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ピンチを救ったのは・・・

 室井は苦虫をつぶしたような顔をした。

「わかりました、じゃあ、伺います。

 えっ、山田もですか?わかりました」

 室井は携帯を切ると大きく溜め息を吐いた。

「誰ですか?」

「噂をすれば影だよ」


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 指定された店は、表の看板に“本格関西風”と書かれた、小さなお好み焼き屋だった。

「こっちやこっちや」

 カウンター席と、机の真中に鉄板が備え付けてある四人掛けのテーブル席の間を、おまえ達誰だ、と客の視線を浴びながら歩いていくと、声の主にたどり着いた。

「すまんな、無理言うて」

 ビールの入ったグラスを手に、峰社長は脂ぎった顔を二人に向けた。

「悪いけど先よばれてるで」

 鉄板の上には焼きそばが湯気を立てて盛られており、細かく刻んだ紅しょうがと黒いソースのコントラストが鮮やかだった。

 すぐに、店員がやってきて、グラスと皿と箸をテーブルの上に置いた。

「にいちゃん、ビール二本とお好み焼き二枚ほど焼いてきて、特急やで特急。

 あっ、それと、お好み焼きにケチャップとかマスタードかけたらあかんで」

 峰の大阪弁に弾き飛ばされるように店員は戻っていった。

「こっちの奴ら、お好み焼きにケチャップとかマスタードかけよるんや。それで“本格関西風”言うてんねん。ええ加減なもんやで」

 さっきの店員がビールを持ってきた。

「ほなとりあえず乾杯しましょか」

 峰社長は一男と室井のグラスにビールを注いだ。

「お二人の、未来ある将来に、乾杯っ」

 グラスを軽くぶつけ、一息でグラスを空にした峰社長は、一瞬、ちらっと二人を見て不適な笑みを浮かべた。

「すんまへんな、今や話題のお二人に、こんな店に来てもうて。それでも一応、この店唯一の個室なんですわ」

 確かに、通ってきたほかの席からは少し離れていて、後や隣の席の人と肩や背中が触れないように、跳ねたソースでてかてかになった形だけの仕切りがあった。

「いや、山田さんかて、こっちへ来てから、美味しいお好みなんか食べてへんと思て。こっちでは私もいろいろ行きましたけど、ここのお好みがまだ一番ましですわ。そら、大阪に比べたら負けますけどね。

 あ、そやそや、紹介遅れました、もう室井さんから聞いてはると思いますけど、ヨシモトの峰言います。一応社長やらせてもらってます」

 一男は、焼きそばの湯気の向うから名刺を受け取り、「私、山田と・・・」と席を立ちかけたとき、峰が手で制した。

「山田さんのことはよう存じています。

 この間の東京ドーム、私もあとで見させてもらいましたけど、さすが元三友商事の部長さんでんなあ。

 なんであんな大会社辞めはったんですか、もったいない。なんか理由でもあったんですか?」

 峰社長は厭みな笑いを一男に向けた。

「いただきます」

 室井が無表情で焼きそばを皿に盛った。

「なんや、室井ちゃん、おったんかいな」

 室井は、峰社長の顔を見ず「どうもご無沙汰しています」と言って、次々と麺を口の中に運んだ。

「室井ちゃんに聞きたいことは今日は一つだけや。

 みさき党の“みさき”は、あの岬さんから取ったんやな」

 お好み焼きが運ばれてきた。

 室井は焼きそばを食べていた箸を止めると、目の前のてこで、二枚のお好み焼きを一口サイズに切り分け、青海苔をかけると、最後に鰹節を満遍なく振りかけた。

「さっ、いただきましょ」

 室井はグラスに残っていたビールを飲み干すと、海の中の海草のように揺れている鰹節が乗ったお好み焼きに箸を伸ばした。

「相変わらずやな、室井ちゃん」

「山田さん、ここのお好み焼きうまいよ、食べてみて」

 室井は峰社長を無視して一男に言った。

「室井ちゃんな、そらあんたらが言うてるように、俺が見ても、確かにひどい番組はある。それは俺も認める。せやけどやな、いきなりテレビ無くす言うたって、これまでの歴史があるやないか。あんたはテレビのことを日本国民の敵のように言うけど、戦争で負けて、何にもない焼け野原の中で必死に這いつくばって生きる国民の憩いになったのはテレビやないか」

