接触
寅之助の突然のプロポーズから1週間後の、二人揃った休日。
婚約期間に突入した寅之助とみなみは、デートで訪れた公園のベンチに座って、のんびりしていた。
ベンチの前に広がる人工池には、ボートや子供用の乗り物が水面を揺らしながら、楽しそうに浮かんでいる。池の周りに植えられた木々の緑が、目にも心にも心地良い。
見上げると、青い空、降り注ぐ太陽の光、小鳥のさえずり、そよぐ風……
足元には、土、石、枯れ木、草花、蟻の行列……
様々な自然が、1週間働いて疲れた二人の心身を癒す。
人工池の周囲の遊歩道には、子供連れの家族や若いカップル、老夫婦、犬を散歩する人達などが行き交っていた。
「寅之助さん。今日は私、大事な話があります!」
と、みなみが神妙に会話を切り出した。
「なんだい?」
いつになく真剣な表情のみなみに、身構えながら寅之助が聞いた。
「あの……何回も言いますけど、プロポーズとても嬉しかったです。
私も、結婚するなら寅之助さんしか考えられません。
それで……えっと、あの……私、大切なことをこの間言い忘れてしまって……
もし寅之助さんが許してくれるなら、”今の仕事を定年まで続けたい” って、思っているんです……」
と、みなみがうつむきながら、少し小さめの声で言った。
「なんだ、そんなことかぁ!
珍しくみなみが思いつめた感じだったから、びっくりしたよ。
みなみにとって今の仕事は、生きがいのようなものなんだろ?
全然OKだよ。定年まででも、定年過ぎても続けていいよ。
僕も出来る限り、協力するからね!」
と、寅之助はほっとしながら、笑顔で答えた。
「あっ、ありがとうございます!」
みなみは、寅之助が思いのほか自分の事をよく理解してくれているのをひしひしと感じ、嬉しくて涙が出そうになるのをこらえながら答えた。
「あの……そういえば、みなみって僕に対していつも敬語だよね。
敬語じゃなくてもいいよ。もうすぐ結婚するんだし……」
と、寅之助が少し照れながら言った。
「あっ! 本当にそういえばそうですね? なんでだろう?
そういえば私、寅之助さんに対してはなぜか敬語になってしまうんです。
なんか尊敬する人の前では、自然と敬語になっちゃうみたいですね……」
と、みなみが言われて気付いた事実に、自分でも驚きながら答えた。
「ハハッ! そんな……なんか照れるな……
そんな事言われたら……本当にみなみはかわいいね!
僕の事をそんなに自然に尊敬してくれる人は、みなみが初めてだよ!
まあ、みなみが僕に対して敬語が自然体ならそれでいいんだけど……
なんか大正時代の妻みたいで、それはそれで面白いかも!」
と、寅之助がみなみに心から尊敬されている事を感じて、非常に嬉しくなり、照れ笑いしながら言った。
「へへっ……そんな事言われたら私も照れます。
だけど、寅之助さんって素敵だから色々な人に尊敬されたり、女の人からももてそうですよね?」
と、みなみも照れ笑いしながら聞いた。
「そんなこと全然ないよ! そんな事言ってくれるのは、みなみだけだよ。
僕はこの通り、暗くてパソコンオタク入ってるし、ストーカー気質だし、軽蔑されたり、特に女性からは敬遠されがちだよ……」
と、寅之助が正直に答えた。
「そんな、違いますよ! それ、寅之助さんの被害妄想ですよ。
みんな、尊敬してるから少し距離を置いてるだけだと私は思います!」
と、みなみが正直にフォローした。
「ありがとう。みなみがそう言ってくれるなら、まぁ、そういう事にしておこうか。ハハッ! でも、みなみこそそんなに可愛くて、もてそうだよね?」
と、寅之助が照れ笑いしながら本音で聞いた。
「えぇーー!!!??? それはないですよ!!!
