第1話
モンスター、なんてものを見た事がある人はいるだろうか。
最近では噂のクトゥルフ神話なんかで出てくる異形な存在の事だ、皆もよく知っているプレデターやら超宇宙的生命体。火星からこんにちはーなんて感じで出てきそうなそういう類のモノ。
無論、俺は見たこと無い。見たことが無かった。
俺も作家の端くれ、そりゃー想像したことはある。この世のどっかにはそんなメルヘンでファンタジックな存在かいるかも、なんてな。
結果はどうだ? 年中机にかじりつき、せっせと走らせているのはペンだ。一体どこにモンスターと出くわす要素がある? 否、断じて否だ。
つまりはだ。そんな存在はいる訳もないし、そういう事を考えてる奴は脳内の妖精さんと楽しく喋っていろ。というのが、俺の知る社会な訳で。社会に順応し、そんな存在は脳内にいるだけで現実にはありえないと、俺は歳をとってようやく理解した。
いや、昔から気づいてただけかもしれない。ただ信じず、そんな妄想を紙に記し、あたかもそんな世界がありますよー、なんて世に出している。できるならそんな世界がある、と思っている他の一般市民に向けての娯楽提供だ。
そしてそんな世界があると思っている人はこう考えるだろう。
俺もこんな世界に生まれたかった!
勇者になって、美女と旅して、あわよくばエロい事をしたい!
なーんて考えているのではないだろうか。作家である俺がそう思うのだから、読者もそう思うに違いない。
そんな妄想世界を考えて大人になって、嫌いな上司に頭を下げて、嫌いな取引先に頭を下げて、酌をついで、それが嫌になって作家になった俺が、何故だろう。
一面に広がる草原に立っていた。
時は遡り三〇分前。
連載していた作品が念願のフィナーレを迎えたにも拘らず、俺は一息つくまもなく新作のネタを考えていた。
向かったのはワンルームマンションに備え付けてあるトイレ。
トイレは何故か落ち着く。俺は別に用を足す訳でもないのに、考える人よろしく、洋式の便座に座っている。
紹介が遅れたようだ、俺は四十住 蔵人。残念ながら実名だ。
こんな名前だもんで、作家名も実名を使っている。
なんとか執筆活動だけで生計が立てられているぐらいには売れている。が、常に部屋に篭もりっぱなしの男だ。今更就職活動をしようにも、職歴に五年間小説家をしてましたーなんて書ける訳もなく、作家をせざるを得ない状況の為、執筆していると言っても過言ではない。
その為に今、こうして天からアイデアを授かろうとトイレに篭ったもののまーったくと言っていいほど、アイデアが湧かない。まぁ天を見上げてもいるのはトイレの神様ぐらいなもので、ある意味では仕方ないのかもしれない。
「ミステリーは書いた。――ファンタジーにでも手をつけようか」
誰にでもなく呟き、思案する。
なぜ自ら苦手ジャンルを口に出したか、それは目の前にあるポスターが原因だ。
現実ではまずお目にかかる事はできないであろう、天に届きそうな塔、不自然なまでに複雑な枝模様の木。
まさにファンタジー世界の様な絵が書かれたポスターである。
だがファンタジーというのは書くのが難しい。
昔一度書いたが、風呂敷を広げ過ぎた結果、途中でペンを投げた。
その結果、ミステリーに落ち着いたは良いもの、もう犯行トリックを頭から捻りだせなくなってしまった。そりゃあ俺も考えた、だが先人に開拓されすぎた。自分で考えるにも限度があるというものだ。
いや待て、こう思ったのはまさに天から授かったのではないだろうか。
思いたったが吉日、久しぶりにファンタジーを書こう。編集に通せるかが問題ではない、書けるかどうかが問題だ。
俺は一人納得し、トイレを後にした。
◆◆◆
ファンタジーなのはお前の頭だ? 嘘はいけない、じゃあ俺の目に映っているのは一体全体何なんだ?
