開かない扉の壊れた鍵
教室を出た俺の目の前――、いや、より正確には、真正面斜め下に、狐がいた。
まあ、狐って言っても、本物じゃなくて、神社とかでお払いされていそうな能で使う用の木のお面の狐だが。
そういえば、十月は今日で最後だ。ハロウィンの何かかなって最初は思ったけど――。
ってか、そもそも、中学校にどうやって忍び込んだんだ? この、俺の身長の半分しかないようなちびっ子は。
興味は惹かれた。ごく僅かに。
しかし、こんなわけの分からない女の子を追いかけられるほどの主人公補正は、俺には無かった。
人生とは、無難に設計するに限る。なるまでが大変だけど、なったら後は無能でも楽できる公務員を目指し、教師や両親の指示をバッチリ取るつけるのが俺の哲学だ。表面上だけでも素直な良い子を装えば、煩いことも言われずに楽に過ごせる。
結果が変わらないなら、過程では権力のある誰かの言いなりになって、自分以外に責任転嫁できる身分でいたい。
だからこんな、謎の狐面の女の子を追いかけるなんて、非日常的なこと、俺は――。
「いいの?」
小学生――しかも、低学年にしか見えない、狐面の女の子が、俺の心を読んだかのように訊ねてきた。
例に、心の中で『なにが?』と、問い掛けてみる。
「ウチを無視したら、死ぬよ?」
返って来たのは、物騒な台詞だった。
ネタなのか、霊的な何かなのか……。
最後の一線で信じきれていない俺の横を――、なにも知らないクラスメイトが、女の子をすり抜けて帰っていった。
残念ながら、どうも俺はホラーチックな世界に足を踏み入れてしまったらしい。
最悪だ、と、心の中で呟けば、怒ったのか、女の子は教室前の階段を駆け上がって視界から消えてしまった。
追いかけるべきか、無視して日常に戻るべきか……。
迷っていたのは、短い時間だった。
どこまで本当なのかは分からないけど、いや、だからこそ、今は狐面の女の子を追いかけてみようと思った。
まだ、十四歳の身空で天に召される気は無い。
俺が望んでいる無難な人生の一歩目さえまだ踏み出していないような状況なんだから。
階段を駆け上がる狐面の女の子の背中を追う。
霊的な何かっぽい雰囲気を出しているっていうのに、女の子は和服じゃなかった。普通の――いや、小学生の女の子の私服に詳しくは無いんだけど、特に古風な印象あふけない、普通の上着とスカートをはいている。
ませたちびっ子にからかわれているだけなのかな、なんて思いながらも、どんどん階段を上がっていく。
二階の、三年の教室。
三階の、一年の教室。
四階の、美術室や音楽室なんかの特別教室。
その上の――。
屋上へと続いているはずの鉄の扉。
女の子の姿は、どこにも無かった。
念のため、屋上に続く扉のノブを回してみる。
扉は、開かなかった。鍵が外れていないのかと思って、トイレのノブについているようなつまみをひねってみるけど、壊れているのか、それとも大人に壊されたのか、うんともすんともいわなかった。
開かない扉の壊れた鍵が、俺の進路を遮っている。
こじ開けて進むか、引き返すか……。
ごくごう平凡でモブな俺には、居るという確証もないのに、鍵をこじ開ける勇気は無い。
なにも見なかったことにして、昇降口へ向かおうとすると――。
階段の踊り場の窓の向こうに、あの狐面の女の子が浮いていた。
驚いてはいるけど、それ以上に……。
「はぁ~」
溜息をついた俺に、狐のお面が投げつけられた。
けれど、それは俺の胸をすり抜けてどこかへと消えていってしまった。
「トイレの花子さん?」
「随分と古典的ね」
実は、ボブカットで二重瞼だった女の子が、ツンデレチックに答えた。
霊的な何かとはいえ、意思の疎通は出来るらしい。幸か不幸か。
まあ、意思の疎通が出来るから、パニックにならずに会話が出来ているとも言えるんだけどね。
「ウチは、お化けじゃないよ」
じゃあなんだ、と、澄まし顔の女の子に心の中でつっこめば「キミの心の一部かも」なんて、返事が返ってきてしまう。
……ってか、それはそれで、余計に問題なんじゃないだろうか?
人生設計をする上で。
しかし、女の子は全てを見透かしたような声で告げた。
「流されるだけの人生なんて、いつか壊れるよ。本当にいいの? それで」
俺にもし姉さんがいたら、こんな感じなんじゃないかなって思うような、絶対的な威厳に満ちた声だった。
見た目はちびっ子なのに。
確かに、身につまされる話ではある。
でも――。
「じゃあ、どうしろって言うんだよ。これまでの学校運営の蓄積だかなんだか知らないけど、全部ががんじがらめで、窒息しそうになるこの場所で、素直に流されてやる以外の、なにが出来るって言うんだよ」
子供っていう時期は、不幸でしかないと思っていた。
両親や教師、そういった、人生の敗残者の理想を押し付けられる。成績がちょっとよけよかったり、内気だったら尚更責任も取れないくせに強気に出られて、受ける高校を勝手に選ばれてしまう。
もし……。
キミが、絶対的ななにかなら答えを示して欲しい。
そう願って強く見つめるけど――。
女の子は、何も答えずに目の前の窓の向こうの青空へと沈んでいった。
手を伸ばしても届かない。
ほんの一瞬で、なんの証も残さずに彼女は消えていた。
唯一残ったのは、俺の心の中にある現状への違和感だけ。
あの女の子を追いかけて、青空に沈むことが出来たら俺も自由になれるんだろうか?
窓に手を触れる。
けれど、屋上へと続いていた扉の鍵が壊されていたのと同じように、この窓には鍵が無かった。
俺には、不自由な今しかない。
あの子とは違う。
どこか、自嘲めいた笑みが口の端に浮かんでいた。
一呼吸だけの間を置いて、俺は今日から続いている明日へと向き直って階段を降り始めた。