いをもらった門番は嬉々として、馬の世話役を呼んできた。


 ***


 門番と世話役の話を聞けば、日は傾き始めていた。

 橙色にきらきら輝く川を見ながら、菊童丸は楓と一緒に河川敷を歩いている。会話はない。楓は真剣な表情で考え事をしている様子だ。ちらりとその横顔を見て、菊童丸もさきほどの話を反芻した。

 世話役の話をまとめるとこうだった。

 馬の被害は三頭。死体は腹部を掻っ捌かれて肉を食われていたという。まるで大きな刃物でばっさりと割ったような傷だった。おかげで誰かが武器を持ち出して馬を殺したのではないかと、家来の屋敷はしばし騒然とした。しかし何の進展もなく、朽木の領主が代替わりしたばかりだったため、それどころではなくなって、この事件は話題に上がらなくなった。結局のところ獣の仕業と言うことに落ち着いてしまったというのだった。


「……」


 確かに改めて聞いてみると獣の仕業と一言で終わるような事件ではなかった。馬の腹部を斬り裂くような膂力を持つ獣は数えるくらいだろう。しかしそのような獣が屋敷の垣根を乗り越え、馬を虐殺することなど可能だろうか。


「…………むむむ」


 菊童丸にはまるっきりわからない。それに、楓の目的は結局わからないままだ。彼女はいったいどんな理由で朽木へ参ったのだろうか……。

 菊童丸は楓へ目を向ける。彼女の勤めを邪魔するつもりはないが、ここまで来てしまえばどうしても気になってしまう。


「かえで。聞いてよいか」

「なんでしょう」


 楓は前を向いたまま目も合わせてくれなかった。考え事に必死みたいだ。それでも菊童丸は続けた。


「先の話、そなたは勤めと関わりがあるのか?」

「どうでしょう。十日も前のことでしたから、あの屋敷からは陰気も感じられませんでしたが……」

「陰気? なんのことじゃ?」


 ぶつぶつと独り言のような答えに、菊童丸は首を捻った。そこでようやく楓はこちらを振り返り、訂正する。


「あ、こちらの話です。とはいえ、これ以上はあなた様を巻き込――」


 突然、楓の言葉が切れた。首を明後日の方へ向けて足も止めてしまう。菊童丸はたたらを踏んだ。


「……ど、どうした? かえで?」


 楓は答えてくれない。怖いくらい真剣な表情で、瞳孔を見開いて川の向こう岸を凝視していた。何かあるのか、と菊童丸も彼女の視線を追うが、川岸に生える雑草、山へと繋がる林道、往来を行く人々、何も変わらぬ景色に映った。


「…………見つけた」

「えっ?」


 ぼそりと呟かれるそれには確固たる強い意志があった。楓はすぐさま菊童丸へ顔を戻し、早口に告げた。


「御曹司様、ここまでお付き合いいただいてありがとうございました。わたくしはもう大丈夫です。朽木の城はすぐ近くでしたね。最後まで供はできませんが、どうかご無事に」


 いきなりまくし立てられて菊童丸は目を丸くした。


「さ、探し物を見つ……」

「はい。ですからわたくしになど構わなくてよいです。……あっ、十文字という名は内密にお願いしたく思います。朽木も公方様に近しい存在ゆえ……公言することをわたくしどもは快く思わないので」

