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室井との再会

 そこのロビーに六時っていうことで。あそこに入っている中華がまたうまいんだよ」

「わかりました」

「あとこれ、タクシーチケット。

 ここからだと二十分も掛かんないから」

 すいません、と言って一男はチケットを受け取った。

「六時まで少し時間があるけど、歌舞伎町でも行ってくれば。

 こっちの女の子の質は大阪よりは絶対に上だから」

「いえいえ、そんな元気はないですから、部屋でゆっくり大好きなテレビでも見ときますわ」

「ははあ、そりゃいいや。

 じゃあ、申し訳ないけど、俺行くんで」

 どうも有り難うございました、と言って頭を下げた一男に室井は振り返って聞いた。

「山田さんさぁ、あの時は本当に、触ったの?」


  4

 室井は待ち合わせの時間に二十分遅れてやってきた。

「どうでした歌舞伎町は?」

「いえいえ、缶ビール一本飲んだらええ気持ちになってもうて」

 エレベーターはあっと言う間に二人を階上に運んだ。

「何でも好きなもの注文してくださいね」

 五目炒飯が二千円するのを見て、お任せします、と言って一男はメニューを閉じた。

「食べ物は大阪がうまいですけど、ここのは本当にうまいですから」

 確かに、次から次へと出てくる中華料理は、何を食べても美味しかった。

 二人で紹興酒の750ミリリットルのボトルをあけ、デザートの杏仁豆腐が出てきたとき、室井はやっと、昼間のミニスカートの喫茶店で話していた続きを口にした。

「山田さんさぁ、あんた、どこまで覚悟はできてる?」

「やるだけのことはやろうと思ってますけど」

「家族は?」

「嫁さんが・・」

「働らいてんの?」

「いえ」

「子供は?」

「娘がいましたけど、二年前に亡くなりました」

「あっそう。

 女の子か、岬んとこと一緒だな。

 可愛かった?」

「ええ」

「そうか・・・。

 ちょっとじゃあ東京の夜に繰り出そうとしましょうか。

 せっかく来てもらったんだから、少しは楽しんで帰ってもらわなきゃねえ」


「イラッシャイマセ」

 室井に連れられ店に入ると、暗がりからいきなり十人くらいの背の高い白人女性の集団が現れた。

 みな、ファッション雑誌からそのまま抜け出てきたモデルみたいで、一男は上から見下ろされていることもあって、紹興酒で酔っていたにもかかわらず、少し緊張した。

 室井は常連らしく、「ムロイサン」とファッションモデルのようなその女の子達みんなから天使のような笑顔を振りまかれていた。

「大阪にはないでしょ?」

 室井は煙草に火を点けながら言った。

「ええ」

 一男は、まだ、地に足が着かなかった。

「俺もさあ、ピンサロだとかさ、キャバレーだとかさあ、最近じゃあキャバクラなんかも嫌と言うほど行ったけど、なんて言うかいい加減飽きちゃったって言うか、キャバクラなんかも確かに若くて綺麗な子も多いんだけど、まあ店の教育が悪いのか、本人の前頭葉が溶けてなくなっちゃったのか知れないけど、お客を喜ばせようという気が全く感じられないんだよな。

 中には俺達より稼いでる子もいるのにさ、高い金払って遊びに来ている俺達が気を使って場を盛り上げようとしてさ、それおまえ達の仕事だろって言いたいんだけど、言っちゃうと場が白けちゃうから言わないけど、何か疲れちゃって。

 確かにあの子達も本当はちゃんとした会社で働きたいんだろうけど、今みんな結婚しないから、どこの会社だって、お局さんだとか、たとえ結婚して子供ができたって、景気が悪いから、退職せずに、子供生んでから復帰しちゃったりするから、入っていくスペースがないんだよな。

 山田さんもご存じだと思うけど、今、日本の会社で若い女の子がお茶を出してくれる会社なんか一社もないからね。

 でも、たとえアルバイトでも、金をもらっている以上はプロ意識を持ってやってもらわないとこまるんだけどね」

 一男は室井の雄弁さに感心して聞き入っていた。

「その点、ここの女の子はさ、純情って言うかさ、けなげって言うかさ。

 けなげ・・・いい言葉だよね、文化・・・についでいい言葉だよね」

「ロシアとかあのへんの女の子ですよね?」

「そう。

 あと、ルーマニアだとかモルドバだとか・・・」

「モルドバ?」

「ルーマニアとウクライナの間にある米粒みたいに小さな国なんだ。

 みんな、ソビエト連邦が崩壊するまでは、ほとんどの子が本物のモデルで、そこそこにいい暮らしをしてたみたいだけど、崩壊後は食べていくだけでも大変みたいで、それで日本に出稼ぎにやってくるんだ。