「それは俺もわかってますよ」

「わかってるんやったら、考え直してくれや。

 テレビで食ってる人間がどれだけおるか俺は詳しい数は知らんけど、千や二千ではすまんやろ。

 その人間がいっぺんに職を失って、家族が路頭に迷うんやで」

「これまで、安直に生きてきたツケが回ってきただけですよ」

 室井はさらりと言った。

「せやけどな、室井ちゃん、テレビ局もいつまでも黙ってへんぞ。

 労働組合が支持してる政党を通して圧力をかけてくるかもしれんし、その前に、自民党が黙ってへんやろ。明らかに接戦になるのは目に見えてるし、おそらく、自民党に振られた公明党含めて、何かしら近寄ってくるはずや」

「連立はしません。あくまで、単独での政権奪取を目指します」

 室井は店員に日本酒を頼んだ。

「室井ちゃんな、まだ、俺らみたいなんとな、ああでもないこうでもないってやってるうちはええんや。相手が政治家になったら、話は全く別もんになるぞ。

 問題を起こした議員の秘書とかがよう首吊りよるやろ。

 あれは、俺は前から思ってんねんけど、絶対にプロの殺し屋の仕業やぞ」

「じゃあ、岬もそうだって言うんですか?」

「いや、あれは違う」

「じゃあ、おたくが手を回したんですか?」

「あほんだらっ!!」

 店の客全員が、立ち上がった峰に顔を向けた。

「まあまあ、社長、落ち着いて、落ち着いて」

 営業部長の時の癖が出た一男は、峰社長をなだめ、座らせた。

「俺は、人の命にまで手掛けることはせえへんわい」

「まあまあ、社長、ビールでも飲んで落ち着いてくださいよ」

 一男の注いだビールを峰社長は一気に飲み干した。

「社長、なにも社長に嫌がらせをしようと思ってやっているんじゃないんですよ。

 社長のところにも、舞台じゃすごいおもしろい漫才や落語するのに、テレビに出ていないというだけで日の目を見ていない芸人さんていますよね。

 私が言いたいのはそれなんですよ。

 本当にいいものをいいと言える国に私はしたいんですよ。

 確かにテレビがなくなると、社長のところへの影響はすごいと思います。社長だって会社の長ですから、従業員の方の生活を守る義務もあると思います。

 だけど、人様に見せる芸なんか何もないくせに、芸能人だと言ってでかい面をして、普通のサラリーマンじゃとても稼げない額の金を稼いで、また、そんな輩を見てきゃーきゃーと歓声を上げている女子供がいる。

 そんな世の中から、何か新しいものが生まれますか? 後世に何か残せますか?

 社長、絶対にお茶の間の皆さんは劇場に足を運ぶはずです。そして、生の舞台を見て、きっと感動するはずです。

 何の芸もできない芸人は消えていくでしょう。

 芸能人もたぶん今の半分くらいになると思います。

 本物だけが残るんです。

 目の肥えたお客さんは、ますます生の舞台にはまっていきます。

 そうなれば、今より収容人員の大きな劇場を造ればいいんですよ。

 一万人、いや、五万人入る東京ドームみたいな劇場を造ればいいんですよ。それも日本全国に」

「もうええ。

 今日はおまえと話しに来たんとちゃうんや。 山田さん、あんたに用があるんや」

「わ、私にですか?」

 一男はごくりと喉を鳴らした。

「うちの事務所の若いもんにな、けったいやけど、週刊文衆の愛読者がおるんや。

 この間マラソン走ったジャンク言う奴のマネージャーなんやけど、そいつが家の中に溜まった週刊文衆を片づけとったんや。そしたらな、おもしろい記事見つけました言うて、俺にこの切り抜きくれたんや」

 峰社長は胸ポケットから二つに折った紙を取りだし、一男に差し出した。

“超有名商社 営業部長

  電車内で女子校生にわいせつ行為

   問われる従業員のモラル”