「う、うむ」


 口を挟む余裕も無く菊童丸は頷くことしかできなかった。

 こくこくと首を縦に振れば、楓はふわりと微笑む。さきほどの真面目な顔つきが嘘のように消えてしまった。

 菊童丸は息を飲む。

 優しい声音が耳朶を打つ。


「――では。あなた様の息災を願います。必ずや、立派な武家の棟梁になられますよう」


 楓は身を翻した。


 ***


「…………」


 菊童丸は立ち尽くして彼女の背中を見送る。

 彼女は川に架かる橋を渡ってあっという間に雑踏へと消えていった。

 あまりに突然のことで頭が追いつかなかった。

 彼女は探し物を見つけた。だから菊童丸に用が無くなった。

 追いかけねば、と思うが足が動かない。

 慈愛に満ち溢れた微笑みが忘れられなかった。

『ついて来るな』

 ――あの美しい笑顔にはそんな意味も確かに含まれていた。


「っ……」


 菊童丸は震える小さな掌を見つめた。

 己はまだまだちっぽけな存在だ。できることなど限られているのだろう。

 今日出会ったばかりの、名しか知らぬ赤の他人などほうっておけばいい。天下を統べる武家の棟梁となる己が、こんなことに首を突っ込む道理は無い。

 されど、なればこそ。

 菊童丸は拳を握り込んだ。

 きゅっと唇を引き結び、力強く前を見据えた。

 助けたい。

 ただそれだけで、十分ではないのか。

 菊童丸は走る。焦燥感に駆られ、脚がもつれる。つんのめりながら菊童丸は橋を渡り、楓の消えて行った方角へ向かった。

 もう日も落ちてきている。

 天井を木々の葉に覆われた林道は、暗く陰湿な空気が流れていた。

 菊童丸は気合を入れるように、腰の打刀を握り締めた。


「……かえで! どこにおるのじゃ!!」


 叫び声は木霊して森の奥へ消えていく。当然ながらその声に返事は無かった。菊童丸は去林道を上る。しかし行けども行けども、人影のひとつもなかった。道を間違えたか、そもそも楓はこっちへ来ていないのではないか。段々とあたりが暗くなる一方で、菊童丸はますます焦って、急ぎ足となった。

 そのとき、ふと前方で何かが宙を浮いていた。

 赤く赤く燃える、火の玉だ。

 喉が詰まったような声が出た。腰が抜けなかったのは奇跡に等しかった。思わず腰の打刀へ手を掛ける。あり得ない光景に菊童丸は唖然として何度も目を擦ったが、映る光景は変わらない。菊童丸はがちがちと歯を鳴らした。


「ど、どうなっておる……っ」

「御曹司ですか!?」

「かえでっ?」


 その声音は間違いなく彼女の物だった。土の上を滑る音とともに闇から現れるのは十文字楓であった。

 彼女の顔を見て菊童丸の胸は熱くなった。


「なぜ……。なぜついて来たのですか!」


 檄が飛んだ。焦った表情をする楓に申し訳ないと思ったが、菊童丸は言い返す。


「かえでを助けたいのだ」

「平気と申しました」

「それでも、我はそなたを助けたい」

「はぁ……」


 強く見つめ返すと、楓は疲れたように重たいため息をいた。宙に浮く火の玉は、楓を守るようにふわふわと浮いている。生きているかの如く、楓のまわりを右へ左へうろうろとしていた。菊童丸が目を剥いたのも束の間、楓が冷たい表情で菊童丸を見下ろした。


「御曹司。あなたは、気負い過ぎです」


 口調が荒い。


「あなたには他にやるべきことがたくさんあるでしょう。わたくしなんかに構っては大事を取り逃します。民を見ることは大いに結構。ですが、それを背負い込むのは間違っています」

「わ、我は背負い込んでなどいない。我はそなたを助けたいと……」

「言葉はシュですよ。御曹司」

「……うん?」


 意味がわからなかった。楓はそっと腰を下ろして、菊童丸と目を合わせる。宙に浮かぶ赤い火の玉に映える、彼女の端正な顔が辛そうに歪んだ。


「言葉は時に人を縛り従えてしまう。それはいわば毒のように」

「……」

「願いや望みがあるのは結構です。ですけど、あなたはまだ小さい。どれだけ着飾ろうと、どれだけ品位があろうと、あなたはまだ、とおの男子なんです」


 彼女の濡れた瞳が菊童丸を見つめる。

 暖かい。

 確かに言葉は毒だ。

 母のような優しさを覚えてしまう。このまま甘えてしまいたいと、委ねてしまいたいと思ってしまう。


「ですからついて来られては……」

『――(あるし)よ、』


 そのときどこからともなく低い声は聞こえた。菊童丸と楓以外誰もいない。菊童丸は恐ろしくなってまたもや震えるが、楓は厳しい顔つきを変えずに声を荒らげた。


「……もう、わかってるっ!」


 空間へ吐き出されるそれは返答だろうか。立ち上がった楓は再び菊童丸へ目を戻した。


「今は時がありません。あなたがいることが不服ですが、わたくしから離れぬよう願います。背も向けてはなりません。わたくしの背だけを見ていてください。約束できますか?」