私、寅之助さんに会うまで、全戦全敗、失恋クィーン、獲物にありついたことの無い肉食女子! そんな感じですから……
そんな事言ってくれるのは、世界でただ1人、寅之助さんだけですっ!!!」
と、みなみが語尾を荒げて言った。
「ハハッ! 面白い事言うね……みなみ、大好きだよ♡ 愛してる……」
と、言って寅之助は静かに両手でみなみの右手を握った。
「私も寅之助さんのことが大好きです♡ 愛しています!」
と、みなみも寅之助の両手の上に自分の左手を重ねた。そこへ人が通りかかって二人は慌てて手を離した。二人とも真っ赤になって、沈黙になった。
少し気まずい雰囲気から逃れるように二人が周りを見渡してみると、公園を行き交うカップル達が様々な手のつなぎ方をして歩いているのが目に入った。
握手をするときのような普通のつなぎ方。
小指と小指をからませるつなぎ方。
男性の指の一本を、女性が握り締めるようにしたつなぎ方。
恋人つなぎ。(5本の指全部の間にお互いの手をはめるようにしたつなぎ方)
それを見ていたみなみが、また神妙に切り出した。
「あの……寅之助さん!
私もあんなふうに、寅之助さんと手をつないで歩きたいです!」
と、指差した先には恋人つなぎで手をつないでいるカップルがいた。
「えぇーーー!!!?? あのつなぎ方?
無理、無理、無理。あんなつなぎ方したら、僕がやばいことになるから!
さっき手を握り合ったので、僕としては限界マックスだったから!」
と、寅之助が珍しく慌てふためいて答えた。
「えっ? どうしてですか?」
と、みなみが少し悲しそうに聞いた。
「えっ? どうしてって……あれだよ、あれ!
え~っと……みなみは男性のほうが性欲が強いことは知っているだろ?
その違いはコンビニに置いてあるエロ本の量で比べればわかりやすいかな?
女性用のエロ本なんて、男性用のエロ本に比べたら無いに等しい程少ないし、性犯罪も男性が加害者の場合が圧倒的に多いよね。最近はネット詐欺など、男性の性欲の強さを逆手に取った犯罪も増えているから、そういう意味での被害者は別として……
みなみが僕と手をつなぎたいって言ってくれたことはすごく嬉しいし、僕だって手をつなぎたいに決まってる!
それに僕はもっと深いつながりを、多分みなみの倍以上は求めていると思う……
だからこそ、あんなつなぎ方したら、そこからはもう抑えが利かなくて、罪を犯してしまう危険性が高まるんだ!」
と、寅之助が必死にみなみにその理由を説明した。
「そうなんですね。知らなくて、すみません……」
と、明らかに残念そうに落ち込むみなみ。
「この事については個人差があると思うから、どこまでなら自分は止まれるかで決めるといいと思うんだけど……
僕の友人で学生時代から7年間つきあって、その間結婚するまで一回も手もつながなかった奴もいるよ。あと、軽いハグやキスまでって決めていた奴もいた。
だけど僕は、さっき両手を重ねたのでかなりやばかったから……
もしかしたら普通のつなぎ方でつなぐなら大丈夫かもしれない……
でも、さっきのあのカップルのつなぎ方は、完全に僕の中でアウトだ!」
と、寅之助がまたしても必死に説明した。
「わかりました。私のほうこそごめんなさい……
でも結婚したら、あんなふうに手をつないでくれますか?」
と、みなみが切ない表情で寅之助を見つめながら聞いた。
「もちろんだよ。結婚したらたくさん、たくさん接触しよう!
それまでお互いに我慢しよう。今、いい例えを思いついた。
例えば天国に行くために天国行き列車に乗ろうと思ったら、決められた時間に決められたホームで列車を待ち、尚且つ列車を間違えずに乗ることが必要だろ?」
と、寅之助が結婚後の楽しみにわくわくしてきたのか、意気揚々と説明し始めた。
「そうですね……」
と、みなみはまだ切ない気持ちのまま相槌を打った。
「その時、男性は特急で、女性は鈍行と考えるとわかりやすいかな?
