上京、そして、いよいよ・・・
「ほら見てみぃ、何が売れっ子じゃ。ここの女将に顔覚えてもらってないうちはまだ半人前じゃ」
女将は申し訳なさそうな顔をジャンクに向けながら、二人の鉢に、たっぷりの水菜とわずかな鯨の赤肉を盛った。
「女将な、こいつ、ジャンク言うんや。
うちのホープでな、煙草のホープちゃうで、期待のホープやで。もうじき全国ネットばんばん出だすからまた応援したって」
「そうですか。
せやけど、ジャンクさんて、粋な名前ですなあ」
「当たり前やがな。
名前ぐらい粋な名前付けとかな、何の粋な芸もでけへんねんから、なあ」
峰社長は、ジャンクを見ながら、また、はっはっはっと下品に笑った。
「あっ、そや、女将。
肉二人前追加と、あと、竜田揚げとベーコン、それと、熱燗二本持ってきて」
強烈な峰社長の話題転換に、ジャンクは呆れるしかなかった。
仕上げの細うどんを啜っているジャンクの前で、峰社長は、手酌で酒を呑みながら、爪楊枝で歯の間をつついていた。
「いやあ、最後までうまかったですわ」
ジャンクは、長い間残ったままだったグラスの底のビールをあおった。
「おまえ、走んの速いんか?」
峰社長は唐突にジャンクに聞いた。
「まあ、人並みですけど。
一応、小学校の時はずっとリレーの代表でしたけど」
「長距離は?」
「今まで、そんな長い距離は走ったことないですけど、まあ、人並みにはいけると思います」
「百キロは?」
「百キロ!?」
「そうや」
「まあ、歩いてもええんやったらなんとかいけると思いますけど」
「まあ、歩いたほうが、感動は呼べるけどな・・」
「感動って?」
「い、いや、なんもない」
峰社長は空になったお銚子をテーブルの上に寝かせた。
「おまえ、ビッグになりたいか?」
「そら、・・・もちろん」
「東京へ行く気はあるか?」
「行きたいです」
ジャンクは峰社長の目をじっと見た。
「よっしゃ、決まりや」
「はい?」
「おまえ、走れ」
「今ですか?」
「あほか。
毎年やっとるやろ、黄色いTシャツ着て、愛は地球をなんとかや言うて」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。そんなん、いきなり言われても・・・」
「いきなりもくそもあるか。
おまえ、さっき、走れる言うたやないか」
「それは、売り言葉に買い言葉で・・・」
「ビッグになりたいんやろ?」
「そ、それはまあそうですけど・・・」
「まだ二カ月以上あんねんから、これから始めたって間に合うよ。
おまえ、家、尼崎やったよな」
「ええ」
「それやったら、今、ここから、家まで走って帰れ。ええトレーニングになるぞ」
ジャンクは、飲むものが何もなかったので鉢に残っていた出汁をからからの喉に流し込んだ。
「これをきっかけに東京進出といこや。
あっ、俺、これから別の打ち合わせあるから、先に帰らしてもらうわ。ごっちょうさん」
言うと、峰社長は腰を上げた。
「ちょっと待ってくださいよ、今日は社長の・・・」
「セコイこと言うな。
ビッグになったら、こんな店毎晩でも来れんがな、ほなな」
伝票を手に震えるジャンクを残して、峰社長は帰っていった。
6
キャッシュカードで下ろせる金額の最高額が、一回の操作で五十万円までとは知らなかった。
後ろで並んでいる人達の咳払いが全て自分に向けられたものだということは、一男にはよくわかっていた。
退職金が振り込まれた口座からカードで五十万円を二十回下ろし、家から持ってきた使い古しの紙袋に詰め込み、それを、妻が送ってきたカードに全て入れ終えたとき、一男のTシャツのわきの下には黒い染みができていた。
銀行を出て、文房具屋で便箋と封筒を買うと、一男はすごく喉が渇いていることに気がついた。
一膳めし屋の暖簾をくぐり、ビールを注文して、ショーケースの中から、冷や奴とじゃこおろしをとって席に戻ると、店員がビールと、そのビール会社の名前がローマ字で書かれた傷だらけのコップを持ってきた。
当たり前になった昼間のビールで喉を潤しながら、店の一番奥に置かれた十四インチのテレビを見ると、ニュースキャスターが、国会の会期延長を伝えていた。
じゃこおろしに醤油を掛けながら、テーブルの下の網棚から、週刊誌を手に取ると“週刊文衆”だった。
“テレビなんかいらないキャンペーン第四弾”は、週刊誌の中ほどにあり、ページ数は四ページだった。
会社の配慮か、室井、の名前はどこにもなかった。