 ただし、彼女達はちゃんとした何か、プライドって言うんじゃないし宗教って言うもんでもないんだけど、とにかく何かを持っているんだ。だから、体は売らない。この店も基本的にはお触りはNOだ。

 初めてこの店に来たとき、俺に付いたナターシャという女の子が言ったんだ。『ニホンジンノジョセイケッコンノマエオトコトネル シンジラレナイ』って。

 貞操・・・いい言葉だよ。“文化”にも“けなげ”にも負けないくらいいい言葉だよ。

 日本の女性が失ってしまったものをこの子達は持っているんだ」

 喋りすぎて喉が渇いたのか、室井が、テーブルの上のミネラルウォーターの瓶を口に加えたとき「コンバンワ」と言って、二人の女の子が現れた。

「ナナデス」

 握手した手は少し力を入れるとズルっと皮が剥けてしまいそうなくらい柔らかかった。

 室井の横には、百九十センチはありそうな、体にピッタリと貼り付いた黄色いTシャツの下からへそを覗かせている女の子が腰を下ろした。

 室井は何の躊躇もなくその子の頬にキスをし、肩に回した腕を伸ばして、胸を揉んだ。

 一男は室井の言う“お触り”の意味がわからなかった。

 ナナの作った水割りで乾杯すると、室井の横の女の子は「ウタ、ウタ」とマイクを持つふりをして、室井の手を引っ張ると強引に小さなステージのほうに行ってしまった。

 ナナは透き通るような白い手で、ワイングラスに入ったチョコレートの透明の包みをむき、一男の口の中に落とした。

「オイシイデスカ?」

「おいしい」

「ウタワ?」

「NO」

 どこの国とどこの国の人が話しているのかわからない会話だった。

 室井が歌をうたい終わって戻ってきたとき「シメイ」とナナは一男に聞いた。

「か、ず、お」

 ナナは、?という顔をした。

「か、ず、お。

 ワカリマスカ?」

「違うよ」

 室井がおしぼりで熱唱の汗を拭きながら一男の顔を見た。

「氏名じゃなくて、指名。

 この子達にいくらか入るシステムになってるんだよ」

 はっはっはっ、一男は久しぶりに声を上げて笑った。

 二人の女の子は、わけがわからず、ぽかんと言う顔をしていた。

「OK、OK 」と、室井が換わりにナナに笑顔を送った。

「山田さん、さすが大阪の人だよな、ボケがうまいねえ」

「いえいえ、ほんまにわからんかったんですわ」


 二曲目の歌をうたい終え、テーブルに戻ってきた室井がウェイターの男を呼び、何か二言三言耳元で告げると、ウェイターは二人の女の子の肩を叩き、何語かわからない言葉を掛けた。