「うむ誓う」


 即答すれば楓は前へ向き直り、ため息をひとつ。


「普通の人間を、ましてや御曹司様を巻き込んだけど、どうなるかしら」

『――気にすることはない。何かあれば俺がすべて食らおう』

「冗談でもやめなさい」


 彼女は誰と話しているのだろう。

 疑問が膨らむが、これ以上彼女を困らせることは申し訳なかった。菊童丸は黙って楓の後ろをついていく。相変わらず火の玉は浮いている。なんだか監視されているような気味悪さを感じた。

 楓が錫杖を鳴らした。


「来る」

『――このようなところまで……陰陽師はよほど執念深いと見える』


 何が、と菊童丸は彼女の背中から覗けば、声が届いた。

 楓の側から聞こえる声ではなく、別のものだ。目を凝らすと闇に溶け込む人影があった。

 長身の男のようだ。落ち窪んだ目元、頬骨が角ばっていて顎は四角い。裾のほつれたぼろぼろの着物に、蓬髪を適当に紐で縛っていてなんともみすぼらしかった。


「京で会う以来ね。そろそろ観念してくれないかしら?」


 楓は錫杖を一回転させて構える。対する男はニタニタと気味の悪い笑みを浮かべていた。裂けたように大きな口だ。獣のように鋭い犬歯が見え隠れした。

 楓は一層、顔を険しくした。


『わしを殺すか? 陰陽師』

「当然。おまえは何人食い殺したか覚えているか?』

『はて、知らぬ』

「同僚も合わせて十四。おまえは確実に記録に残るわ」

『ニンゲンの肝は美味いからなぁ』

「下衆が」


 大男は、べろりと赤く長い舌で分厚い唇を舐めた。


「…………」


 一方、菊童丸は凍りついていた。

 指一本も動かせない。視線を外すことができない。眼前の男は異様な雰囲気を醸し出していた。ねっとりとまとわりつくような、心臓を直接わし掴みされたような悪寒が全身を走る。考えるまでもない。この大男は危険だと本能が警鐘を鳴らしていた。