内容は、“本当にテレビは必要なのか?”の問いかけに始まり、続いて、主にバラエティー番組だが、“どうしようもない”という表現の番組のそれぞれの出演者、その番組での彼らのギャラ、並びに、昨年の推定年収が一覧に書かれており、あと、その番組の全てのスポンサー名と、テレビ局に支払われている広告料のトータル金額が書かれていた。
そして、そんな番組を見たことがない人のために、簡単な番組の内容と、いかにその番組が“どうしようもない”かを詳細に述べ、人に見せる芸など何もないのに、芸能人だと言ってのさばっているこんな“芸NO人”の莫大な収入を払っているのがスポンサー企業で働いている父親である、ということを、家でポテトチップスを食べながら、こんな番組を見て大口を開けて笑っている妻と子供たちは一体わかっているのだろうか?と書かれ、最後に“国民に娯楽を与えるという一大使命をとっくの昔に終えたテレビに、今、存在意義など残っているのか、国民全体が考えなければいけない時期にきている”と結ばれていた。
二本目のビールを店員に頼み、雑に折られたスポーツ新聞を拡げ、テレビ欄や芸能欄を見たが、“週刊文衆 訴えられる”といった文字などどこにも見当たらず、マスコミ各社の完全無視の姿勢は変わっていなかった。
ほろ酔い気分で家に着くと、一男は、冷蔵庫の中から、一本だけ残っていた缶ビールを取り出し、冷蔵庫の中を空っぽにすると、コードを抜いた。
テレビをつけると、ジャンクが、頭にタオルを巻き、白のTシャツを汗で透かせて、どこかの河原を走っていた。
「またっ、しょうもない番組やりおって」
つけたばかりのテレビを切ると、一男は買ってきた便箋を開いた。
考えてみれば、人に手紙を書くのは生まれて初めてだった。
“元気でやってるか?
おまえを殴ったことはほんまに悪いと思ってる。
千代美の為にも、もう一回、よりを戻して・・・”
一男は便箋を丸めると、ビールの入った缶を傾け、もう一度ペンを握った。
“元気か?
俺は、いろいろと考えた結果、会社を辞めた。
これまで、働いてこれたのもおまえのおかげやと思ってる。
退職金の、おまえの取り分いうたらおかしいけど、入れといたから。わずかやけど生活の足しにしてくれ。但し、慰謝料と違うから、それだけは間違えんといてくれ。あの紙はしばらく預かっとくんで、もう一回、よう考えてくれ。
明日から東京に行くんで、なんかあったら下に書いてあるホテルに連絡くれ。たぶん、一年くらいは行くことになると思うんで”
一男は便箋を丸めようと思ったが、パーク・ハイアットの領収書に書かれてある電話番号を便箋の一番下の行に書くと、折って、封筒の中に入れた。
一男は永年使い古し、かなりくたびれた旅行鞄を取り出してくると、下着とポロシャツ、そして綿パンを入れ、Yシャツとネクタイを入れようと思ったが、やめて、Tシャツと短パンを入れた。
玄関に持っていき、明日履いていく靴をだそうと下駄箱を開けると、千代美のサンダルが目に入った。
一男は鞄を上から押さえつけると、ゆっくりとへこんだので、居間へ駆けていった。
仏壇に手を合わし、笑っている千代美に、がんばってくるわ、というと、位牌を手にし、また玄関へ戻った。
7
「すごい反響だよ。
アクセスの件数が一万件を超えている。
ほとんどが、俺達の考えに同調するというやつだ」
「反感とか中傷の内容のものは?」
「数件だよ」
室井は通りがかったウェイターにハーパーの水割りを注文した。
「それもほとんどが関西弁だよ」
「じゃあ、ヨシモト・・ですか?」
「そうとは限らないよ。
それに、そういったのは、まだまだこれからが本番だよ」
「私も、一応、妻は実家のほうへ帰しました」
「そうか。
俺も、マンションはそのままにして、今日からここで暮らすよ」
「そうなんですか。
じゃあ、毎晩このバーでミーティングできますよね」
「ちょっと待ってよ、山田さん」
室井は笑いながらジャイアントコーンを口に放り込んだ。
「俺もさあ、綺麗な女とこんな店で毎晩飲めたらそらうれしいよ」
最上階にあるバーは、全面ガラス張りで、手を伸ばせば東京の夜景がすくい取れそうだった。
「だけど、いい歳こいたおっさん二人が毎晩顔つき合わせてたら、店の人間に首根っ子つかまれて放り出されちゃうよ」
はっはっはっ、二人で声を合わせて笑うと、客の大半を占める外国人が二人を不思議そうな目で見た。
「で、場所はどこなんですか?」
「東京ドームだ」
「えっ!?