「山田さん、世の中には同姓同名って言うのが、結構おるもんなんですな」

 峰社長は、にやっ、と不敵な笑みを浮かべると、室井に向き直った。

「室井ちゃん。

 なんやったら、二人まとめて面倒見たってもええで。

“元世の中を変えようとした男”って言うキャッチフレーズで、まあ全国ネットはあんたらの努力次第やけど、大阪のローカル局やったら週に二、三本レギュラー持たせてやって、年収、二、三千万てとこや。

 よう考えといて」

「結構です」

 間髪入れずに室井は答えた。

「室井ちゃん。

 あんまり肩に力入れんほうがええて。

 へたしたら、何年後かに、室井党いうて、誰かがあんたの遺志を継いで、同じ様なことしてるかもしれんねんで」

 言うと、峰社長は立ち上がった。

「あ、それと山田さん、知ってはると思うけど、お好み焼きは焦げたら美味しいないから、早よう食べてくださいよ。

 ほな、失礼します」


 14

 典子は目を疑った。

 休憩室の隅におかれている十四インチのブラウン管テレビに、自分の夫の顔が映っているのだ。

「タイミングが良過ぎるわな。公示日に合わせてこんなスキャンダルが出てくんねんから。

 きっと自民党が、負けそうやからって探偵でも雇ってなんでもええから誰かのすねの傷探させてんで」

 満代は言うと、煙草に火を付けた。

「せやけど、よう見たら、この人スケベそうな顔してるわ。なあ、そう思えへん?」

「そ、そやねえ」

「ど、どしたん、誰か知ってる人?」

「違う違う」

 旧姓の田中を名乗っていなかったら、満代はきっと「ひょっとして旦那さん違うの?同じ山田やし」とくだらない冗談を言うんだろうなと思っていると、テレビの画面に室井が現れ、記者会見が始まった。

〈わたくしどもとしましては、今回の件は正に寝耳に水の出来事でして、事実関係を確認しましてから、なんらかの対応をとりたいと思います〉

「ああっ!」

 典子の声が狭い休憩室に響いた。

「びっくりしたなあ、どしたんよ」

「あ、ご、ごめん、何にもないよ」

 今、目の前で喋っている、みさき党党首の室井という男は、一男をJRの京橋駅に引き取りに行ったとき、「俺は絶対にやっていない」と言って、JRの職員に食ってかかる一男の横で、冷静に座っていた男で、後で、一男を捕まえた張本人でどこかの出版社で働いていると聞いた、その男に間違いなかった。

「満代さん、ちょっと、私、急用思い出したから、先帰るわ、お疲れ様」


 途中コンビニで買ってきた夕刊を典子は拡げた。

“みさき党NO2 痴漢疑惑”

“みさき党激震ブレーンに痴漢の前科”

“自民に追い風みさき党大失態”

 中には、一男との別居までスクープしている新聞もあったが、一男を取り押さえたのが、党首の室井であることをスクープできた紙はさすがになかった。

 テレビの電源を入れた。

〈こんなことをする党員のいる党を支持することは、選挙民としての、いや、一人間としてのモラルが疑われますねえ〉

 ジャンクのマラソン中継を流したテレビ局のニュース番組の中で、ヨシモトの峰社長が、きれいな標準語で語っていた。

 チャンネルを変えたが、どの局も、鬼の首を取ったかのように同じニュースを流していた。

 典子は、掛けることはないだろうと、財布のキャッシュカード入れの底に入れたままにしておいた、しわくちゃになったメモを取り出した。


「あっ、すいません。

 そちらに山田一男さんという方がお泊まりになっていると思うんですけど、ちょっと繋いでいただきたいんですけど」

〈失礼ですけど、お名前のほうを頂戴頂けますでしょうか〉

「田中典子と申します」

〈暫くお待ちくださいませ〉


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 お通夜のようだとはこのことを言うのだろう。

 本来なら、街頭演説を終えて帰ってきた候補者や、運動員でごった返した事務所には、人の熱気が充満し「いやあ、お疲れ様」「どうだった感触は?」という声が飛び交うのだが、今日のみさき党選挙事務所には、人の熱気どころか、会話すら聞こえてこなかった。

 落選が決まった候補者の事務所・・・そんな感じだった。

 一男を励まそうと、運動員の中に一人だけいた大阪出身の学生がたこ焼きパーティを開いたが、メリケン粉をといている間に一男は先に帰ってしまった。


「ちょっと待てよ。」

 街中を急ぐ一男に室井はやっと追いついた。

「山田さんさあ、気持ちはわかるけど」

「室井さん、ほんまに申し訳ないです」

「俺もなんて言っていいのかわかんねえよ。

 こういうの、なんて言うんだ?