「酔っ払ってしまう前に俺の考えてることを言っとくよ」

 二人の女の子は立ち上がり、サヨナラ、と言って手を振り、店の奥に消えていった。

「俺はさあ、山田さん」

「はい」

「政権を取ろうと思っている」

 一男は持っていたグラスを落としそうになった。

「冗談じゃないんだ」

「は、はい」

「もし、キャンペーンをはってたまたまうまくいって世の中がそういう風潮になっても、時間が経てばまたもとの木阿弥に戻るような気がするんだ。

 だから、法律で縛ってしまうんだ。

 そのためには政権を取らなきゃいけない」

 そうですか、と一男は気の抜けた返事をした。

「まず、デモをやる」

「どうやって呼びかけるんですか?」

「ネットに流す」

「週刊文衆は?」

「今、一番宣伝効果があるのはネットだ。

 俺は正直、あまりネットってのは好きじゃないんだ。顔が見えないから気持ち悪い」

「私もそうです。

 今時、家にパソコンがありません。

 会社におるときはしょうがないから使うてましたけど、会話のなくなったオフィスが気持ち悪うて」

「この世の中からテレビを無くすためにはしょうがない。

 もしうまくいって、政権が取れたときは、付き合いかたをまた考える」

「デモはいつやるんですか?」

「愛は地球を救う」

「二十四時間テレビですか?」

「さすが大阪人、頭の回転が早いよねえ」

「どうしてなんですか?」

「特に理由はないんだけど、なんて言うかなあ、テレビの一大イベントに敢えてテレビを無くそうというデモをぶつけたいなと思ってね」

「向こうはどう動きますかねえ?」

「おそらく、見て見ぬ振りだろう。

 NHKくらいは取材に来るだろう。あと海外のメディアとかはね。

 まあ、それは別にいいんだ。デモの様子は次の日にネットで流すように手はすでに打ってある。

 逆にあまり騒がれないほうがいいだろう。

 デモへの呼びかけも三日前からしか流さない。あまり日にちがあると、それだけ妨害を受ける可能性も高くなるしな。今日もここへ来る前に早速電話があったよ。

『えらい頑張ってはんなあ』って」

「ヨシモトですか?」

「まあ、そんなとこだよ」

「岬さんの時も?」

「テレビがなくなって最も影響を被るところって言えば絞られてくるからな。

 いずれにしても、そんなすんなり事が運ぶとは思っていない。とにかく、どれだけデモに人を呼べるかだ。それにつきると思う。まだ、三カ月あるから、誌上でのキャンペーンは徹底的に行なう。社の全面的協力も取り付けてある。俺達と同じ考えの人間が絶対にいるはずだから、気持ちをこっちに向けさせておいて、それを行動に移す力にいかに変えるかだ」

「もしうまくいかへんかったときは?」

「すぐに手を引く。

 やり直しは効かないと思う。

 うまくいった場合も一年でカタをつける。

 時間を掛けすぎると人の気持ちってのは冷めてしまう。特に日本人はその傾向が強い」

「と言うことは、八月の衆議院解散をにらんで・・」

「あんたやっぱり頭いいなあ。さすが日本を代表する商社の営業部長をやってただけのことはあるよ」

「自民党と民主党が激しいやり合っている隙をついて・・・」

「そう。

 消費税十五パーセントなんか絶対に通るわけないよ。と言って民主党がそれに換わる代案を出せるわけないし、税収が足りないって言うのはみんなわかってて、自民党は本当は宗教法人から取りたいんだろうけど、公明党がいるから間違っても口には出せない。

 そうなると、また自民党と民主党の間で足の引っ張り合いが起こるだけだ。

 久しぶりに国政に興味を持った国民は、またいつもの泥仕合を目の前で見せつけられる。

 そこへ、本当にこの国の将来を憂い、本当にこの国をよくしたいといった信念、信念・・・いい言葉だよなあ、その信念を持った俺達が突然白馬に乗って現れる。

 ポマードで髪を後ろになでつけ、何かを企んでいるように目をギラつかせている国会議員ではなく、そこらへんのどこにでもいそうな只のおっさんが、希望に目を輝かせているんだ。

 国民は、何かすごい清爽な、ピュアなものを見た気持ちになる。毎日ステーキばっかり並んでいたテーブルにいきなりお茶漬けが出てくるんだ。食いつかないはずはないよ」

「せやけど、いきなり衆議院の過半数取るゆうたら・・・」

「ネット会社からは資金の提供はいくらでも惜しまないと言ってもらっている。しかし、まだ、俺達のことを支持してくれる人の頭数が足りない。年収五億の人間も五百万の人間も投票できるのは一票だけだからな。

 だから、企業、それもこれまでテレビ局に莫大な広告料を支払ってきたいわゆる、大企業、の支持を取り付ける必要がある。

 その為には、テレビがなくなったときに被るデメリットを上回るメリットを提示してあげなければいけない。

 しかし、それはだいたいできているんで、また、いつか説明するよ」

「あとは反対派ですよね?」

「テレビ局、芸能プロダクション、あなたの大好きなヨシモトも含めた芸能人、こんなところでしょ。大した頭数じゃないですよ。只恐いのは、実力行使だけだよ」

「実力行使ですか・・・」

 グラスの中の氷がカランと鳴った。

「あと問題なのは、テレビがなくなることへの国民みんなの不安感だ。

 なんだかんだ言ったって、テレビは完全に俺達の生活の一部になってしまっている。

 どんなに貧しい家でもテレビの無い家などこの国にはないだろう。それが明日から見れなくなりますっていったら・・・」

「私も東京で単身赴任してたとき、来て間なしの時、なかなかテレビを買いに行く時間がなくて、一週間だけテレビ無しで暮らしたんですけど、とにかく部屋におっても手持ちぶさたで、何か落ちつかへんかったん覚えてますわ」