よう取れましたね」
「向こうも商売だからな。
集談社だ、て言うと、係の奴は一瞬怪訝な顔をしたけど、組合のソフトボールで使いますって言うと、ありがとうございましたって」
一男は、アーリー・タイムスのロックをダブルで注文した。
「時間は、マラソンのゴールの時間に合わせた。
夕方の五時から八時だ」
「今年は誰が走るんですかね?」
「山田さんの大好きな、ヨシモトの若手の、ジャンクって言う奴だ」
「ああ、それでか・・・」
ウェイターが持ってきた、アーリー・タイムスのロックを一男は喉に流した。
「で、本題に入るけど、だいたい俺達の行動指針なるものがまとまったんだ」
「そうなんですか」
「まず、テレビの代わりの広告媒体の件だけど、これは全てネットで行なう。
ネット会社とは大体話がついていて、これまで企業がテレビ局に払っていた広告料の半分以下になるはずだ。
一時的にネット会社に金が集中するけど、あいつらは今のマスコミのトップの人間よりはよっぽど頭がいいからうまく富の分配はしてくれると思う。
企業側はおそらく不安がるだろう。
本当にテレビがなくなってネットで広告を流すことによって、宣伝効果は落ちないかって。
正直、俺は落ちると思う。
だけど、考えてみてくれ。
地方都市のお年寄りに、トヨタから今度新しい車が出ます、と言う情報は必要か?
逆に、都会の若者に、今度ヤンマーから新しい田植え機がでますって知らせる必要があるか?
過疎地の高齢者の人が、来週からハッピーセットのおもちゃがハム太郎からピカチュウに変わるって聞いてどうする?
本当は、十人だけに見てもらえばいい宣伝を百人が見ることになり、九十人分の余計な広告料をこれまでずっと企業は払い続けてきたんだ。
本当に情報がほしい人間は、自分で金を払ってでも見つけてくるよ」
「なるほど・・」
「で、浮いた広告費は、設備投資に回せば景気も少しは良くなるだろうし、一部は販価に反映させてもいい。
化粧品なんかみてみろ、あんなの販価の八割以上が広告費だって言うから、かなりやすくなるぞ。
そしたら、世間のおばちゃん達も、サスペンスドラマとワイドショーが見れなくなるけど、化粧品がそんなに安くなるんならってこっちを見てくれるはずだ」
「あの人らは、物の値段に一番敏感な人種ですからね。
せやけど、テレビ局とかヨシモトが黙って指くわえてますかね。
一部、ネットに動画を配信し始めているテレビ局もありますからね」
「わかってるよ。
だから、電波と同じように、インターネット法でも作って、国の一元管理下に置くよ。
国がというか俺が認めたものしか配信できないようにする。今、ネットも無法状態だからちょうどいい機会だと思うよ。
ただし、ネットへの配信といっても、まだまだ費用が掛かるし、画像も、今のところはテレビのほうがきれいだから、光ファイバーが完全に整備されてからの話だろな」
「ケーブルテレビとかはどうします?」
「それは俺も迷ったんだ。
ニュースだけとか、スポーツ番組だけを流すものならいいかなとも思ったんだが、中にはろくな考えをしない輩が必ずいると思うから、それもやめにした」
「せやけど、パソコンのない人とか、パソコンよう操作でけへん年寄りなんかはかわいそうちゃいます?」
「NHKを残す。
それも、無償にしてだ。
ただし、流す番組は、ニュース、天気予報、あと、“NHKスペシャル”あれはいい番組だ、残りは今教育テレビで流している番組を持ってくる。
バラエティーだとかスポーツ番組とか、朝の連ドラ、大河ドラマは流さない。
まあ、年末の紅白歌合戦くらいはやってもいいかなと思う。もちろん、歌手の皆さんはNOギャラだ」
「相撲はどうするんですか?