 ミイラ取りがミイラになる、ちょっと違うなあ。因果は巡る、これも違うなあ。自分で自分の首を絞める・・・これだな」

「室井さん、今日一晩だけ考えさせてください」

「いいよ。

 一晩でも二晩でも考えてくれ。

 それより、ビール一本だけ飲んでいこ、そこにいいが店あるんだ」

 まだ会社員の退社時間には早く、二人の両脇には誰も立っていなかった。

「大丈夫ですかね、こんなとこで飲んでて。

 またスクープされませんかね」

「“みさき党トップ、屋台で苦汁の作戦会議”てか。

 どうせなら、もう少しいい店で撮られたいよな。

 おやじ、スジの煮込みとトマトスライスくれ。あと、酒、冷やで」

 少し膝からしたがだるくなりかけてきた頃、スーツ姿の会社員が周りを囲み始めた。

 ついこの間までの自分の姿を一男は懐かしく眺めた。

「で、山田さんさあ、本当のところはどうなんだよ。やったの? やらなかったの?」

「やってません。

 あっ、おやじさん、俺も、酒、冷やでちょうだい」

「それ、誰か証明できる奴いる?」

 スライスされたトマトを口に運びながら室井は一男に聞いた。

「いません・・・・本人しか。

 私思うんですけど、前にテレビでやってたんですけど、女子高生とかが、ふざけて、やってもいない男の人の手を捕まえて、この人痴漢ですっ、て大声を挙げるらしいんですけどどうもそれやないかなと。

 まあ、あの子らも実際に痴漢にあってて、その腹いせにやってるって言うてましたけど、何も罪を犯していない人間になすりつけることないと思うんですよ。

 それに、もし、罪が晴れても、やっぱり一回付いたイメージいうのはなかなか取れへんと思うんですよ。

 室井さん、最悪の場合、離党させてください。

 今日一晩考えて、明日返事しますんで」

「そんなこと言うなよ、あんた俺のブレーンだろ、ずっと一緒にいてくれよっ、てそんなことは俺は言わないよ。

 あんたの好きなようにしてくれ。

 あんたの判断は、いつも正しいから。

 さっ、もう一杯飲んで終わりにしよう」


 フロントはチェックインの客で混雑していた。

 室井は、「ちょっと寄っていくとこがあるから」と言って、新宿駅が見えた途端に無理矢理タクシーを止めた。

「山田様、何度かお電話が入っておりましたが」

 酒臭い息を少しも不快がらずに、さわやかな笑顔でフロントマンは小さなメモとルームキーを一男に渡した。

“また八時頃掛けます 田中典子”

 上昇するエレベーターに急ブレーキがかかり、チーマー風の男とキャバ嬢っぽい女が乗り込んできた。

 田中典子?