女性は途中で降りれるけど、男性は降りれない。
それに正しい時間やホームでないと、天国行きではなくて、地獄行き列車に間違えて乗ってしまう恐れも出てくるんだよ。
不品行(結婚前の性行為)や姦淫(結婚外の性行為、不倫)の罪はその人自信をとても傷つけるからね。それはまさしく地獄行き列車と言っていいだろう……」
と、寅之助が真剣に説明した。
「寅之助さんはやっぱり世界一素敵な人です!
その通りです。私の友達にも性的な罪で苦しんでいる人がたくさんいます。
産婦人科の実習にいった時、10代で未婚の母になって、子供を里子に出した人のカルテが山のように積んであってびっくりしました。
それに、妊娠中絶の数の多さにも……罪の結果ですね……
妊娠中絶は殺人ですから……まさに地獄です……
でもこの前、イエス様の十字架ですべての罪が許されるって、教会で聞いたんですけど……」
と、みなみが寅之助の説明に心から同意し、罪の許しについて聞いた。
「そうだね。すべての罪はイエス・キリストの十字架の血潮で許されたけど、だからといって罪を犯し続けていいという訳じゃない。
イエス様も、姦淫の現場でとらえられた女性に、
『私もあなたを罪に定めない。しかし、これからは罪を犯さないように』
と、言っているからね。
あと、僕が女性に気をつけてもらいたいのは、男性は視覚に弱いから、その事をきちんと知って、露出の激しい服を着て男性を誘惑しないように気をつけて欲しいと思うよ。罪に至る可能性が高まるからね。それに、簡単に身体を許してはいけないと思う。最近は結婚しなくても、女性が簡単にやらせてくれるから、男性は “結婚しない” という、責任の少ない、楽なほうを選ぶんじゃないのかな? 結婚前に身体を求めてくる男とは別れたほうが賢明だと僕は思うよ。
現に性が乱れてから、離婚、妊娠中絶が増えている。乱れた性で傷つくのは、自分達とその子供達だからね……
あと婚約しているからいいだろうという人もいるけど、僕はそれは嫌なんだ。 結婚前に身体の関係を持つ事は、クリスマスのプレゼントとケーキをクリスマス前に、もらって食べてしまう事に似ていると思うんだ。それをする事によって、実際にクリスマスになっても楽しみも喜びも半減どころかほとんどなくなってしまう。僕は結婚の最大の楽しみを、きちんと結婚してから楽しみたいんだ」
と、寅之助がますます真剣に語った。
「本当にその通りです! よくわかりました。
寅之助さんと手をつなぐのは、結婚まで我慢します!」
と、みなみが納得して笑顔で答えた。
「え~っと……ふつうのつなぎ方なら、大丈夫かもしれない。
今から試してみる? 僕がやばくなったらすぐに言うから……」
と、寅之助が少し照れながら言った。
「えっ? いいんですか? うれしいです!
じゃあ、やばくなったら教えてください!」
と、みなみが寅之助の申し出に心が踊るような喜びを感じて言った。
そして二人はベンチから立ち上がって、寅之助が手を差し出すと、みなみが嬉しそうに寅之助と手を “普通に” つないだ。
「大丈夫ですか?」
と、みなみが寅之助の顔をのぞきこんで聞いた。
「うん、あと3分くらいなら大丈夫そうだよ。
あんまり長いとやばいかも……」
と、寅之助は顔を真っ赤にしながら言った。
「わかりました。じゃあ、あと3分間こうして歩きましょう!」
と、みなみも顔を赤らめながら笑顔で言った。
そして二人は3分間、手をつないで公園を歩いた。
その時みなみは、寅之助の誠実さと愛をひしひしと感じて、幸せな気持ちで胸がいっぱいになった。
こうして、みなみの “手をつなぎたい” という願いは、なんとか叶ったのだった。