お年寄りには結構好きな人が多いですよ」
「別にどっちでもいいと思ってる」
「どっちでもって?」
言うと、一男は、通りがかったウェイターにアーリー・タイムスのお代わりを注文した。
「俺は、テレビを無くすことによって、スポーツにしろ、演芸にしろ、本当にいいものを生で見に行ってほしい、それが、あんたの言ったいい文化、いい言葉だよな、そのいい文化を作るきっかけになると思っている。
プロ野球もおそらく巨人なんかは一試合一億円と言われている放映料が入ってこなくなるから、俺達の考えには反対だろう。逆にテレビ中継のあまりない、特にパ・リーグなんかは大歓迎だと思うんだよ。
テレビで見れなくなるから、どうしてもみたければ球場へ足を運ぶしかない。結果、観客動員数は飛躍的に増えると思うんだ。
巨人だって、最近は視聴率も悪いしドームの空席も目立つから、かえっていいかもしれない。
Jリーグも息を吹き帰すかもしれない。
バレーボールやラグビー、あとマラソンなんかも試合数をもっと増やせば、プロ化できると思うよ。結構隠れファンが多いから」
「お笑いも同じことですよね」
「そうだ。
笑いたければ劇場へ行けばいいんだ。
そうすれば金をとって見せるわけだから、ろくに芸のできない奴は自然と淘汰されていく。
俳優だ女優だとえらそうに言っている奴も同じだ。
ろくに演技のできない奴は、映画にも出れない、舞台にも立てない、あとは静かに消えていくだけだ」
「そうなると、この世の中から、“タレント”というしょうもない人種はいなくなる」
「そういうことだ。
それに、外へ見に行くとなると、電車に乗れば飯も食う、応援していたチームが勝てば祝杯だってあげる」
「よって、金が回って、景気も良くなると」
「その通り」
「でも、年寄りの中には足が悪いとか体調が悪いとかいうて、なかなか外へでられん人も多いから、やっぱり、相撲中継は残したほうが・・・せやけど、今の凋落ぶりを考えると、テレビ中継をなくして場所数を増やした方がええかもしれないですよね」
「今の相撲をわざわざ金を払って見に行く奴がいると思うか?
それなら、年寄りのことを考えて残してあげたほうがいいだろう。
どうせ、放映料も入らないから、そのうち、つぶれてなくなるよ」
「せやけど、一応、国技ですよ」
「いくら国技でも、駄目なものはいらないんだ。
俺達が求めているのは“ほんまもん”だろ」
室井のおかしな大阪弁に笑っていると「遅くなりました」と女性の声が二人の間に割って入った。
「おっ、めぐみちゃん」
もらった名刺を見ると、“高見めぐみ”の名前の上に“取締役社長”と書かれていた。
「今色々とお願いしてるネット会社の社長さんだよ」
めぐみちゃんは、店員にウーロン茶を頼んだ。
「初めまして、山田と申します」
「室井さんから、お話は伺っております。
ブレーン、ということで・・・」
「いえいえ、そんな大したもんやないんですけど」
「いえいえ、切れ味の凄さはちゃんと伺っておりますので」
「室井さん、頼みますよ。そんな大袈裟に言わんといてくださいよ」
「だって、俺が総理大臣で、あんたが官房長官なんだから」
めぐみちゃんはウーロン茶に少しだけ口をつけると、風が吹けば折れてしまいそうな細い手首にぶら下がっている時計を見た。
「あなた方のお考えには賛同いたします。
資金の提供はいっさい惜しみませんので。
それでは」と言って、めぐみちゃんは去っていった。
「すごい、忙しそうですよね」
「ああ。
あんまり忙しいんで、見返りも惜しみません、て言うのを忘れていったよ」
8
「樽井さん、なんとか頼むよ。この法案が通んないと、解散するしかないからね」
日本国首相、岸本自民党総裁は、鍋の中から、鱧の白い身をとりながら、樽井公明党党首に言った。
「首相、もう限界ですよ。