 一男は再び上昇し始めたエレベーターの中で考え始めたが、すぐに、自分の女房だということがわかった。

「あっ、山田さんじゃないですか?」

 キャバ嬢が一男に声を掛けた。

「本当に痴漢したんですか?」

 キャバ嬢の手首に絡みついている腕時計の短針は今まさに8の字に重なり合おうとしていた。

「まいどっ!!」

 たじろいでいる二人をエレベーターに残して、一男は部屋のドアに向かって駆け出した。

 ツゥルッツゥルッツゥルッ

 呼びだし音が扉の向うで鳴っている。

 ルームキーを差し込むが、焦ってうまく噛み合わない。

 ツゥルッツゥルッツゥルッ

 なんとかドアを開けた一男は、鳴り続ける電話に飛びついた。

〈山田様、田中典子様よりお電話が入っております。お繋ぎいたしましょうか?〉

「は、はい、お願いします」

〈もしもし〉

 妻の声だった。

「あっ、俺や」という声が出てこない。

〈もしもし〉

「もっ、もしもし」

〈あっ、私、典子です〉

「お、おう、久しぶりやなあ」

 大根役者が売れない脚本家の台本を読んでいるようだった。

〈えらい、有名人になって〉

 少し笑いを含んだこの典子の一言で肩の力が抜けた。

「もう辞めるんや。器の小さい俺には荷が重すぎたわ。分相応ってこういうことやわ」

〈辞めてどうすんのん?〉

「ヨシモトでも行こかなと思ってんねん」

 この人がこんな冗談を言ったことがあったかしらと典子は思った。

「年収二、三千万は保証するって言うてくれてんねん」

〈ほんまにそんなん出来る?〉

「割り切ったらな」

〈あんたの大嫌いなタレントになって、司会者にいじくられて、お茶の間の女子供に笑われて、それでも割り切ってやれんのん?〉

「ま、まあな・・・」

〈あんたのことやから、信念持ってやってんやろ。そんな簡単に諦めれんのん?〉

「・・・・・・・」

〈ほんまにやったん?〉

「いや・・・やってへん」

〈女の子の学校と名前覚えてる?〉

「確か、京橋バルナバ女学院、名前は井手上琉奈っていうたはずや」

〈なんか特徴あった?〉

「すぐにでも夜の街へ行けそうな子やったわ」

〈うーん・・・わかったわ。なんかあったらまた連絡するわ〉

 元気にしてんのか?と一男が聞く前に、電話は切れた。


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 典子は、次々と生徒が吐き出される校門を何度も返り見た。

『学校法人 京橋バルナバ女学院』

 門柱に彫られた文字は、間違いなくその建て屋は“学校”であることを示していた。

 しかし、出てくる女子生徒を見ていると、どう見ても、お水の女養成専門学校だった。

 校門から出るやいなや、示し合わせたかのように手鏡を鞄からだし、目をぱちくりさせながら次々と顔を塗りたくっていき、学校の目の前にある小さな交差点にたどり着いたときには、みな見事に化け終えていた。

 信号が青に変わると、何も入っていない鞄の中から携帯電話を取りだし、餌を待つ雛鳥のように皆一斉に口をぱくぱくし始める。

 あまりの知性の無さに、典子は気分が悪くなり、道端でもどしてしまった。

 人を外見で判断するのは良くない。しかし、この子達も将来大きくなって結婚して子供を産む。

 考えれば考えるほど、典子は背筋に寒気を感じた。

 そして、一男がやろうとしていることが本当に、これからのこの国のためになるのか分からなかったが、とにかく応援してあげたい、そう思った。

 とは言うものの、目の前を通り過ぎていく女の子の顔が皆同じに見えた。

「井手上琉奈さんって知りませんか?」

 比較的薄化粧で、髪の色も、黒と茶色どちらかに分類しろと言われれば、暫く考えてから、黒、と答えられる、女の子を捕まえて聞いてみた。

「なんか聞いたことはあるけど、うちの学校生徒の数多いからわからへんわ」

 プスーッ、と空気の抜けるような声を出して、その女子高生は去っていった。

 結局、人の流れが途切れるまで、井手上琉奈を見つけることは出来なかった。

 途方に暮れて、閉ざされた校門の向うでたたずむ煉瓦造りの校舎を見上げていると「すいません、アジア生命の益田と申します」と大きな、女性の声が聞こえてきた。

「辻先生様と四時半でアポイントを取らせていただいているんですけど」

 インターホンに噛りつくようにして喋っている女性は、カチャン、と自動ロックが外れる音がすると、校門の脇にある、人一人が通れるくらいの小さな鉄格子の扉をくぐった。


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 生まれて初めて作った名刺を、典子はまじまじと眺めていた。

 まさかゲームセンターにこんな便利な機械があるとは思わなかった。

 印刷屋に入って「最低三日はかかります」と言われ、残念そうに店を出ようとした時、「安っぽいので良ければ」、と断って、ここの場所を教えてくれた。

“大阪府警 メンタルサポートチーム

  チームリーダー

   田  中 典子  ”