『ふうむ?』


 大男が楓から菊童丸へ目を移す。


『餓鬼もおるか。偉そうな格好だな、さぞ良い物を食ってるのだろう? ……今宵の得物はそれにしよう』

「この子のことより、わたくしを殺してから考えたほうが懸命だと思うけれど?」


 大男の視線から庇うように楓の腕が菊童丸の視界を覆った。

 挑発的な言葉を投げる彼女に、大男はハッと鼻で笑った。


『陰陽師の肉は好かん。が、女の肉は柔く甘い。まぁ、いいだろう』


 不気味に唇の端を歪め、腰を落とし始めた。戦闘準備だ。固まる菊童丸を余所に楓は余裕げに微笑みを浮かべていた。


「御曹司様。少しお下がりを」


 いつもの微笑みとともに、楓は身を翻した。

 地を蹴って、一息ひといきに大男へ肉薄する。楓の持つ錫杖が勢いよく大男の側頭部へと振り落とされるが、大男は左腕一本で受け止めた。

 肉と錫杖が軋む音、楓の舌打ち、大男は破顔一笑した。大男は空く右手を強く握り込み、右半身を引いた。

 楓の反応は早かった。すぐさま錫杖を弾き、くるりと柄を回して拳を受け止めた。楓は軽やかな足運びで華麗に錫杖を捌き、錫杖の頭を大男へ再度突き出した。

 赤い血潮が宙に線を引いた。

 錫杖の穂先が大男の頬を斬り裂いたのだった。瞠目する大男はたたらを踏む。真っ赤になる左頬に触れて、ぎりっと奥歯を鳴らした。窪んだ眼は怒りに震えていた。

 楓は、とんと錫杖を地面に差して得意げに微笑んだ。


「今までのように甘くはないわ」

『貴様……』

「人の皮を被るのはもうやめたら? 似合わないわよ、それ」

『ニンゲン風情があァ!』


 大男は吼えた。

 大地が揺れる感覚を覚える。大男を中心に風が巻き起こり、空気が変わった。禍々しい気配が大男から漂い始めた。

 楓は錫杖を構え直して、口の端を上げた。


「そう。そうやって、言葉に溺れなさい」


 ***


 菊童丸は完全に腰が抜けていた。

 何が起きているのだ? 何度もそう問いかけるが、答えなど出るわけも無い。ただ、十文字楓が、得体の知れない人間と戦っている光景は夢ではないということ。いや、あれは本当に人間なのか。一挙手一投足が目で追えない。速いの一言に過ぎた。そして、その攻撃を受け流す楓も異常であるに違いなかった。武芸をたしなむ女性もいるだろうが、それでも彼女の技能は一級品であろう。もしかしたら武門の男児も敵わないかもしれない。

 菊童丸は戦闘の気迫に押されてすっかり気圧されてしまっていた。

 そのとき大男が咆哮を上げた。耳をつんざくそれは獣のような遠吠えだった。

 大男の風貌は徐々に変わりつつあった。

 瞳の色は爛々と輝きを増す。四つん這いになったかと思えば身体が隆起した。筋肉が膨れ上がり体重で地割れが起きる。爪も犬歯も牙のように尖った。

 菊童丸は茫然とそれを見上げた。


「な、なんじゃ……」


 牛だった。

 いや、それを牛と言っていいのだろうか。

 とてつもなく大きかった。

 筋肉で盛り上がった肉体、大木のように太い四肢の先には分厚い足と鋭い爪が生えている。両眼は黄金色に獰猛に輝き、大きな顎からは尖った歯が覗く。そして、前にせり出した面の額には二対の大きな角があった。禍々しいそれは、外側の一対はねじ曲がって内側の一対は真っ直ぐに天を貫くようにそびえ立っている。

 四つ足で立つ様は牛馬のようであるが、違う。

 それはまるで、書巻に出てくるような――。


「……牛鬼(うしおに)


 楓が呟いた。


「古来より人を脅かし、食い、世を乱す人非ざるモノ。言うならば鬼です」

「鬼……?」

「ええ。我々はそういうモノから、影より民を守るのがお役目」


 と、楓は菊童丸へ振り返った。

 恥じるように微笑んだ。


「だから秘密なんですよ。御曹司」


 あまりに場違いな笑顔だった。可憐であった。それだけで菊童丸の恐怖心は掻き消された。

 菊童丸は唇を噛んだ。

 なんと情けないことだろうか。

 啖呵を切って彼女と同行をしたのになんという体たらく。愚かで恥ずかしい。こんな男が、日ノ本を統べる武家の棟梁になりうる資格があるのだろうか。ましてや女子おなごの笑みひとつで、英気を見出すなど……。

 菊童丸はぐっと打刀の柄を握り締めた。

 牛鬼が吼えた。


『余裕だな陰陽師。心気を壊すのも一興、最後まで壊れてくれるなよ』

「どうかしら。おまえは灰となってここで消える定めなのに」

『糞がッ』


 楓が不敵に笑えば、牛鬼は忌々しそうに吐き捨てて右前足を振り上げた。爪という凶器が楓へ襲いかかる。彼女はひらりと踊るように躱し、距離を取ろうと後退する。それを予測していたように、牛鬼は右前足を引いてもう一度繰り出した。手を広げるように、楓を握り潰そうと伸ばす。

 楓は気負うことなく錫杖で爪を受け止め、捌き切った。後ろ足で飛びながら、楓は袖から小さな紙片を三枚取り出し、前方へと投げ捨てた。ばら撒かれた紙切れは意思を持ったように牛鬼を包囲する。