私の力だけでは、反対派を押さえ込むことはできません」
「導入の時もそうだったけど、政権はいったん取られはしたけど、結局は、今足下は5パーセントまできてるし、こうやって実際にお宅の党も与党でいられてるんだよ。
国民もわかってるんだよ。いずれは上げなくちゃいけないってことは。
どんどん高齢化社会は進む、それに反比例して子供の数は減っていく、労働者人口が右肩下がりになっていくのは一目瞭然、経済だって、現状維持が精一杯。みんなわかってるんだ。どこからか取ってこなくちゃいけないってことは。
でも、とりあえずは反対しておこう。そらそうだよ。現実に生活は苦しくなるからな。
でも、ちゃんとわかってるんだよ、今のこの国の現実を」
「それはそうなんですけど・・・」
「じゃあ、他に何か良い代案でもあるの?」
岸本は手酌で酒を注ぎながら樽井に聞いた。
「い、いえ・・」
「そうだろ。
君たちはいつもそうだよ。
反対するのは結構だけど、何か、こっちが驚くくらいの代案を一度でもいいから出してくれよ」
言い捨てると、岸本は大きく二度手を叩いた。
すると、打ち合わせでもしていたかのように、するりと、襖子が開いて、女将らしき和服姿の女性が現れた。
「女将、やっぱりうまいよ。
鱧はもちろん、出汁も最高だねえ。
この、玉葱を入れるってのは誰が考えたんだろうねえ、ほんと尊敬しちゃうよ」
「先生、そんなに美味しいんでしたら、もっとちょくちょく大阪にも来てくださいよ」
「引退したら毎日でも来るよ。
そう遠くないかも知れないけどな」
「また、ご冗談言いはって」
言いながら女将は、全く箸をつけていなかった樽井の器に鱧の白い身を二切れ入れた。 「先生、お口に合いませんか?」
「いえいえ、これからいただこうと思ってましたので・・」
樽井は無理矢理器にかぶりつき、眼鏡のレンズを湯気で曇らせた。
「女将、鱧の追加もらおうかなあ」
「二人前ぐらいでよろしいですかねえ」
「そうだな。
それと、あのいつももらう冷酒持ってきて」
「二合くらいでよろしいですか?」
「二合でも、十合でもいいからすぐに持ってきてくれ。
こちらの先生、まだ、酔いが足りないようだから」
女将が部屋を出ていくと、岸本は持っていた箸と器をテーブルの上に下ろした。
「樽井さん、なんとか頑張って貰えんかな。 もう、野党には戻りたくないだろ?」
「ええ、もちろんそうなんですけど、ただ・・・」
「ただ、なんなんですか?」
「首相、本当に申し訳ないですが・・・」
岸本は、恐縮する樽井を見下すような目でしばらく見ていたが、やがてまた手を大きく二度叩いた。
「まあ、お互い次の選挙は頑張ろう。
うちも、もう背に腹はかえられないからね」
襖が開いた。
「先生急用ができてお帰りだから、お送りして」
樽井は額の汗を拭いながらのそっと立ち上がった。
「樽井さん。
坊主丸儲け。
この言葉に案外国民は敏感だよ」
樽井は一瞬眉を引きつらせたが、軽く岸本に一礼すると、女将と一緒に部屋を出ていった。
暫くすると、岸本の秘書の内村がやってきた。
「樽井先生えらく早いですねえ」
「内村君、すぐに官房長官に電話してくれ」
岸本の表情を見て、内村はすぐに携帯電話を取り出した。
「先生」
内村は釦を押しながら一枚の紙を岸本に渡した。
岸本は紙に視線を落とし、そして内村に聞いた。
「これはいつなんだ?」
「明後日の夕方五時からです」
「場所は?」
「東京ドームです」
9
「かなんなあ、こんなときに解散されたら。
話題が全部そっちに持っていかれるがな」
峰社長は苦々しそうに机の上に並べた新聞を見た。
「ジャンク、せやけど心配すんなよ。
デイリーとサンスポの、明日と明後日の裏表紙は押さえたからな」
ジャンクは何も言わず、ペットボトルのスポーツドリンクに口をつけた。
「なんや、まだ怒ってんのか?