「井手上琉奈さん、いらっしゃいますでしょうか?」

 名刺を受け取った教務課の職員は、典子の頭のてっぺんから足の爪先までを嘗めるようにして見た。

「今日は全校生徒下校致しましたが」

「そうですか。

 いえ、実はですね、御校の井手上琉奈さんがですね、半年ほど前に電車の中で痴漢にあいまして、犯人はその場で取り押さえたんですけど、まあ、年頃の女の子のことですから、その後の心のケアと申しましょうか、そういったことで今日参った次第なんです」

「そうなんですか」

 職員は、もう一度、名刺と典子を見比べた。

「ご住所を教えていただくことなんかは出来ますでしょうか?」

「いえ、基本的には出来ないんですけど・・・まあ、警察の方ということですから・・・これからすぐに向かわれますか?」

「はい」

「では、先にこちらから電話を入れますので、暫くお待ちいただけますか」


 教務課の親切な職員に書いてもらったメモを頼りにたどり着いた井手上琉奈の自宅は、北大阪の千里中央と言う駅から歩いて五分くらいの上品な住宅街の真中にあった。

 だいたい大阪というところは、南へ行けば行くほどガラと言葉づかいが悪くなり、北へ行けば行くほど、上品でお淑やかになる、そんな街だった。

 如実にわかるのが、大阪から神戸にかけて、海側から山側にかけて、阪神電車、JR、阪急電車が平行に走っているが、乗っている乗客の質が明らかに違っていた。

 普段、阪急電車に乗っている人が阪神電車に乗ると、そこいらで寝ている酔っ払いに驚き、逆に、いつも阪神電車に乗っている人が阪急電車に乗ると、座席に横になって寝ている乗客が一人もいないことに驚く。

 阪神競馬場で馬券を握っている客と、尼崎競艇場で舟券を握っている客との違いだった。

「どうぞお上がりください」

 最近めっきり見かけなくなった“上品なお母さん”だった。

 居間に通されると、井手上琉奈が、テーブルの向うで仏頂面をさげて座っていた。

 この母親から、どうしたらこんな小娘が生まれるんだろう、出された水羊羹をつつきながら典子は思った。

「私、誠にお恥ずかしい話なんですけど、先ほど学校からお電話をいただくまで、琉奈がそんな目に遭っていたとはまったく知らなかったもので・・・」

「あらそうなんですか」と、典子が言い掛けたとき、

「そんなん毎日のことやから、いちいち親に言うのも阿呆らしいやんか」と琉奈が気だるそうに話した。

「えっ、そんなこと毎日あるの?」

“上品なお母さん”が驚いて聞いた。

「あたりまえやんか。

 そんなん、触られへん日なんか一日もないんやで」

 アラーっ、と言って“上品なお母さん”は卒倒しそうになった。

「お母様、今の琉奈ちゃんのお話、残念ながら本当のことなんです。

 私たちも鉄道警備隊と連携を取って警備は強化しているつもりなんですけど、正直今のところイタチごっこでして」

「ほら、私の言うた通りやんか」

「で、大概のケースは、被害者の方が泣き寝入りする形で、今回のように現行犯で犯人が捕まるのは本当に希なことでして」

「捕まった人は刑務所に?」

「いえいえ、残念ながら、警察できついお灸を据えられて、まあ、悪質な常習犯になりますとそういったこともありますけど、ほとんどの場合は、釈放されまして、また、そ知らぬ顔をして次の日にまた同じ電車に乗っています」

「そ、そんなことって・・・」

“上品なお母さん”は、口から泡を吹いて倒れてしまった。

「そこで、今日お邪魔しましたのは・・・」

 典子は、テーブルに片肘を付いてみず羊羹を食べている琉奈に顔を向けた。

「明日、東京で、『被害者の会』と言う、これまで、琉奈さんのように痴漢の被害に遭った女性が全国から集まりまして、お互いが今抱えている心の傷や苦悩を打ち明けてもらって、少しでもこれからの生活を快いものにして頂く、もちろんその為には私達が全面バックアップ致しますが、そういった会が・・・」

「うざったいわ、そんなん。

 それに、私、痴漢に遭ったことなんか全然気にしてへんし、心になんか一つも傷あらへんねんけど」

「いえいえ、そういった方に限って、あるとき、何かの拍子で、自分が痴漢に遭った重大性と言うか、自分が被害者であることを初めて認識して、突然深く考え込んでしまい、電車に乗るのが恐くなり、延いては家を出ることさえ恐くて出来なくなる、そういったケースが多々あるんです」