『ちょこまかと……ぐう……!?』

「おまえは頭に血が上りやすいみたいだから。上手く捕まってくれてありがとう」


 楓はピッと腕を払うと牛鬼の動きが鈍くなった。その指には五芒星が描かれた紙片が握ってある。楓は微笑みを崩すことなく、冷徹に告げた。


「滅べ。あやかし」

『舐めるなニンゲン!!』


 牛鬼は黄金色の双眸を煌々と輝かせた。

 にわかに楓の表情が歪む。ぎりぎりと四肢を動かす牛鬼。息を飲む楓は再び紙片をばら撒くも、牛鬼はハッと一笑に伏した。

 薙ぎ払われる太い前足。

 突風が吹き荒れ砂塵が舞い、いつの間にか楓の身体は宙に浮いていた。

 地面に叩きつけられて無様に転がる。激しく咳き込みながらも楓は牛鬼を睨みつけ、怒鳴り散らした。


「力が……。おまえ、また人を食ったかっ!?」

『都を出て何日も経つのだ、食わねば身が持たぬわ。琵琶湖の水で傷つく身を癒すことも可能じゃ。故に、わしをこの姿にした貴様が間違いぞ!』

「獣のくせに生意気……ごほっ、ごほっ」

『言っておれ、陰陽師よ。貴様はその獣に食われるのだからな』

「……かえで!!」


 じわりじわりと彼女へ詰め寄る牛鬼の前に、菊童丸は打刀を携え立ち塞がった。赤い火の玉も菊童丸の側でゆらりと明かりを灯す。

 菊童丸を目に止め牛鬼が哄笑した。


『餓鬼よ! 顔が真っ青であるぞ。陰陽師の後で貴様を食ろうてやろうと思ったが、貴様がそう言うのであれば別だな』

「御曹司……だめ、です」


 か細い声が聞こえた。立ち上がろうとする彼女に菊童丸は叫ぶ。


「無理を通してそなたの側にいるのだ。我もそなたの助けになりたいのだ。何もせずいるなど男として恥じゃ!」

『ほう? 言うではないか……』


 牛鬼が黄金色の双眸を愉快げに弓なりに細めた。


『では、餓鬼よ。貴様はわしを打ち負かすか?』

「……」

『矮小な貴様が、わしを殺すか? フハハ、笑いしか出てこんぞ』


 大きな影が菊童丸を包み込む。人ならざる者の圧迫感は凄まじかった。常に刃物を首筋に押しつけられているような感覚に陥る。菊童丸は負けまいと打刀の切っ先を突きつける。


『強がるな。全身が震えているのがつぶさにわかる。なぜか……わしらあやかしというものは、そういうことに過敏であるからなぁ』

「何を言いたいのだ……」


 こちらを煽り立てているのか、牛鬼は口を動かすだけで一向に襲いかかってこなかった。

 牛鬼はニタニタと笑い、金眼を爛々と輝かせた。


『――そのような無様さで何ができる? 小胆な己を恥じるか? いいや、結構ではないか。臆病者は臆病者だ。変わらぬことであろう?』


 どくん、と菊童丸の心臓が撥ねた。


『――強がることは無い、貴様は弱いからだ』


 牛鬼の金眼から視線を外せなかった。何かが全身を絡みつくような不快感を覚える。泥に沈むように足が重くなる。手も足も動かせない。ただただ、牛鬼の金眼を見つめることしかできなかった。


