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奥義

 その日、寅之助は仕事がほとんど手につかないくらい、非常に気落ちしていた。

 なぜなら、前日にみなみから新婚早々1年間、大阪に研修に行く件について、相談を受けたためだった。寅之助としては、結婚したらたくさんみなみとラブラブしたいと楽しみにしていたため、結婚早々に1年間も別々に暮らす事になるとは、全く思いもよらない試練だったため、非常にショックを受けたのだった。

 しかも、その研修はみなみが随分前から受けたかった、とても大切な研修だと聞いて、断って欲しいとは言えなかったのだった。



「珍しいね? いつも仕事の早い三上君が、今日は残業かい?」

 

 と、寅之助の上司の林部長が、気が抜けてしまって何もする気が起きない、といった様子の寅之助に声をかけた。



「ええ、まあ……」

 

 と、寅之助は気の無い返事をした。



「どうしたんだ? 今日の三上君は魂が抜けたみたいになってるぞ!

 なんかあったのかい?」


 と、林部長が心配して聞いた。



「なんでもないですよ! 僕のことはほっといてください!」


 と、寅之助が機嫌悪く、声を荒げた。



「おい、おい……本当にどうしたんだ? 

 今日は本当に、いつもの三上君らしくないぞ!」


 と、林部長が寅之助の事をますます心配した。



「僕だって人間です。こういう日もあったっていいじゃないですか!」


 そう言ったかと思うと、寅之助は必死でかけていた感情のブレーキが外れてしまったかのように、デスクにうつ伏して泣き出した。


「うっ、うっ、うっ、うっ……

 すみません、部長。やつあたりしました……うっ、うっ……」



「仕事は、今日はもういいから……」


 と、林部長は優しく言った。

 林部長は、10年前に寅之助が入社した時からの直属の上司で、寅之助の誠実、実直な仕事ぶりに厚い信頼を置いていた。

 いつも無表情でクールな仕事の出来る寅之助が、今日は朝から、明らかに様子がおかしい。いつもは機械みたいに正確、迅速、的確な寅之助が、こんなに人間らしく感じたのは入社以来初めてだった。



「うっ、うっ、うっ……ありがとうございます……部長……男はつらいですね……」


 寅之助が、寅さん? みたいなセリフを吐いた。



「今から飲みに行こうか? そこでゆっくり話聞くよ」


 と、林部長が寅之助の肩に手をかけながら聞いた。

 


「僕はお酒弱いから飲めませんけど……」

 

 と、寅之助が答えた。



「そうだった。悪い、悪い。食事でも行こうか?」


 と、林部長が聞きなおした。



「ありがとうございます……それではお言葉に甘えてそうさせてもらいます。

 もう今日は、仕事できそうにありませんから……」


 と、寅之助が部長の誘いに感謝しながら返事をした。


      ♡

      ♡

      ♡


「そうかぁ~…… それは可哀想に……なんともかける言葉が見つからないよ……」


 と、林部長が寅之助の話を聞き、心から同情して言った。



「僕は男として、今までは自分はそこそこ度量の大きい方だと思っていたんです。だけど今回の事で、自分が本当はちっぽけな男だって事に気付きましたよ」


 と、寅之助がウーロン茶をぐいっと飲んで、テーブルにコップを置きながら言った。



「全然、そんな事ないじゃないか。

 彼女に大阪に1年間の研修に行っておいでって、言えたんだろ?

 それはすごいよ。普通言えないよ。

 しかも、新婚1年目の一年間なんて……とてもじゃないけど真似できないよ」


 と、林部長が寅之助を誉めた。



「言うには言いましたけど、全然気持ちがついていってないですよ。

 多分しばらくグレます……」


 と、寅之助が部長が頼んでくれた焼きなすをつつきながら、言った。



「そうさ、それでいいのさ。

 今回の事で三上君の人間臭さが見れて、良かったと思ってるよ。

 たまにはそういう時もあるさ……いつも完璧にしてたら疲れるしな。

 たまには思いっきりグレたらいいさ。

 多分、三上君がグレたって、やっと普通の人になるくらいだと思うよ」


 と、林部長が穏やかな笑顔で言った。

 


「部長……部長って、すごくいい人だったんですね」


 と、寅之助が部長の顔をまっすぐに見て言った。



「ハハッ! ひどいなぁ!

 10年も一緒に働いてきて、やっと今気付いたのか?」


 と、林部長が少し照れて、笑いながら言った。



「やっ、そういう意味じゃなくて、部長がいい人なのは知ってましたけど…… 

 ”す・ご・く・いい人” だっていう事に、今気付いたんです」


 と、慌てて弁解する寅之助。



「わかったよ。ハハッ! 

 そんなにほめられたら特別に、林家に代々伝わる ”結婚の奥義” を教えてあげるしかないな」


 と、林部長がご機嫌になって言った。



「えっ? ”結婚の奥義” なんてあるんですか? 是非教えて欲しいです!」


 と、寅之助が非常に興味を持って聞いた。



「“愛されたい妻、尊敬されたい夫” これぞ、結婚の奥義な~り~!」

 

 と、林部長は一人で日本酒を何杯か飲んでいたため、少し酔いが回ってきたのか、歌舞伎風に手振りもつけてそう言いながら、決めポーズをとった。



「ハハッ! そのポーズ似合ってますよ、部長!」

 

 と、寅之助が笑った。


 そのあと、林部長は ”夫が妻を愛する事” と、”妻が夫を尊敬する事” の大切さを実体験を含めて延々と話出した。それを聞いていた寅之助は、会社ではおしどり夫婦で有名な林部長が、実際に家庭では色々と苦労や人知れぬ努力がある事を知り、林部長に対する尊敬の思いを強めたのだった。


“今日はなんか、部長に救われたな。部長の言う通りだ。

 完璧な人間なんていない。自分の弱さも受け入れていこう。

 聖書にも『神は耐えられない試練はお与えにならない』と、あるし……“


 と、寅之助は愛するみなみには見せられない弱い自分を認め、目前に立ちはだかる試練に立ち向かう勇気が与えられたのだった。

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