「これまで選挙に行ったことのない奴までが、テレビがなくなるのだけは御免だって投票所へ行かれると厳しいものがあるんだよな。

 あと、ワイドショーとサスペンスドラマを生き甲斐にしている主婦層の抵抗もかなりきついだろう」

「バラエティー番組が見られへんようになる子供らも騒ぐんちゃいます?」

「ああ。

 だけど、あいつらには選挙権がないから。」


 タクシーから見る東京の空は白みかけていた。

 女の子をテーブルに呼び戻してから、室井は七曲歌い、ブランデーのボトルが空になり、一男はずっとナナの手を握り締めていた。

「山田さんよ」

 眠っていた室井が体を起こした。

「いいだろ、東京って」

「そうですよね。

 なんか時間の密度がむちゃくちゃ濃いですよね」

「これからもっと濃くなるよ」

 室井は煙草に火を点けると窓を少しだけ開け、運転手に、この曲好きだから、と言って昭和三十年代の歌謡曲のボリュームを上げさせた。

「俺は本当に真剣だから」

「わかってます」

「岬が死んだとき、娘さんが、まだ中学生だったよ、セーラー服を着てた。

 俺、あれくらいの年頃の女の子って持ったことないんだけど、ちょうど思春期で反抗期の頃だろ。極端な話、自分のおやじが死んだって、案外冷めてんだろうなって思ってたんだ。それがさ、式の間もずっと目を腫らして泣いていてさ、出棺の時になったら、棺にしがみついて泣き崩れちゃって。

 おれ何度も言うけど正義感が強いだろ。だから、その時、絶対に岬の意志を受け継いで成し遂げてやろうって思ったんだ」

 はあ、と酒くさい息を吐き出した室井は、目を瞑ると、腕を組み、起こしていた体をもう一度シートに沈め、口を開いた。

「娘さんは?」

「白血病でした」

「悲しかった?」

「未だに、夢を見ているみたいで」

 室井は目だけを開けた。

「無理強いはしないから、大阪にかえってよく奥さんと相談して、本当に一緒にやってくれるんだったらまた電話くれよ」

「はい」

「俺が総理大臣になったらブレーンになってくれよ。あんた頭いいから」

「ありがとうございます」

「これは夢じゃないからな」

 室井は、ははあと笑うともう一度目を瞑った。

 一男は窓の外に目をやった。

「そうだ、あと一つだけ」

 室井は口だけを開いた。

「なんですか?」

 高層ビルの間を飛ぶカラスを見ながら一男は聞いた。

「俺さあ、実は、チョンガーなんだ」


  5

 気象庁が梅雨入り宣言をしてから一週間続いた晴天の日の午後、一男は一通の簡易書留を受け取った。

「ごくろうさん」

 額に汗する郵便局員に労をねぎらった一男は、部屋に戻ると、扇風機の生暖かい風を受けながら、差出人の名前を見た。

“藤原典子”

 一瞬誰かと思ったが、すぐに、妻の、“典子”だとわかった。

 消印は実家の京都になっていた。

 ハサミで封を切ると、中から、銀行のキャッシュカードと便箋と、トレーシングペーパーのような薄い紙が出てきた。

“元気でやってますか。

 千代美の三回忌にも行けなくてごめんなさい。

 私は今実家の近くにアパートを借りて、生まれて初めての一人暮しを始めたばかりです。

 これまであんたに食べさせてもらってきたことを感謝しています。近くのスーパーでレジのパートを始めたけど、一万円稼ぐのがどんなに大変かようわかりました。

 今回の件は、あんたに初めて手を上げられたからじゃなくて、ずっと前、千代美が亡くなった頃から考えてました。

 毎日、家でごろごろして、しょうもないテレビ見て笑ってるしか能が無いって思われるのが嫌でした”

「そんなことないって」

 一男はため息と一緒に漏らした。

“お金無くて苦労したと思うけど、このカードの中に全部入っています。家のローンとか光熱費が全部ここから落ちるので、残高はまめに見てください。一人暮しするのにいろいろと掛かったんでなんぼか下ろさせてもらいました。慰謝料やと思ってください”