『――故に、呑まれても気に留めることなどない』


 どす黒く濁った何かが胸の中でふつふつと沸き起こる。何かわからないものに身体が浸食されていくような錯覚を感じた。

 菊童丸は震えが止まらなかった。乾いた音を立てて打刀が地面に落ちる。頭が痛い。呼吸が荒くなる。胸が焼けるように熱い。

 金色の目は、輝きを増した。

 菊童丸は眼球が零れるくらいに目を見開いた。


『――貴様は、弱い。弱いなぁ』

「やっ、やめ……やめろ! やめろっ!!」

『ふん、餓鬼は餓鬼じゃな。死ねい』 


 叫び散らす菊童丸をつまらなそうに呟き、牛鬼は大きなあぎとを開いた。


「御曹司――!!」


 彼女の甲高い声とともに、菊童丸は横へと吹き飛んだ。

 柔らかな温もりが菊童丸を包み込む。

 心地良く思う。ついさっきまで感じていた、惑いや怒りがだんだんと薄れていく。汚れた衣服を真っ白に洗濯するような気持ちの良い感覚であった。

 頬に生暖かい水滴が落ちた。

 ようやく、菊童丸は思考を巡らせた。

 血だ。

 ハッとなって覚醒した。

 温もりの正体は楓であった。そして彼女の上着の二の腕部分がぱっくりと裂かれていて赤く染まっていた。

 辛そうに顔を歪めながらも、それでも楓は菊童丸へ微笑んだ。


「大丈夫ですよ。御曹司」


 楓は、もう一度菊童丸を抱きしめた。

 ふわりと彼女の髪が垂れる。良い香りがする。ぎゅっと息が苦しいくらい胸を押しつけられた。だが、この心が洗われるような気分は離れがたかった。

 楓は耳元で優しく囁く。


「大丈夫です。あなたはひとりではありませんから……大丈夫ですよ、御曹司。わたくしが側におります。大丈夫。落ち着いて……心を、安らかに」

「あ……、あぁ、うむ……っ」


 泣きそうになった。

 また、助けてられしまった。

 どうしてこうも、彼女は心を救ってくれるのだろうか。

 菊童丸は鼻をすすり、ぐっと彼女の着物を握り締める。


「すまぬ、すまぬ……」

「何を謝りますか。あなたは勇ましく立ち上がったのですから」

「かえで……」


 楓はいつものように微笑みを浮かべた。だが左腕は血で真っ赤に染まっている。菊童丸は改めてそれを確認して慌てたが、大きな地鳴りでそれどころではなかった。


『くっ、狐めが……!!』


 見やれば、牛鬼が地団駄を踏んで地面を揺らしていた。

 何を追いかけているのか目を移せば、ずっと側にいた火の玉だった。火の玉は牛鬼を右へ左へ翻弄していた。牛鬼がこちらに近づいてこないのは、あの火の玉のおかげみたいだった。そもそも、あの火の玉は一体何だと言うのだろうか。ぼんやりと考えていると、楓が立ち上がる。


「あーあ、後で馳走をせがまれるね……仕方ないか」


 楓はやれやれと言った風に息をく。動く右腕には剣が握られていた。それは刀身に一切の歪みが無い直刀と呼ばれる代物であった。珍しい刀剣を持った楓は、髪を掻き上げて菊童丸を振り返った。また微笑む。


「ご助勢願いますか? 手負いのわたくしひとりでは少し辛いので」


 思わず目を見張る。楓は表情を変えずに右手にある刀を差し出した。


「む……?」

「これは、あやかしを斬る刀。銘を、祢々切丸(ねねきりまる)

「祢々切丸……」

「お使いください。今のわたくしには手が余りますので」

「よいのか?」

「剣がお得意と申していたではないですか。わたくしに見せてくださいませんか?」


 小首を傾ける楓。可憐だと思ったのは言うまでもない。菊童丸はしどろもどろに頷きながら、直刀――祢々切丸を受け取った。その祢々切丸は刀身がほのかに青白く光って見えた。霊妙な力が備わっているのかもしれない。もはや何を見ても驚かない。眼前に牛だか鬼だかわからない巨大な生き物が暴れているのだから。