しゃあないやんけ。
去年は、渡辺さんとこがやって、今年は俺んとこの番やってんから。
それに周り見てみい、おまえみたいに全国ネットで売れる可能性があって、なおかつ百キロ走れる人間なんかおれへんやろ?」
「社長、正直、話もろた時は、腹立ちましたよ」
頬が痩け、黒く日焼けし、すっかり精悍な顔つきになったジャンクは足元を見つめながら言った。
「仕事終わってね、くそ暑い中走らされたときはほんまにやめたろ思たんですよ。
いやいややるから、よけしんどいんですよ。
それがね、教えてくれるコーチとか、番組のスタッフとかがね、むちゃくちゃ頑張ってくれるんですよ。
僕が苦しい思ったら、一緒に苦しんでくれるんですよ。うれしいときには、一緒に喜んでくれるんですよ。
僕ね、周りの人にこんなにあんじょうしてもろたん初めてなんですよ。
どんなことがあってもね、絶対にゴールしたろ、僕の為やない、みんなの為に、そ、そう、み、みんなの為に、うーっ」
「お、おいっ、何も泣かんでもええがな」
「スタートまでまだ時間あるんで、ちょっと、その辺ジョグしてきます」
涙を拭うと、ジャンクは、ほっほっほっ、と、膝を高く上げて、控室から出ていった。
「おいっ、町田っ」
峰社長は、部屋の隅で、スポーツ新聞を読みながらにやにや笑っているジャンクのマネージャーを呼んだ。
「おまえ、あのホームページ見たか?」
「例の、テレビをこの世の中から無くそう云々ていうやつですよね?」
「ああ」
「見ましたよ。
僕ね、ああいうの大好きなんすよ。
週刊誌も毎週読んでますから」
「あほんだらっ!!」
峰社長は町田の頭を叩いた。
「おまえ、何考えとんねん。
わしらの敵やぞっ。
もしなんかあってテレビがなくなったらわしら全員おまんまの食い上げやねんぞっ!」「すんません」
町田は申し訳なそうに頭を下げた。
「ええか、町田。
何がなんでも、ジャンクの奴、ゴールさせろよ。
どんな手使うてもかまわん。全ておまえに任せるから」
「は、はい」
「クズどもが性懲りもなく、くだらんことしやがって」
町田が部屋の隅に戻りスポーツ新聞の続きを読み始めたとき、峰社長はもう一度町田の顔を見た。
「それとな、あいつ一生懸命やってくれんのはええんやけど、あいつの売りはあくまでもあの軽薄短小さやろ。
あんまりストイックなイメージついたらこれから仕事やりぬくなるから、今回のマラソン終わったら、一カ月くらい休ませて新喜劇にでも出してリハビリさせろよ」
10
「よう寝れました?」
「さあ、酔ってたからいつ寝たか覚えてないよ」
「私も寝しなにビール飲んだんですけど、なんか遠足の前の日のような気持ちで、なかなか寝つかれんで」
「しょうがないよ、今日から本当のスタートなんだから」
扉が開くと、白人客の団体が乗ってきて、酒くさかったエレベーター内が、一気にオー・デ・コロンと体臭に占拠された。
「おえーーっ」
エレベーターから降りた室井は、何食わぬ顔でルームキーをフロントへ返しに行く白人達の横で激しく嗚咽した。
「二日酔いの人間のことも考えろってんだよ」
外の空気を吸ったせいか、駅の近くのセルフサービスでコーヒーを飲む店に入った時には、室井の顔色はすっかり良くなっていた。
「ホテルのスクランブルエッグもたいがい飽きたよな」
コーヒーと一緒に買ったマフィンの袋を破りながら、室井は店の奥をあごで差した。
そこには液晶テレビがあり、額から汗をしたたらせながら走るジャンクの姿が映っていた。
「このくそ暑いのに、よくやるよな」
ジャンクの両足はテーピングでぐるぐる巻にされ、黒く焼けているであろう肌はほとんど露出されていなかった。
「まあ、今年で最後だから、奴もある意味メモリアルランナーになるんだからな」
そうですよね、と一男はコーヒーに口をつけた。
「で、山田さん、今日の段取りだけど・・・」
「はい」
「四時までにはドームに入ってくれるか。
あとは、控室でゆっくり休んでもらっていて、まあ、たまに人の入り具合でも見に行ってもらって、そうだなあ、一応始まりは五時だってことになってるけど、登場は三十分くらい遅れてからでいいだろう。もったいぶって出ないと効果が出ないだろうから」
「わかりました。
そしたら、このあとホテルに戻って、ちょっと休憩して、三時過ぎに出ましょか」
「いや、俺は岬の家へ行ってくる。
今日が本当の始まりだから、奥さんに報告してくるよ」