「慰謝料!?」

 一男は薄い紙を拡げた。

“名前書いてはんこ押して区役所へ持っていってください。面倒くさかったら、書留に書いてある住所へ送り返してください。こっちで処理します”

 一男は便箋を投げ捨てると受話器を手にとった。

 しかし、呼び出し音がずっと鳴り続けるだけだった。


   жжжжжжжжж

 ジャンクは、もう少しまともな待ち合わせ場所はなかったのかと社長の峰を恨んだ。

「あれ、ジャンクやんけ」

「ほんまや。案外背え低いやんけ」

 目の前を通り過ぎる通行人が次々とこんな言葉を吐いていった。

 しまいにはキャバレー『サン』の呼び込みのにいちゃんまでが「おい、サインくれよ」と背中をつついてきた。

「ちょっと待ち合わせしてるから」と訳の分からない言い訳をしたとき、すぐ横を走る千日前通りからクラクションの嵐が聞こえてきた。

 見ると、違法駐車と客待ちしているタクシーでつぶれてしまっている二車線のさらに外側の三車線目にベンツが止まり、後続の車が渋滞を起こしていた。

 ドアが開き、草色のダブルのスーツを着た男が降りてきた。

 峰社長だった。

「すまんすまん」

 声の大きさとスーツの色に通り過ぎる人はみな峰を見た。

「場所ようわかったのう」

「社長、千日前のキャバレー『サン』の前での待ち合わせだけはやめてくださいよ。僕やからわかったものの他の人やったらわかりませんよ。それに、一応僕も売れっ子なんですから、今度からはもう少し人通りの少ない、例えばホテルのロビーとかにして下さいよ」

「アホか、大阪の芸人は庶民に可愛がってもらってなんぼやないかい。キー坊見てみい、あの歳なってもみんなに可愛がってもらえるいうのは庶民を大事にするからやないか」

「まあ、そうですけど・・・」

「そんなことより、鯨食べよ、鯨」

 説教は垂れるけど、ネチャネチャ言わないこういった社長のさっぱりしたところがジャンクは好きだった。

 人混みを少し歩き、辻を一つ右に折れると、そのビルはあった。

「“徳家”言うてな、鯨の専門店なんや。

 ここのはりはり鍋が最高なんや」

「はりはり鍋って?」

「行ったらわかるわ」

 暖簾をくぐると、カウンター、テーブル、座敷、の全ての席が客で埋め尽くされていた。

“予約席”と書かれたプラスチックのプレートがおかれた店の一番奥にある個室のテーブル席に通されると、峰社長は案内してくれた着物姿の店員に「はりはり二人前と生二つや、すぐ持ってきて」と言った。

「高そうな店ですよね」

 個室に入る前に見渡した店内は“出勤”前の“同伴”の客が大半で、家族連れの客など一組もいなかった。

「ようさん稼いでんのにセコイこと言うな」

 生ビールで乾杯すると、はりはり鍋が運ばれてきた。

「これですか?」

「そうや」

「なんではりはり言うんですか?」

「この山盛りの水菜あるやろ、これをはりはりって言うんや。

 俺ら子供の時は家でよう食ってんけどな。まさか、こんな高価なものになるとは思わんかったわ」

 山盛りの水菜の陰に、かたくり粉をまぶした鯨の赤身が、カレーライスに添えられた福神漬けのようにそっと身を寄せていた。

「今何本レギュラー持ってんねん」

 峰社長は、キャラメルのような小さな餅を脇によけると、皿に入っている水菜と鯨の赤身を、煮立っている鍋の中に一気に放り込んだ。

「四本です」

「えらい売れてるやんか」

「社長のおかげですわ」

「全国ネットは?」

「いえ、まだないんです」

「やりたいか?」

「ええ、そら・・・」

 その時、失礼します、と言って和服姿の女将と思しき女性が入ってきた。

「社長、いつもすんません」

 女将は軽く一礼すると、峰社長にグラスを渡し、ビールを注いだ。

「女将、こいつ誰か知ってるか?」

「さあ、テレビかなんかでお顔は拝見したことあるような気はするんですけど・・・」

「はっはっはっ」

 峰社長は下品に笑った。



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