 菊童丸は柄の握り具合を確かめて、構えてみせた。それを見届けた楓は満足そうに右手の指に紙片を挟む。彼女が前を向く前に菊童丸は言った。


「かえで」

「なんでしょう」

「ありがとう」

「……」


 楓はこちらを見て固まった。と思ったのも束の間、すぐに前を向いてしまった。


「ど、どういたしまして……」

「……?」


 なんだか歯切れの悪い楓であるが、そんなことを気にしている暇は無い。牛鬼がこちらへ黄金色の双眸を向けた。表情はわからないが怒り一色だろう。牛鬼は怒鳴り散らす。


『陰陽師ィ! 侮りおって……今度こそ肉塊にしてやる!』

「その言葉、そのまま返すわ。今度こそおまえを消し炭にしてあげるわ」

『ぐ……、餓鬼も気を確かにしたか』


 忌々しそうに牙を軋ませる牛鬼。

 菊童丸は堂々と胸を張った。祢々切丸を正眼に構え、牛鬼を睨みつける。


「あやかしよ。我はもうおぬしの術には乗らぬぞ。正々堂々、己が武で勝負してみせよ」

『餓鬼がァッ!!』


 牛鬼が咆哮を上げ、突進してきた。

 菊童丸は静かに息を吸った。

 柄の感触を味わう。

 いつもと違う剣だが、やることは変わらない。

 剣を、纏う。

 師に教わった剣に、ニノ太刀は要らない。一刀にて、斬り伏せる。

 寸分違わず振るうだけ。

 迫る牛鬼。

 菊童丸はかっと目を見開き、牛鬼を捉えた。

 剣は煌めいた。

 血潮が噴き上がる。

 血溜まりに角が落ちた。

 牛鬼は、絶叫した。


「――――が、ぁぁああッ!!」


 菊童丸は荒い息をいて膝を屈した。刀を振り切れば、どっと汗が流れ落ちた。牛鬼を斬った。それはあまりにも実感の無いものだった。あれだけの巨体を斬って、手に持つ祢々切丸には血糊も刃毀れも一切なかった。菊童丸は青ざめた顔で、肩越しに振り返った。