「じゃあ、ドームで待ち合わせっていうことで」
「いや。
その後、奥さんと娘さんとで食事に行く」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。
そしたら、誰が、演説するんですか?」
「山田さんだよ。
俺は総理大臣。
あんたは官房長官。
こういう仕事は官房長官の仕事だよ。
俺は、政見放送担当だから」
室井はマフィンの残りを口に放り込むと、コップの水に口をつけ、腰を上げた。
「手土産買わないといけないから、先に行くよ」
「ちょ、ちょっと、わ、わたし、何を話したらいいんですか?」
「思っていることを正直にぶちまけてくれればいい。熱き思い、熱き思い・・・昔そんな歌あったよな、その熱き思いを思う存分語ってくれ。それだけだ。じゃあ」
室井は行ってしまった。
“岸本総理大臣は、昨日の記者団との会見の中で、今度の衆議院解散総選挙において、公明党との連立は難しいだろうと述べました”
液晶テレビの中で、餌を待つ鯉のようにぱくぱくと口を動かすキャスターに、一男は全く気がつかなかった。
頭の中は、五万の人で埋まる東京ドームのど真ん中で、何もしゃべれずに脂汗を流しながら固まっている自分の姿が占拠していた。
ギュルルルルルル
一男は極度の緊張を強いられるとクダしてしまう、そんな体質だった。
жжжжжжжжж
一男がマツモトキヨシの大きなレジ袋を持って水道橋の駅に降り立ったとき、ホームの天井にぶら下がっている時計は、四時を三十分回っていた。
ホテルを出て新宿駅に着いた途端に駅の便器を跨ぎ、マツモトキヨシに入って、なかなか紳士用おむつを持ってレジに行く勇気が持てなかった。
駅前の信号を渡り、東京ドームにつながる橋を上っていると、ちょうど、最終レースが終わったのか、専門誌やスポーツ新聞を手に持ったWINSからの帰りの客がたくさん向こうから下りてきて、有り難いことに、橋を上っているのは自分以外ほとんどいなかった。
今朝、室井と会うまでは、一人でも多くの参加者が来てほしいと願っていたのが、今は、一人でも少なく、ただそう願うだけだった。
「山田さんですか?」
ドームの入り口で、首からIDカードをぶら下げた男性が声を掛けてきた。
「室井から話は伺っております」
通路を歩いている間、二人に会話はなかった。というか、一男に人と話す余裕などなかったのだ。
「五時半過ぎに迎えに上がりますので、それまでごゆっくりとお休み下さい。
トイレは、出られて左側すぐにございますので」
控室の鏡に映った顔は青白く、少し頬が痩けてみえた。
部屋の隅の十四インチのブラウン管テレビをつけると、ジャンクが、歩いていた。
〈さあ、残り時間があと三時間とわずかだっ。
ゴールに間に合うのかっ〉
スタジオの黄色いTシャツを着た女性タレントは、泣きながら、ジャンクに声援を送っていた。
「拷問やなあ・・・」
一男はスゥィッチを切った。
部屋を出ると、トイレの前を通りすぎ、突き当たりを何も考えずに左に曲がった。
通路の幅が急に狭くなり、螢光燈は全て消え、先のほうに小さな明かりが見えた。
壁伝いに歩いていくと“関係者以外立入禁止”と書かれた扉にたどり着いた。
ゆっくりと扉を押すと、視界をまぶしい緑色が占拠した。
足を踏み出した一男は、柔らかい芝生の感触を足の裏に感じながら、目の前に拡がった光景に唖然とした。
誰もいないグランドを取り囲む観客席に、立錐の余地がないほど人が埋まっていた。
ギュルルルルルル
一男は踵を返した。
何度呼びだし音を鳴らしても、室井は出てこなかった。
「弱ったなあ・・・」
一男は諦めて携帯電話を切り、トイレットペーパーに手を掛けようとしたとき、入り口の扉が開く音がした。
「すげえ人だよなあ」
一男はそっとトイレットペーパーを回した。
「まだ入り切れない人がいっぱい待っているみたいだぞ」
違う声が言った。
「外野の芝生を開放するみたいだぞ。優に五万人は超えてるよ」
ギュルルルルルル
一男はトイレットペーパーから手を離すと、額に滲んできた脂汗を肘で拭った。
控室に案内してくれた男性から少し遅れて通路を歩く一男のへそから下には全く力が入っていなかった。
「すごい数の人です。
室井に報告を入れると『あとは山田さんに任したよ』と言っておりました」
一男の耳には全く入らなかった。