「そんなん私はなれへんて」

 琉奈はおもむろにテーブルの下からマニキュアの瓶を取り出すと、一本一本爪に塗り始めた。

 自分の娘だったら左フックが飛んでいるなと思いながら、典子は小さな封筒を琉奈に差し出した。

「これは新幹線のチケットです。

 学校には許可をもらってきてますから」

「私行かへんよ」

“上品なお母さん”が口の周りの泡を拭いながら起き上がってきた。

「ど、どうしたの、結局どういうことになったのかしら?」

「お母様、ご心配はいりませんので。お話は娘さんからお聞きになってください。それでは、お忙しいところお邪魔いたしました」

 典子が立ち上がると「私、ほんまに行かへんからね」と、琉奈は典子を睨んだ。

「琉奈ちゃん、ディズニーランド行ったことある?」

 典子はスーツのポケットから一枚の細長いチケットを取り出した。

「明日朝は早いけど、午前中には会は終わるし、それに、平日だから、ディズニーランドも空いてると思うわよ」

 琉奈は爪に吹きかけていた息を止めた。

「学校には一泊二日で許可を取ってあるから。

 じゃあ、明日遅刻しないでね」

 言うと、典子は、颯爽と、シンナー臭い部屋を後にした。


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〈確保したで〉

 一男は、一瞬“確保”の言葉の意味が分からなかった。

〈井手上琉奈のことやんか〉

「あっ、そうかそうか、すまんすまん」

〈明日の午前中にはそっちへ連れていけると思うわ〉

「自供っていうか、俺がやってへんて認めたわけ?」

〈まだ、これから〉

「間に合うんか?」

〈なんとかするわ。

 そっちはどうなん?〉

「室井さんには一応話はしといた。

 あかんかったときは離党させてくださいって言うといた。

 もう、遅いかもしれんけどな。

 党全体の支持率は民主党に抜かれたし、近畿地区に限ったら10パーセント切ってもうたし」

〈そうなん。

 まあ、とりあえず、明日もう一回連絡入れるわ。

 行くとしたら、やっぱりNHKやんなん?〉

「そうなると思うで」


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 井手上琉奈は新幹線に乗り込んできたとき、「おはようございます」とだるそうな声で言ったきり、今はかわいい顔をして典子の横で眠っていた。