『ぐ、おおおっ……。わ、わしが、ニンゲンなどに……!』


 角がへし折れ体液が噴き出してもなお、牛鬼は立ち上がろうと脚を引きずっている。

 まだやれるというか。残念だが菊童丸にそんな余裕はない。あの一刀は言葉通り、全身全霊であった。


「お見事です、御曹司」


 凛とした声が隣で聞こえた。

 地面が輝く。

 火の玉が踊る。

 牛鬼の足元を五芒星が浮かび上がる。橙色の煌々と輝く光に、牛鬼が悲鳴を上げた。


「さぁ、仕上げよ」


 右手の人差し指と中指を立てて、楓は冷たく言い放った。


「灰と化せ。塵残さず消えよ。……疾く、去ね」


 淡々と紡がれる言葉。彼女の漆黒の瞳に感情の色はなく、硝子玉のようだった。

 橙色の光の強さは増す。

 牛鬼は、光の中で体毛を燃やし、肉を焦がし、骨を炭とする。


『ガアアアア――ッ!!』


 菊童丸は地べたに座り込み、茫然と溶ける牛鬼を見つめる。汚い絶叫は菊童丸の鼓膜を打ち続けた。

 やがて牛鬼の絶叫も聞こえなくなる。

 橙色の光も消え去り、あたりは再び暗闇に包まれた。

 ややあって、ボッと火の玉が浮き上がった。菊童丸がびっくりして肩を震わすが、火の玉は遠慮も無しにふわふわと楽しそうに浮いている。


「御曹司」


 呼ばれて振り仰ぐ。楓はにこりと微笑みをたたえていた。菊童丸は心底安堵した。


「かえで……。終わったのか……」

「はい。あなたのご助力のおかげですよ」

「そんな……。我は何もしていない」


 すると、途端に眠気が襲ってきた。体が異様に重くなり、今にも瞼が落ちそうだ。

ふらつく菊童丸を見て、楓は柳眉をひそめた。


「緊張が解けたのでしょう」


 耳に落とされる声は甘い。菊童丸は眠気に耐えられず、楓へ寄りかかってしまった。

「あなたの歳では心気が辛かったでしょう。よく耐えました。……お休みになられてください」


 菊童丸は楓に抱かれゆっくりと目を閉じた。



 ◇◆ ◇◆ ◇◆



 菊童丸は野山を走る。

 朽木谷へ下って三月(みつき)もすれば、朽木の居城周辺の山は熟知してしまった。

 ある丘へ登ると、そこからは朽木の城下と琵琶湖が一望できる。

 菊童丸のお気に入りの場所であった。

 いつものように、大きく深呼吸をして左手にある打刀を抜き放った。

 正眼に構え、目を閉じる。

 三日前。

 いろいろなことを体験した。この世の出来事とは思えなかった。夢のように感じた。

だけど。

 土と汗の匂いも、剣を握る感触も、柔らかな抱擁も……。

 たとえ夢であろうと、菊童丸は生涯忘れることはない。

 ただ、心残りがひとつだけあった。

 鋭い剣閃は何度も空を薙いだ。

 さわり、と草木が鳴いた。

 それはいつぞやの感覚に似ていた。

 茂みから出てくるのは菊童丸が待ち望んでいた人だった。


「こんにちは。御曹司」

「かえでっ!」

「えっ、ちょっ……わぁっ!?」


 菊童丸は刀をほうり、勢いよく飛びついた。腰に抱きつかれた楓はびっくりしてそのままひっくり返ってしまう。すぐさま真下から恨みごとが上がった。


「い、いきなりなんですか……こっちは怪我人なんですけれど」

「愚か者めっ!」

「はいっ?」


 構わず菊童丸は楓にのしかかった状態で怒鳴った。色白の端正な顔が呆ける。長い睫が震え、漆黒の瞳が丸くなった。


「何も言わず出て行くなど、我が許すと思うたかっ!」

「は、はぁ……。ですから余人のいないところが良いかと……」

「うむ! 大義じゃ、許すぞ!!」

「あっ、だから抱きつかな……痛い痛いっ!」

「む。すまぬ……」


 そして改めて菊童丸は現状を顧みた。楓は涙目で左腕を摩っていた。転倒した際に着物の衿がはだけて、首筋や鎖骨が見え隠れしていて色っぽい。右腕で左手をかばっているせいか、胸元が強調されて、艶めかしい。

 菊童丸はこくりと喉を鳴らした。


「……どうなさいました?」

「な、ななななんでもないっ」


 慌てて身を引いた。楓はわからないと言った風に顔をしかめ、ゆっくりと上体を起こした。菊童丸は地べたに正座をしたまま、おずおずと訊ねた。


「痛むか?」

「いいえ。身は頑丈な方なので、すぐに治りますよ」


 楓は乱れた髪と着物を整え始めた。ひとつひとつの仕草に心を揺さぶられるように感じた。胸を絞めつけられる。菊童丸は、ふと口にした。


「また、会えるか」


 と、楓は手を止めてこちらへ目を移した。澄み切った漆黒の瞳は吸い込まれそうになるくらい美しかった。ひたと見つめられるも菊童丸は動じることなく見つめ返した。

 草原に風が吹く。

 そして、艶めいた唇から吐息が零れた。


「はっきりと確約はできませんけど、あなた様が京へ上ったならば、いつの日か……」

「必ず」


 菊童丸は即答した。


「必ず、成し遂げる」


 無邪気に、それでいて真剣な表情で宣言する。


「どのような苦難があろうと、我は日ノ本の武士の棟梁と成り得よう」


 その両目に曇りは無い。

 天下を掴むのは己だと間違いなく確信し、乱れる世を平らげようと野心に燃えていた。

 少年は王道を征こうとしていたのだ。

 すると、楓はふんわりと微笑んだ。


「では。わたくしはその時を楽しみにしております。心を強く、しかし気負いなく……あなた様の道を進んでください」


 空を仰ぐ。

 どこまでも広がる澄み切った青。

 世界は輝いて見えた。




 了


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― 新着の感想 ―
[良い点] 歴史上の人物である菊童丸の少年としての視点で、表に出ることのない怪異と戦う陰陽師楓の戦いを垣間見る。 その構図がとても面白かったです。 お話がコンパクトにまとまっている短編であるのに、史実…
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