事実は小説より奇なり。
トイレを出た俺の目に映ったのは草原。
そんなどこにでもありそうでなさそうな作家の生活サイクルがどこへいったのやら、俺は確かに草原に立っていた。
俺は動揺し過ぎて、言葉すら出なかった。おそらく女性が痴漢にあった状態と似ているのだろう。人はあまりにも驚くと声すら出ないらしい。
もし俺が会社員ならば、仕事どうしよう、会議に間に合わない、これは夢なのか、なんて考えたのかもしれない。
俺は身を屈め、草を千切って手に取る。草はやがて風に誘われ、俺の手から離れていった。
間違いない、ここは異世界だ。
断言するのに、そう時間はかからなかった。
手にとった草の感触、しばらく嗅いだ事のなかった片田舎の様な匂い、風に吹かれ襟足が首筋を掠るくすぐったさ。その全てが現実だと俺に語りかけ、つい先程までいたはずのワンルームマンションでは無いことを悟らせる。
俺は思わず駆けた。
そりゃそうだろう、男ってのはいつまでもガキなんだ。
人間、箱詰めにされても元気でいるコツはガキのままでいる事だ。少年心を忘れた時、人は老いたという事を初めて認識する。
草原をただただ走る、社会の理なんて忘れてただただ走る、青空を飛ぶ鳥を追いかける様に、我も忘れて走る。
当たり前だ。こんな非現実的な事に出くわしたんだ。走りたくなる気持ちも察してもらいたいものだ。
どれくらい走ったのだろう。トイレを出た位置はもう覚えていない。
だが不思議な事に、俺は全くと言っていいほど疲れていなかった。
いくら心はガキのままでも、体はもうオッサンだ、二五歳だ。これだけ走っても疲れないなんてのはありえない。
年甲斐も無くはしゃいだ割には衰えが見えない。これは異世界だからだろうか。
学生時代、俺はスポーツというものが苦手だった。
将来一切スポーツなんぞするわけないにも拘らず、やれサッカーだ、やれバレーボールだ、などと教師の言いなりになってやらされたらそりゃあ文化系の人間にはたまったもんじゃあない。
額の汗を手で拭う、そこで気づいた。
右手の甲に紋章が浮かんでいた。紋章というのが合っているのかわからないが、現実世界のトライバルの様なものと思ってもらいたい。
はてさて、俺はいつ親からもらった大切な身体に傷をつけたのだろうか。
俺は髪は大切にしている、ピアスも開けたことはない。
いくらこすっても消えない紋章、ムキになり力を入れようと身を屈めた時、久しぶりに浴びていた光に影が差した。
いや、少し語弊があった。俺の二倍三倍とデカイ影が俺を覆っていたのだ。
緑色の醜く太った身体、俺の太ももぐらいの太さの腕、携えた棍棒、出来物まみれの顔にえらく鋭い八重歯をむき出しな口。
「お、お宅……どちら様?」
間抜けな質問だ。普通分かるだろう。
「ウアァ、ヴアアアッアァアアァ!」
雄叫びと共に、俺めがけて振り下ろされる棍棒。
その軌道が何故か見える俺には避けるのは可能だった。
で、ですよねー。食べちゃうぞ、がおー。って顔してますもん。ええ、なんとなく分かってましたとも。
しかし、ここに来て身体能力が向上していたのが幸いした。
遅く振り下ろされる棍棒を交わしてホッとする。現実世界の俺ならまず最初の攻撃で真っ赤なトマトと化していただろう。
それでもだ。百歩譲って、避けれるのはいい。
俺に攻撃手段がない。これが問題である。
こーんなゲームの始まりの街周辺で出くわしそうなモブを倒せないのでは、逃げることができても落ち落ち寝てられない。
最早この異世界に順応してきた俺は、そんな事を考えていた。
非現実的だとは思うが、順応し、適応し、あるがままを受け入れなければ、サラリーマンが勇者になるのと同義だ。来てしまったものはしょうがないと、腹を括るしか無い。
「――逃げて下さい。旅のお方」
何時から、いやどこから出てきたのか、俺の横をすり抜け、ゴブリンの懐へ飛びこむ少女が見えた。
聞き慣れない甲高い音と共に弾け飛んだ少女は、ゴブリンの断末魔の叫びすら聞こえぬ間に、その巨体を地に伏せさせた。
剣を納め、ゴブリンに背を向ける少女。
少し遅れてその長い金色の髪が宙を舞う。
「お怪我、ありませんか?」