 よく見ると、化粧を施していないその顔には、まだ、あどけなさというものが残っていた。


「富士山よ」

 琉奈は目を擦りながら、面倒くさそうに、車窓の向うで悠然とそびえ立つ富士山に顔を向けた。

「初めて?」

「中学校の修学旅行で来たことあんねんけど、そんときは曇ってたからあんまりはっきりと見えへんかってん」

 車内販売が近づいてきたことを告げる電子音の音楽が聞こえてきた。

「お腹減ってない?」

「ちょっとだけ」

 典子は、横に来たワゴンを止め、紙パックのオレンジジュース二つと、プラスチックのボックスに入ったサンドウィッチ一つを買った。

「朝御飯は毎日食べてる?」

「たまあに」

 琉奈はハムを挟んだサンドウィッチからレタスを抜き取り、ボックスの蓋にぺたりとおいた。

「野菜も食べないと駄目よ」

「はぁーい」

 前歯でサンドウィッチを噛りながら、琉奈は紙パックのオレンジジュースにストローを突き刺した。

「琉奈ちゃんさあ、あなた、本当に触られたの?」

「えっ?」

 琉奈は豆鉄砲を食らった鳩になった。

「今、やってもいない人の手を取って“この人痴漢ですっ”ていうのが流行っているんでしょ?」

「うん。

 でも、私はほんまに触られたよ」

「間違いない?」

「だって、捕まえてくれた人がいたってことは、その人も私が触られてたんを見てたってことやんか」

 なんだ、ちゃんと論理的にものを考えられるんじゃない、と典子は感心してハムカツのサンドウィッチを口に運んだ。

「だけど、あなたが手を掴んで叫んだから、その正義感の強い人が、取り押さえてくれたんじゃないの?」

「そんなんわからへん」

「わからないって、触られたのはあなたでしょ。あなたしかわかんないんだから」

 典子の上擦った声に、ずっと眠っていた隣の席の会社員風の男性が倒したシートから体を起こし二人を不思議そうに見た。

「そんなんどっちだっていいやん。

 私ら毎朝触られてんねんから、ささやかな抵抗っていうことで」

「ダメよ。

 そんな罪のない人を巻き添えにしちゃあ」

「そんな罪やとかなんやとか難しいこと言われたら、私アホやからわからへん」

「わからないことないでしょ。

 もし本当に、その人があなたのことを触ってなかったらどうするのよ。

 何の罪も犯してないのに罰せられてるのよ。

 おそらく会社もクビになって家族が途方に暮れているはずよ」

「いいやん、どうせあのおっさんも国会議員になろうとするぐらいやねんからお金持ちなん違うの」

 典子は、琉奈の小さな顎に右アッパーをぶち込んでやろうと思ったが「ちょっと化粧してこう」と琉奈は突然立ち上がると、網棚においてあった自分の鞄から小さなポーチを取り出し、そそくさと通路を進行方向に向かって歩いていった。

 右の拳を握り締めワナワナと肩を震わせる典子を、隣の男は、さっきよりもっと不思議なものを見るような眼差しで見た。

 自動ドアの向うに琉奈が消えると、暫くして、壁にあるトイレのマークが黄色く点った。

〈ただいま定刻通り熱海駅を通過いたしました〉

 典子は立ち上がった。

 トイレの前に順番待ちをしている人は一人もいなかった。

 カチャッ。

 トイレのドアが開き、出てきた琉奈は典子の顔を見ると、一瞬、あっ、と言う顔をしたが、首根っ子を典子に掴まれると、あっと言う間に、向かいにある洗面台に連れ込まれた。

 典子は空いている左手でカーテンを引くと右手に力を込めた。

「痛いっ、何すんのよっ!」

「大声だしたら怪我するで」

 典子の重く低くドスの効いた声に琉奈は体を震わせて口をつぐんだ。

「あんた、黙って聞いとったら調子にのって。

 大人なめとったらあかんでえ」

 鏡に映る琉奈の目は、驚きと恐怖で歪んでいた。

「これから言うことに、イエスかノーで答えなさい」

 琉奈は震えながら小さく頷いた。

「ほんまにあんたは捕まったあの男に触られたんか」

「ノ、ノー」

「遊び半分で、あの罪のない男の人を罠に陥れたんやな」

「イ、イエス」

「間違いないな」

「イ、イエス」

「そのことをちゃんと人前で喋れるか」

「イ、イエス」

 床に座り込んでしまった琉奈を洗面台に残し、典子はデッキへ行き携帯電話を取り出した。

〈あっ、俺やけど〉

「落ちたわ」

〈ほんまか。

 そしたらとりあえずホテルに来てくれ。

 民放の奴らが張り付いてるから、駅に着いたらもう一回電話くれ、頼むわ〉

 典子は洗面台に戻ると、まだへたり込んでいた琉奈を抱え起こし「琉奈ちゃん、もうちょっとやから、頑張ろね」と優しく囁き、琉奈の胸ポケットにディズニーランドのチケットを入れた。


 15

 井手上琉奈の会見はNHKのお昼のニュースで流された。

 目にモザイクのかかった琉奈は、流暢な標準語で事の全てを静かに語った。

 民放は、しょうがない、といった感じで、お昼のワイドショーでその模様を流した。

 次の日に発表された街角でのアンケートで、みさき党の支持率は40パーセントの自民党に次いで30パーセントを超えた。

 そして、その二日後、週刊文衆に“浪花女の意地執念の追跡 夫の冤罪晴らす”という大きな文字が踊り、みさき党の伸び悩んでいた近畿地区での支持率は自民党に並び、党全体の支持率は、ついに自民党を超える45パーセントに達した。

 典子が身分を偽っていたことに井手上親子は気づかなかった。

 琉奈はディズニーランドへ行ったことで舞い上がってしまい、“上品なお母さん”は週刊文衆のような一般大衆誌を読む習慣がなかったからだった。


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「いよいよですね」

「そうだな。

 いろいろあったけど、あっという間だったよな」



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